伊勢の皇大神宮を参拝してから電車で奈良に行きました。
何時も真ん中に私が居ます。
パソコンとの生活が早20年になり、載せた沢山のピクチャは
思い出を瞬時に見ることができます。
1941年小学6年生の時、巻紙に描いた、伊勢京都奈良への修学旅行の
絵巻物を載せてあるので懐かしく眺めました。
1941年に太平洋戦争がはじまり、社会情勢は厳しく、
遠足で汽車には乗れないので、武蔵野市と近隣の学校の6年生は
橘丸という3000トンの船を借りて、2泊3日の旅行をしました。
三人の真ん中が私、ピンクのセーターはMちゃん、藤色のワンピースは
Sちゃん、家が近く、同じクラスでした。
仲良しの二人はもう天国です。
3月7日の夕方買い物に出た時、気になって、
また サクラを見に中央公園に寄ってみました。
さくらの木の下は、花弁を敷き詰めた床のようで奇麗です。
でも桜の枝には、まだ沢山の桜が咲いていて青い葉が奇麗です。
しばらくベンチに座りウットリ眺めました。
今まではこんな余裕がなかったのでしょうか。
人生90余年が過ぎ桜が私を呼んでくれたとしか思えません。
何より健康で、脚が良いことが自由に外出できるのだと思います。
目下昔の日記帳を出して、過去の記録文を作っています。
やりたい事が沢山ありますが、縫物は針に糸を通すのが大変で
諦め、布地を眺めてしまい込む状況で残念です。
気力、体力、眼力が低下したら、諦めるしかないので
欲張らないことにしました。
3月14日 17時0分 公園の桜 この花の色に魅せられた私です
寒緋サクラに目白が止まって花の蜜を吸っているらしい様子で
2月28日 娘の撮った写真です
長い人世を歩んできた私の
一番古い記憶は1933年5月に自宅で弟が生まれ、お産婆さんが取り上げ
るのを隣の部屋から覗いた時ですから3歳10か月頃です。
4歳の頃住んでいた家の門から玄関までのアプローチに柊(ヒイラギ)の木がありました。それは応接間の窓の下で泥棒よけだったのでしょう。
葉のふちが、のこぎりの刃のようにギザギザになっているので触ると痛い葉の感触は何十年経っても忘れないものです。
1941年12月8日第二次世界大戦が勃発、
1944年私が15歳の時、女学校の授業は中止、
昭和飛行機工場に勤労動員され、飛行機造りの一端を担いました。
都内の空襲が激しくなり、埼玉県の川越市に疎開し、川越高女では
北満の兵隊さんの軍服を縫いました。
川越から3月10日の東京大空襲の真っ赤な空が見え
今も目に焼き付いています。
1945年7月に父の郷里の広島県の山間部に疎開し、(まえにも書きましたが)
8月6日に広島市に原子爆弾が落とされ、40キロも離れているのに
ぐらっと揺れてピカッと光を受けました。
8月15日に終戦となり9月に帰郷,東京都下の吉祥寺の家に戻りました。
記憶は薄れていくけれど、日記帳など書いたものは残るので
年を重ねても貴重な記憶となり、過去を思い出しております。
昨日行った中央公園の桜が見事で、改めてサクラに魅入りました。
良く晴れた青空に薄紅色のサクラが満開、幸せな気分に包まれました。
目が悪くまぶしくて、ピントが合わないけれどシャッターを押して写しました。こんなことは初めてですが記憶に残ると思いました。
2023年 3月6日 15時33分
昨日、船橋本町中央公園の早咲きの寒緋桜の花が散らないうちにと、夕方なのに
公園に行ってみました。
目が悪いので、ぼけて見えましたが
とにかく風情ある桜を写しておきました。
公園には小さな子供たちが母親と遊んでいて、桜を見る人は一人もいません。
来年も桜を見に来られるかな? と超高齢者の私は
しみじみと考えながら、桜を眺めて楽しみました。
晴天の朝の清々しい気持ち、昇る朝陽の荘厳さ、
マンションの7階に住み、ベランダから見える大自然
昇る朝陽と周囲の赤い空に、眼と心が奪われました。。
2-27 6時13分頃