差塩と趣味の世界

故郷 福島差塩の想い出と徒然なる盆栽奮闘記

末生りのキュウリ

2024年08月15日 | うんちく・小ネタ

 グリーンカーテンとして植えたキュウリ、4㍍近くまで伸びてしまった。

 アップしたのはうらなり(末成り)の曲がったキュウリである。うらなりのものは、形も悪く味も劣ると言うが、果たしてどうだろうか。子供の頃キュウリ畑でみたのは、こんな形の物が多かったように想う。

【語り部】 今日は終戦記念日、この語り部コーナーも一区切りと言うことで、我が兄弟での末生りの爺の戦前・戦後のあゆみの1ページを記して終わりとする。

 

  =国民小学校へ小学校へ=

 私は、昭和18年に国民学校に入学した。その前年、学
校が火の不始末で焼失してしまったので我が家の空家と蚕
室用に使っていた家が校舎だった。当時は、戦争中何しろ
「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」「足らぬ足らぬ
は工夫が足らぬ」というような標語が唱えられた時代であ
る。ましてや一寒村では校舎を建てる工面など出来なかっ
たのであろう。そんなわけで学校に入学した喜びは他の友
と違っていたように思う。
 語る会での話を参考に記憶をたどりながら当時の学校生
活で印象に残っていることを記してみたい。
 戦争遂行で総動員をかけていた時代、学ぶ内容も今とは
全く違い、おとぎ話、神話、そして戦争に関わる言葉がど
んどん出ていた。例えば、二年生の教科書では、巡洋艦、
駆逐艦、潜水艦、航空母艦などがひらがなで出ていた。ま
た、運動会での騎馬戦などでは、「敵は幾万ありとても、す
べて烏合の勢なるぞ……」と歌って競い合った。
 2年生のウタノホンには、神国という題で
♪日本よい國 きよい國 世界に一つの神の國 
 日本よい國 強い國 世界にかがやくえらい國
とあり元気に歌ったものである。
 3年生では、軍犬利根の話、シンガポール陥落で昭南島
と呼ぶようになった話、ゐもん袋や三勇士などの話も載っ
ていた。もっとも三勇士を学ぶ頃は終戦になり学ぶことは
なかった。

 勉強のほかに、わずか2年有余の間に出征兵士の壮行会
参加などもあった。手作りの国旗を持ち、鉢巻きを締め、
出征兵士とともに鎮守の森諏訪神社へ行き壮行会を行う。
 そこでは、出征兵士の勇ましい挨拶「鬼畜米英」などの
言葉に心躍らせたものである。壮行会が終わると約2㎞の
道矩、村はずれまで「行くぞロンドンワシントン」や「勝っ
てくるぞと勇ましく」などという軍歌をとぎれることなく歌
いながら送った。「父に死んで還れと励まされ……」(露営
の歌)なども歌ったことを記憶している。出征兵士はどう
聞いていたのだろう。そうした兵士も二度と故郷の土を踏
むことはなかった方も少なくない。
 学校生活で次に印象に残ることは、旗日の儀式である。
紀元節(建国記念日)・天長節(昭和の日)や明治節(文化の
日)などの日は登校し、天皇陛下・皇后陛下のご真影と教
育勅語を収めてある奉安殿から校長先生が紫の房を広げ桐
箱から教育勅語を取り出し恭しく読むのを厳粛な気持ちで
聞いたものである。なお、両陛下のご真影は、当時どの家
庭でも掲げられていた。我が家は上段の間に銀色の額に入
れて飾ってあった。
 ウタノホンに載っていた式典歌は勿論、教育勅語は今で
も部分的に諳んじることが出来る。歴代天皇も神武天皇か
ら当時の今上天皇まで覚えさせられた。皇居遥拝や奉安殿
に一礼するなど天皇陛下を「現人神」として教育されたので
ある。
 ウタノホンにあるように「神国日本」は勝つ、そのうち神
風が吹いて敵を打ち負かすと信じていたが、町に1トン爆
弾が落とされたとか日立が艦砲射撃されたとかの大人の話
で、やがて戦況が芳しくないということは子供心に知るよ
うになる。
 時と共に制空権を失いつつある中、「トウブグンカンク
ジョウホウ(東部軍管区情報)」の空襲警報の放送があると、
間もなくB29が飛行機雲とあの独特な爆音を響かせて今ま
で見たこともない高さで飛んでくる。また、連日のように
爆弾をたくさん積んだグラマン艦載機が編隊を組んで行き
は高く飛び、郡山方面に投下後の帰りには身軽になったの
であろうばらばらになって低空飛行、駅や鉄橋、蒸気機関
車の給水塔などを目掛けての機銃掃射をするのを建物の陰
から目撃する。今でもプロペラ機の音を聞くと当時を思い
出す。
 もはや勉強どころではない。家の近くの羽黒山に生徒が
全員避難できる防空壕が掘られ、防空壕の入り口には爆風
除けにと3 〜4mほどの高さの小山が築かれた。母に作っ
てもらった防空頭巾をかぶり避難訓練などさせられた。そ
うこうしているうちに都会からの疎開者が親類・縁者を
頼って次々と疎開してきた。そうした人々は粗末な掘っ立
て小屋を建て住むようになる。当然のことながら子どもた
ちも増え学校も手狭になったことを覚えている。
 先生からは、米軍が蒔くビラや品物は決して拾わないよ
うにと厳しく聞かされたのもその頃である。
 大人たちは、わが家のグミの大木を敵に見立て竹やりで
敵を刺す訓練を真剣にするようになり、アメリカ軍が上陸
してくるという噂を耳にする。孟宗竹で作った竹やりは矢
先に油を塗って土間の梁に掲げられていたのを覚えている。
 3年生の夏休み、広島に新型爆弾が落とされ百年は草木
も生えないなどという噂も流れた。8月15日防空壕の補強
材にと上級生と木を切りに行き、帰ったら日本は戦争に負
けたということを大人たちの話から知る。悔しくて号泣し
補強材を放り投げたシーンが今でも脳裏に浮かぶ。
 その年の秋には、国語や算数の教科書の墨塗りを先生
に指示され素直に従った。その後、原稿用紙を短冊に切っ
て、別の言葉を記して貼り付けたりする。修身もなくなり、
学んだことは誤りだったと認識させられた。体操の時間な
どは、「気を付け」とか「前へ倣え」とかの号令はいけない
などと言った時もあった。後に復活したが習字の時間も一
時なくなった。こうしたことを指示する先生はどういう気
持ちだったか、おそらく苦悶に満ちていただろう。
 これは教育界ばかりでなく戦意高揚を煽った行政当局は
勿論作家、詩人、音楽家、画家等いわゆる文化人と言われ
た人々の世界でも大きく転換がはかられたという事を後に
知る。「泣く子も黙るマッカーサ―」の命令による影響も多
かったのだろう。
 こうして国民学校の教育は、いつの間にか学ぶ内容も全
く新しくなったのである。
 4年生になると、粗末な新聞紙のような大きな紙が配ら
れ、それを折り畳んで切り紙縒りで綴じあわせ教科書とし
て使ったものである。物不足で紙の質も悪く、ランドセル
の中で隅が擦り切れ苦労した。
 ローマ字の学習も始まり、物語をローマ字で書いた本も
買わされた。
 5年生になると国民学校から新制小学校となり、歴史学
習も以前のものとは全く違った「くにのあゆみ」という教科
書が配られ天皇や神話の世界はすべてなくなっていた。貝
塚や石器や土器のことが歴史勉強の始まりとなった。
 因みに「くにのあゆみ」下には21年1月の詔書より引用し

 「 天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ
優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有
ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ」
 という天皇陛下のお言葉が載っている。(復刻版より引
用)
 「現御神」と崇め奉られていた天皇陛下も、終戦後は象徴
天皇と教わり、その変化に違和感を覚えたものである。子
どもには「しょうちょう」の意味がわからず先生は「山で言
えば富士山のようなものです」と言ったのが印象に残って
いる。民主主義という言葉も新鮮に聞こえたのもその頃で
ある。
 戦争の真只中で始まり、物不足の極みを体験し、入学
した時の教育と卒業するそれとでは真逆の小学校時代だっ
た。神国日本から民主国家日本へと大きな流れの中で小学
校時代を過ごしたのである。
 終戦後2年目にして、シベリアに不当に抑留された長兄
も、一時は事故で亡くなったとの知らせもあったが、極寒
の地で過酷な労役など強いられ障害者となって帰還した。
その時の母の涙が忘れられない。また、ようやく校舎も新
築され通学の楽しみを味わうこととなる。その母校も今春、
村の過疎化に伴い閉校してしまった。
                平成27年春記

 本稿は、我が老人会で発刊した「湖畔の轍」に投稿したもである)