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昨日、佃と月島の昔ながらの2軒の酒屋さんでどちらも袖看板が「月桂冠」だった、ということに触れました。
片方は「鹿島酒店」さんということもあり、以前あった新川の問屋「鹿島屋」と月桂冠との関係?と適当に書いてしまったので、ちょっと調べてみたのですが、全然違うようです。
(以下の記載は主として二宮(2013)「明治期から大正期における灘酒造業」による)
伏見の月桂冠(大倉さん)、明治の中期までは小規模な醸造家で、1890年の東京都の取引は、東京下り酒問屋との取引は以下の7問屋、400石程度だったようです。
山田五郎助
升本喜八郎
中井新右門
富士西
三橋甚蔵
高井房太郎
丸星鈴木
ちなみに「升本喜八郎」は升本茅場町店(かやばちょうだな)。
この頃、伏見の酒は灘酒に比べちょっと低く見られていたようで、当時は「月桂冠」ではなく、下り酒問屋毎に銘柄(旗印)をつけていたようで、ウチのは「養気」と「秀福」という銘柄。
その後、月桂冠さんでは、その頃13歳!で当主となった大倉恒吉さんがそもそもの酒質の向上や高品質の瓶詰清酒の開発、「月桂冠」の商標登録、そして旧来の慣習にとらわれない市場開拓を推進。
特筆すべきは、「明治屋」との月桂冠瓶詰一手捌を通じた全国への販売で、これらの結果、昭和の初めには2万5千石近くまで拡大したそうです。
(月桂冠さんのホームページでも、「一代で事業規模を100倍にした『中興の祖』」と特設ページが作られていました)
そんな中、いわゆる下り酒問屋(組合)とはちょっと疎遠になったようで、上掲した二宮(2013)では、ドル箱である明治屋一手捌の月桂冠瓶詰の二次特約店の表を見ると、それが感じられます。
この表、結構興味深くて、「味噌醤油商」のところには現在の国分さんの前身の「国分商店」や、升喜さんの前身「升本喜三郎」などの名前が見られます。
また、「洋酒缶詰品商」のところでは同じくコンタツさんの前身の「近藤辰次」などが見られます。
なるほど、現在、ウチがこうした問屋仲間から頒けて頂いているのは、こうした経緯なんですね。
勉強になるなぁ、升本総本店。
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