数十年にわたって多言語を勉強している人は、普通の人とは違うという意味においてカルト信者に近い。(笑)
失恋したとき、不安になったとき、絶望したとき『それ』を信じて必死にすがり付こうとする様子はカルト信者に近い。それは何語でもよかったはずだ。精神科医なら『不安症候群多言語学習依存症』と呼ぶかもしれない。英語にだけ、韓国語にだけ没頭するのは一神教外語カルトと呼び、多言語の場合はもちろん多言語学習カルトと呼ぶ。
だって、おかしいじゃないか。その国に行く予定もないのに、恋人がその国の人でもないのに、移民するわけでもないのに、仕事で必要でもないのにその外国語を勉強するのはおかしい。
彼は何かを信じている。この学習を続ければ、きっと道が開けると。毎朝起きると、闇雲にAnkiでインドネシア語を覚えていく、覚えが悪くてなかなか進まない。それでも彼はやり続ける。いつまでやるのか、他にやることはないのか? いつまでやれば話せるようになるのか? でもそれは、彼にとってあまり重要な問題ではない。周囲の人は彼のやっていることを理解できない。『それをやって、どないするん? それよりアルバイトとかボランティアとか魚釣りとか家庭菜園とかやった方がええんと違う?』と口には出さないが思っている。実はこの多言語学習が彼にとっては『人は何のために生きるのか』という問題にまで直結する重要な問題で、ここまでくると他人には理解しがたい。他人から見れば意味のないことを信じてやり続ける。だからこそカルトなのだ。
他人に危害を加えることはない。ただ同様のカルト信者にときどき難癖をつけたり、おちょくったり、自慢したりする。特に『聞き流すだけで英語がペラペラ』という異端カルトを目の敵にしてやり玉に上げ、批判する。また一神教外語カルトの『TOEIC』派に対しては『あのブドウはきっと酸っぱいに違いない』という態度を取ったりする。
これらのカルト信者は、もともと右翼的な考え方をしていても、多言語を学んでいくうちに、わけもわからず外国人を批判することはなくなる。辛辣なことは言ってもその国に何かしらのシンパシーを感じるようになる。良いところと悪いところの両方を知るようになる。これが効用といえば効用かも知れない。
Armada - Asal Kau Bahagia (Official Lyric Video)