さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

領土・主権展示館 ロシア編 1

2024年02月11日 | 関東甲信越


ここは霞が関。俺には全く縁のないところで、通過はしても降りた記憶もない。
今日はネットでたまたま見つけた「領土・主権展示館」なるものを見てやろうと
来てみたのです。なんか胡散臭い名前だよねえ(^益^;


入館は無料。「内閣官房領土・主権対策企画調整室」なんてところの管轄だ。
つまり自民党が主導して作ったってことか。だいたい内容の想像はつくが。。。


ロシアとやりあってる北方領土、韓国との竹島、中国との尖閣諸島の3つのエリアに
分かれていました。ほぼパネル展示。ちらほらと映像がありました。ではまず
北方領土から。

*ちなみに俺は日本人なので、領土問題で対立する3国の肩を持つつもりはさらさら
ありません。ただツッコミどころ満載の内容だったので、日本側の理論武装をよりよい
ものにするためにツッコまれそうなところを少しばかり指摘します。ガンバレ日本だよ。

まずは江戸時代。北海道にはアイヌなどたくさんの少数民族が暮らしていましたが、
武力を背景にして江戸幕府が探検隊を派遣していきました。そして各地に拠点となる
番所を設置。ロシアも同じようにパラパラと来ていました。千島列島(クリル諸島)は
お互いチョロチョロ来ていたわけです。

江戸幕府の先方隊が、択捉島に標柱を立てたと写真を展示しています。ずっと住んでいた
原住民がいるのに最初にそんなのを立てたら自国領土?それだとアメリカ新大陸はコロン
ブスのもの?ちなみにコロンブスはジェノヴァ生れで、スペイン王室との契約で船を出した
が、その費用はいろんなところから調達しました。その出発の際の契約では、新大陸の
取り分を決めています。それでいいのか^^;

ルソーは『人間不平等起源論』(1755)でなかなか鋭いことを言っています。

ある土地に囲いをして、「これはおれのものだ」と言うことを思いつき、人々がそれを
信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。杭を
引き抜き、あるいは溝を埋めながら、「こんな詐欺師の言うことを聞くのは用心したまえ。
産物が万人のものであり、土地がだれのものでもないということを忘れるならば、
君たちは破滅なのだ!」と同胞たちに向かって叫んだ人があったとしたら、その人は
いかに多くの犯罪と戦争と殺人と、またいかに多くの悲惨と恐怖とを、人類から取り除いて
やれたことだろう。

一理あるよね。実際には「詐欺師」ではなくて、だいたいは武力行使による強奪みたいな
もんですが。しかしその「力を背景にした権力支配」を私は全面否定をしません。それは
現実には必要とする。未開時代には私が拾ってきたリンゴを持ってたら、力の強い奴に
強奪されてもいたしかたない。だから人々の権利を守るルールを作った上で、それを維持
するために武力を行使できる警察機構のような「権力」、すなわち国家が必要なんだと
ホッブスが『リヴァイアサン』(1651)で言っています。権力による統治を策定するなら
国家、そして領土を確定しなければ。

しかしその領土を含めて「所有権」というものも存在する。野生のリンゴの木を見て、
「これ全部俺の!」というのはそこにいるまわりの連中が納得しないでしょう。しかし
せっせと土を耕し、リンゴの苗に長年水をやって育てたリンゴの木なら、その実はその人の
ものでしょう。「きちんと手を加えて労力を注いだものはその人のもの」とロックは
『統治二論』(1689)で論じ、私はそれに同意します。

そうすると、沢山の人を移住させて番所を作り、その地で農業産業を発展させて実効支配
したもの勝ち? もともとそこにいた原住民はそれを「侵略」というだろうがなあ。。。

1849年に蝦夷地を探検した松浦武四郎の日誌によれば、北方領土の国後や択捉には日本人
商人が散在していて、原住民に対する圧政・略奪めいたことをしている連中には原住民の
蜂起・反乱があったり、ロシアの軍艦も来ていて小競り合いがあったりという記録が
あります。松浦はそういう現状を見て回り、幕府に対して「原住民に対してフェアで
きちんとした対応をしないと、彼らはロシアのほうがまし」という気持ちになっちゃうよ
と進言していますが、結局それが聞き入られることはありませんでした。当時莫大な
費用をかけて植民地統治をすれば日本になってた可能性もありますが、そんな余裕が
幕府にはなかったんですね。

ちなみに1889年に北海道を一周し、北方領土を含めた千島列島まで旅をした英国人旅行家の
アーノルド・サヴェジ・ランドーの旅行記によれば、北海道のアイヌは日本語を理解するが、
クリル諸島(北方領土)のアイヌはロシア語を話し、その多くはロシア正教のクリスチャン
だったと言っているぞ。ウウム、ちと旗色が悪いなあ。。。

しかしその前の1855年に、地元民の頭越しに「日魯通好条約」というのが日本とロシアの
間で結ばれ、「北方領土は日本のもの」という合意がなされました。このあたりから
強国による一方的な領土確定がされるようになってきます。その後1875年に樺太はロシア、
千島列島は全部日本のもの、という「樺太千島交換条約」が結ばれます。そして1905年、
日露戦争で日本が勝ったもんだから、「ポーツマス条約」によって千島列島全部に加えて
樺太の南半分も日本のもの、ということになりました。完全に嫌な「力の論理」です。

(つづく)



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