鉢植えのハゼノ木、早くも一部紅葉始めた。真っ赤に染まるのは間もなくであろう。輝くような朱色が美しい。もみじと違って年によって異なることもない。
野山でいの一番に紅葉するため多くの歌に詠まれている。 俳句の世界では櫨紅葉とかいて「はじもみじ」ともいうそうだ。
紅葉始めた木、またまた近づく強力な台風に痛めつけられてはと玄関に取り込むことにしよう。小鉢や吊るしものの対策を考えなくては、、、。とにかく大過なく過ぎ去っていくことを祈るばかりである。
昨日は 1927歩
鉢植えのハゼノ木、早くも一部紅葉始めた。真っ赤に染まるのは間もなくであろう。輝くような朱色が美しい。もみじと違って年によって異なることもない。
野山でいの一番に紅葉するため多くの歌に詠まれている。 俳句の世界では櫨紅葉とかいて「はじもみじ」ともいうそうだ。
紅葉始めた木、またまた近づく強力な台風に痛めつけられてはと玄関に取り込むことにしよう。小鉢や吊るしものの対策を考えなくては、、、。とにかく大過なく過ぎ去っていくことを祈るばかりである。
昨日は 1927歩
琉球朝顔(オーシャンブルー)、毎日数輪ずつ咲いてくれている。咲きたては、その名の通り濃いブルーだがやがて紫色となり翌朝には褪せて淡い朱色となり萎れていく。花言葉に、はかない恋とあるが納得する。
はかない恋といえば、小野小町の歌に 「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 」がある。絶世の美女と言えども、その美貌を保つことはできないということか。
今朝のオーシャンブルーを眺めてそんなことを、、、。
昨日は 6957歩
久しぶりの快晴(今月三日目)、空を仰いで拝みたくなるような今朝の気持ちである。
素朴な自然崇拝をもとにした宗教を原始宗教というそうだが、 宗教戦争に明け暮れた歴史を持つ多くのそれらに比べてよほど純な感じがするし、巨木の桜や奥山の巨岩に手を合わせ祈りたくなる奥深い人の心の方が宗教的であると思う。八百万(やおよろず)の神を信じるからであろうか、、、。
原始という言葉を文明と対比し、未開とか野蛮とかいう意味でつかわれるならば原始宗教という言葉はなじまない。
やや理屈っぽくなったが、さてさて外に出て種蒔きや剪定作業に取り掛かることにしよう。
昨日は 7521歩
電話機のディスプレイ赤の点滅、今日の予定欄に誕生日の表示あり。あまり意識もしてないが今日は戸籍上の誕生日であることを知らされる。 満82歳、めでたくもありめでたくもなしということか。
小さな我が子の誕生日にはケーキを買い祝ったが、、。まあ、日々健康でこの齢を迎えられたことに感謝しながら祝うこととしようか。
それにしても時の流れの速いこと歌の文句ではないが、疲れを知らない子供の様に去っていくことを意識させるこの頃である。持ち時間が少なくなったからであろうか。有効に使わなくては、、、、。
小さな秋 ウメモドキの赤い実
昨日は 5501歩
恨めしい秋雨前線の影響で今日も雨である。庭のあちこちにこぼれ種で生えた松葉ボタン、かわいそうにうなだれて今日も咲きそうにない。花期が間もなる終わろうとしているのに、、、。花期を延ばし愉しむために寒さに弱いこの花、この地では越冬が無理と言われるので鉢上げしてそれを試みてみるか。
アップしたのは晴れ間に開いた八重咲きの花である。
♪ をりをりそそぐ秋の雨
木の葉、木の實を野に、山に
色さまざまに染めなして
をりをりそそぐ秋の雨 ♪
雨空を眺めては、こんな文部省唱歌を歌った遠い昔を想い出すのである。
昨日は 5215歩
秋の訪れとともにたわわに実った甘柿食べごろとなった。今年は小粒だが豊作である。酷暑の置き土産であろうか、早く熟し例年になく糖度が高いように思う。涼しくなった今となってはあの酷暑の日々にも感謝ということか、、、。
さて、来月の集いの行事は、T氏の快諾を得てヴァイオリニストを招いてT氏宅でホームコンサート計画している。曲目が届いたのでお知らせの案内を作成しよう。
因みに曲目は、以下の通り。
・ロマンス ヘ長調 ベートーヴェン
・ヴァイオリンソナタ 第5番ヘ長調 「春」 ベートーヴェン
・愛の喜び Fクライスラー
・愛の悲しみ Fクライスラー
・チゴイネルワイゼン PDサラサーテ
いずれも親しみやすい名曲ばかりである。技巧を要し難曲のチゴイネルワイゼン愉しみだ、、、。
昨日は 7136歩 {60数年前に求めたヴァイオリン、たまに愉しむ}
我が庭にも小さな秋がやってきた。今朝新聞とりに門まで行くと衰えた嗅覚にも微かな甘い匂いを漂わせている金木犀に気づく。狭い庭には繁茂力の強い木であるため年々強く剪定しているが、花をつけ秋の風物詩として季節の移ろいを知らせてくれる。
花は、濃い緑葉の中で小さな小さな金平糖のような形で咲くのである。まさに小さな秋ということか。
ところで雌雄異株のこの木、咲いているのは雄株のみという。雌株を見たことがない。実をつけないのもうなずける。
昨日は 8063歩
グリーンカーテンとして植えた琉球朝顔、枝分かれを促す芽摘みをしなかったため2本ほどが徒長しその役割は果たせなかったが、今朝2輪初めて咲いてくれた。 お彼岸の中日を待っていたかのようである。先祖様の知らせかなどとロマンを求める。歳だなぁー、、、。
さて、今日はお先祖様を想い起し感謝する日である。郷里のお墓参りは出来ないが、仏壇に御萩を供え日頃の健康を守ってくれてる先祖様に感謝し真心のこもった供養をしよう。
昨日は 7453歩
一時アスファルトやコンクリートの隙間に生えた大根を「ど根性大根」として持て囃されたことがあった。
我が家の斑入りヤブランもそれに負けじと池の端と庭石の僅かな隙間に生えて花をつけているのでアップしてみた。こぼれ種で生えたのであろうか。間もなくあの可愛い実を付けてくれるであろう。
子供の頃、ヤブランの実を篠竹で作ったテッポウに摘めて野山を駆け巡って戦争ごっごしたことがある。懐かしい想い出の一つであるが、ど根性ヤブランに負けじと頑張るか、、、何を?。
昨日は 2323歩
ホームに入ることとなった兄が世話しきれくなったので赤松の寄せ植え鉢を引き取ることにした。暫らくは愉しんでも、いずれどなた様かに引き継いでもらいたい鉢の一つである。
また、郷里の山から採取したブナの鉢も頼まれている。50年も愉しんだ木であり、思い入れも一入であろう。この木は、将来郷里の産土神の祠周辺に移植してやろうと思う。
考えてみれば、自身も物の断捨離を勧めて行かなければならない歳である。数ある盆栽もそうである。
昨日は 9081歩