つれづれ日記

心と目の記録

市川 房江さんと70年前の写真

2016-06-30 14:51:36 | Weblog

昭和22年の夏、市川さんは戦争未亡人のために編み物の講習会をひらきました。 市川房江さんの建物(ご自宅か、後の婦選会館)の前で、その関係者と受講者全員の写真です。母と私も入っています

 

 今朝(29日)の朝日新聞に「婦選の礎 ひっそり幕」 と題して、日本婦人有権者同盟は三月に七十年を超す歴史に幕を下ろしたと言う記事がありました。

女性参政権の獲得に尽くした故市川房江さんが設立した婦選会館が建てられる前の、昭和22年(1947年)の写真があるので載せました。

後ろの建物は、四谷か代々木辺りの焼跡に建てた木造の家で(後にバラックと言われた)講習会が開かれたのです。

母は結婚前から市川さんと友人だったので相談を受け、知人の編み物の先生と助手を福島からよび、1か月位我が家にお泊めして、「機械編みの編み物」の講習会のお手伝いをしました。

眼の前は見渡す限りがれきの焼け野原でした。

 

皆明るい笑顔で写っていますが、終戦後2年目の1947年は食糧難で

やみ米を買わないと生きていけない時代でした。

2月25日に埼玉県の八高線高麗川(こまかわ)付近で、満員の買い出し列車

の4両が転覆。買い出しの乗客184人が死亡、約800人が負傷。満員のため

にカーブを曲がり切れなかったことによる事故でした。

当時は列車の屋根の上にも大勢の人が乗り、デッキにぶら下がり列車は走っていたのです。

10月11日には配給生活を守った山口良忠東京地裁判事は栄養失調で死亡しました。

戦後の混乱期には嘘のような現実が沢山ありました。

 

 


ストロベリームーンを見ました

2016-06-21 16:04:33 | Weblog

昨夜、ベランダに出た娘に呼ばれたので、直ぐに出てみると南の空に美しいオレンジ系の赤い満月が煌々と照っていました。。

急いで娘がカメラで月を撮り、私は小さなカメラで位置確認の風景をとりました。

今朝の新聞の一面に、年に一度の「ストロベリームーン」であると紹介され、写真が載っていたので驚き、幸運に感謝しました。

   撮影 2016年6月20日、午後7時19分

カメラで普通に撮ると赤い色が出なくて残念です。

太陽が1年のうちで最も高く上がるこの時期は、満月は最も地平線に近くなり、

夕陽のように大気の影響で赤っぽくなるのです。

ストロベリームーンという名前は、アメリカのインデアンが苺の収穫の季節に

赤い月が見えるのでつけた名前に由来があると言います。

日本の夏至は21日ですが、アメリカ時間の「夏至」と「満月のストロベリームーン」が

49年ぶりに重なるとあって多くのメディアに取り上げられているそうです。

この「ストロベリームーンを見ると幸せになれる」と言い伝えがあり、偶然に見ることができ本当に嬉しくなりました。

。追記 6月22日
翌日21日に娘が撮った月は、やはり白っぽく写りました。

20日のストロベリームーンの写真は実際に目で見たほど赤くはないけれど、黄色く周囲は赤っぽくきれいです。

手持ちでとっさに写したストロベリームーンなのに良い記録が残りました。

   撮影 2016年6月21日 午後8時48分

 

 

 

 

 


田植えの季節

2016-06-18 17:52:50 | Weblog

  女学校5年生の時に描いた田植えの絵です

四年生の夏に戦争が終わり、お米の配給は遅配や欠配になり、代わりに甘藷や大豆が配給されました。、

食糧難の時代でしたが、失った時間を取戻すように女学校生活をエンジョイし有意義な日々を過ごしました。

昭和22年にN女子大に入り、1年間は目白でなく神奈川県の西生田の校舎で学びました。

当時GHQ(連合国軍総司令部)の指令で「農地制度の改革」が行われ

学校の敷地内にある田んぼは作農しないと国に買い上げられてしまうのです。

生徒が田んぼに入り田植えをしました。素足でドロドロの田んぼに入りヒルに吸いつかれて取り除くと真っ赤な血が出ました。

夏には田の草取りをし、秋に収穫した時の喜び、たわわに実った稲の束を棒に掛けたまえで、写した写真が残っています。


72年前の日記より

2016-06-09 15:15:53 | Weblog

昭和19年の私の日記と、文集「飛行機工場の少女たち」の写真です。

飛行機工場での思い出が頭の中から消えない私は

72年前の古びた日記帳を出して何十年振りに読んでみました。

忘れていたことが細かに鮮明に書かれ、日記は先生が毎週点検して

印が押されて書き添えもありました。

工場の入所式は7月29日で、翌日から飛行機や工場の見学

飛行機を作る作業の基礎の実習です。

机に据えられた万力に金属を挟み、ピーピーという笛に合わせてハンマーを振り上げ

鋲打ちをします。やすりをかけたりドリルで穴をあけたりしました。

8月10日に職場の配属が発表され私は倉庫での準備係です。

主に棒管材の仕事をしましたが、注文を受けた直径のサイズの鉄棒やジュラルミンの管など

を高い梯子の上のほうまで上がり、棒管材を引き出し、持って梯子を下りるのが

とても怖くて足が震えました。

注文書の規格に合わせて、グラインダーでその長さに切り、送り札を付けます。

グラインダーの刃で金属を切ると火花が出て、その音と金属臭はひどいものです。

果てしなく広い飛行場内にはいくつもの工場があり、工場からの量の多い注文は、

鋼材を倉庫に取りに行き、リヤカーに積んでかなりの距離を運びます。

3人位で重いリヤカーを一人が引き、他は後押しをして交代しますが

女の子にはとても重労働です。日記には体と足が疲れたと毎日のよう仁書いてありました。

届けた鋼棒は鋲やネジにも加工されると知りました。

11月になると空襲が激しくなり、空襲警報が出ると仕事を止めて防空壕に入ります。

もしもの事を思い、皆で海ゆかばを歌いました。

夜は警報が出るので寝られない毎日です。

11月29日の夜の空襲で庭の防空壕に入り高射砲のけたたましい音を聞きましたが

警報が解除されて外に出ると東京の空が赤く見えました。

神田、日本橋、大森が空襲でやられたのでした。

吉祥寺は何もなく終戦となり幸運だったと思いました。