一昨日は遅く買い物に出たので、帰り道は日が暮れ始めました。
海老川沿いを歩きながらふと空を見あげると、
お月さまが奇麗で、思わず小さなカメラに収めました。
下に木星 その下に金星が輝いていました。
2月23日 18時17分
一昨日は遅く買い物に出たので、帰り道は日が暮れ始めました。
海老川沿いを歩きながらふと空を見あげると、
お月さまが奇麗で、思わず小さなカメラに収めました。
下に木星 その下に金星が輝いていました。
2月23日 18時17分
船橋大神宮の門前町として発達した本町通りは、
私が日頃買い物に行く道です。
本町通りと並行する次の道は御殿通りで
その途中にある中央公園の桜が見事です。
1月から咲いているので紅梅かと思っていました。
1月22日夕方に撮影、花が満開でとてもきれいでした.
木の幹に 寒緋桜と表示されていました。
御殿通りの名前はこの道に面して、
将軍家の御殿が建てられたことに由来しています。
徳川家康と徳川秀忠が宿泊し
東金 佐倉地方に狩に出かけたと説明書に書いてあります。
薄紅色の寒緋桜を見上げながら、
当時の船橋のようすを想像し楽しみました。
昨年12月4日、朝目が覚めると視界がぼーとしていました。
新聞を見ると活字がグレーでぼやけていますす。
健康体で、インフルエンザ以外、90年余病気をしたことがない私の
弱い部分は目ですから必死でしらべました。
1980年代に角膜の手術をして以来、眼科に通っています。
2013年には、左目の翼状片の手術で東京歯科大の総合病院に入院
島崎潤教授の手術を受けました。
偽翼状片切除、結膜弁移植、羊膜移植。
手術前から、目を自分でカメラで撮り、術後までを記録してあります。。
2か月に一度くらいの割で、
下総中山のみやけ眼科に定期検診に行つていますが
先日の検診で、眼底をカメラで撮った画像を見せて下さり
とてもきれいですと言われ、大変嬉しくなりました。
それなのに活字がグレーなのは、白内症だからだと思います。
白内障は80歳で100%と検索で見たので、93歳を過ぎての私の
当たり前の現実らしいのです。
今朝は両目とも、ぼやけた塊が見えましたが
二時間くらいで消えました。
目が見えるということは、誠に有難いことです。
この頃、過去の人生について改めて確認、
しまい込んだ日記帳や書類を出して読んでいます。
子供時代の戦前戦後の生活、結婚してからの三人の子育て、
姑女に良く仕えたと思いました。
40歳でピレニーズをわが家に迎えてから
人生は大きく開け、雑誌に記事を書いたり、単行本が出版され
諸外国のピレニーズ訪問、友人ができ多くの知識を得られました。
JKC主催のドッグショウでは、最盛期はそれは華やかな光景でした。
下は、JKCの2002年の本部展 チャンピオンクラス
この頃本部展の会場ではストロボを使うことができずぼけて居ますが
記録にはなりました.
1989年2月に、ストラング氏再来日され、常滑のピレニーズの名犬舎と
仙台をご案内し,ました。
翌日は愛犬ジャーナル社の編集長宮原氏が来宅し
ポールさんと私の対談の予定になっていました。
当日突然にカナダのピレニーズの名ブリーダーが来宅し、
愛犬ジャーナルの編集長宮原氏と4人で懇談し、愛犬ジャーナルに掲載されました。
カナダの女性のお名前を忘れてしまいましたが
名犬ジョリーのカナダ盤のビデオをお土産に頂きました。
下はリビングルームでピレニーズを語り合う様子です。
私の書いた本や資料などをテーブルに一杯広げて見て頂いています。
世界中のピレニーズのガイドブックは全部持っているので驚かれました。
1981年NHKより1年間放映されたアニメ、
「名犬ジョリー」は一躍人気を博し
この犬種「グレート・ピレニーズ」の専門書を書くよう
誠文堂新光社より依頼を受けました。
アメリカのピレニーズの第一人者ポール・ストラング氏に
手紙を書きご教示を仰いだご縁で、私達のクラブの総会に
ご招待し、講演会を開きました。
西は京都、名古屋、飼育者の犬舎訪問と観光で
10日間、私は大変でしたが、家族の協力もあり頑張りました。
庭で9歳のベルとポールさん
ストラング氏の著書
1945年の日記帳を見て、東京大空襲や
原爆のむごさを改めて痛感し
気分が重くなり、日記帳を束ねて押入れにしまい込みました。
でも脳裏には、3月10日の東京大空襲で焼け出され、
ぼろを纏って、裸足同然の姿で故郷へ帰るらしいの人たちを
疎開した川越で見ました。東京から歩いてきたのでしよう。
7月に父の故郷の広島県の山村に疎開しました。
40kmも離れているのに原爆の光が射し、ぐらっと揺れたので外に飛び出したことが日記に書かれています。
つくずく運命について考えました。
2023年 1月22日 16時39分
真っ赤な夕陽に雲がかかっていましたが
素敵な色の西の空でした。
1944年の暮れに、県立川越高女に転校、
勤労動員は学校で軍服を縫う作業をしていました。
朝、登校で道を歩いていた時、アメリカの戦闘機が一機
低空飛行で目の前に飛んできて、操縦士の顔が見えました。
とっさに地べたに伏せ、少しして顔をあげると
戦闘機は、もういませんでした。
機銃操射はされず助かりました。
米兵は15歳の女の子をからかってみたのでしょう。
10年前ですが、米兵の民間への機銃掃射で、追い回された人たちの
21箇の体験談がツイッタでのせられたのを見ました。
実際に撃たれて亡くなった人がいたのです。
人生の中で、私が死の恐怖を覚えたのは、この時だけです。
1944年12月、東京都内が空襲され、東京武蔵野市の吉祥寺の家から
埼玉県の川越に疎開しました。
県立川越高女に転校、学生の勤労動員では
満蒙の兵隊さんの軍服を縫っていました。
厚地のラシャの布地で各部分を担当し
私は衿でしたが布地が厚く衿先など縫うのに
ミシンの針が折れてしまいまます。
折れた針を先生に差出し新しい針を受け取ることは重荷な事でした。
又、1日に何枚縫ったか各人の枚数を壁に張りだすので
通信簿の点数に関係することから
昼食もしないで縫う勝気な生徒もいました。
飛行機工場で労働する方が精神的によほど楽でした。
当時ミシンの針はめったに売っていなかったのです。