つれづれ日記

心と目の記録

ダイヤモンドリリー

2008-11-23 10:59:41 | Weblog



冬の気配が近ずいた11月中旬に、ネリネの花を沢山いただきました。
お彼岸に咲く彼岸花に似ていますが、寒い季節に輝くような美しさで咲くネリネ。
英名ダイヤモンドりりーは、ネリネのある種の花が日に当たるときらきら輝くので名ずけられたそうです。
彼岸花の咲く頃には青々とした葉を茂らせていて、11月に花を咲かせることが彼岸花と大きく違うと思います。


私の宝コロちゃん

2008-11-21 21:44:11 | Weblog

昭和19年(1944年)の暮に川越に疎開しました。
戦局は激しくなり、翌年3月には東京大空襲があり、7月20日、父の故郷広島に疎開しました。
私の宝であったコロちゃんは連れてはいけません。10歳になる老犬ですがどうしようもなく、近所のKさんに預けることにして、悲しい別れをしたのです。

疎開先は広島県の鳥取側の山の方だったので、広島の原爆は激しい光と揺れを感じただけで済み、15日に終戦を迎えました。
コロちゃんが心配で、9月には父と妹の3人だけ先に東京に帰り、早速コロちゃんを迎えに行きましたが・・・・・・もう天国に旅立ってしまっていたのです。、
その時の呆然となったことは一生忘れられません。

私の宝のコロは、私が8歳のころに譲りうけた雑種で、薄茶色の尾がふさふさした可愛い犬でした。学校のラジオ体操にも連れて行き、それは当時では珍しいことでした。
戦争になり空襲警報が出ると、私はコロを抱いて防空壕に入りました。

写真は相和19年(1944年)に写真館でコロを抱いた妹と二人の弟の4人と1匹で、すが、トリミングしました。


第二次世界大戦がはじまって

2008-11-18 11:31:11 | Weblog

昭和16年、6年生の夏休みの楽しい絵巻を描いた数か月後、12月8日に大東亜戦争が勃発、(後に世界大戦と呼ばれる)日本は世界一強い国だと洗脳されて育った私たちの生活は一変しました。
翌年に米軍機が来襲し、昭和18年に、戦局が苛烈になると女学生にも学徒動員令が下り、19年の8月に私達3年生は昭和飛行機工場に動員されました。
会社ではダグラス輸送機を作り従業員が15000人の大工場です。
私の職場は倉庫で、鉄材や鋼管などを注文書をみて寸法を合わせ、旋盤で切る作業でした。一番太い物で直径80センチもありましたが、普通は鉄や鋼管で5センチ以内の棒で、倉庫に収められた棒を梯子に登って引き出し担いで降りて旋盤で切ったのです。真冬でも部屋には火の気は全くなしです。
私は19年の暮に疎開したので分かりませんが、19年になるとみんな寮に入れられて、工場ではヒロポンを飲まされて徹夜作業をしたと聞きました。
28年後に当時の青梅寮で再会した時に集めた文集が纏められ、1975年に出版されました。(写真の本)
私たちは毎日家を出る時から、日の丸を中心に「神風」と書いた鉢巻をし、配給されたスフの男用のカーキー色の職工服を着て、腕に「学徒隊」の腕章をつけていました。
空襲警報が出ると作業をやめて防空壕に入ります。
いつ死ぬかも知れないし、帰る家が焼かれているかも知れないのに皆冷静に生きているのですから肝が据わっていたのではなく、人間は状況に麻痺していたのかもしれません。
毎日、会社の試験飛行士が落ちて死んだとか、会社の2000トンプレスに挟まって工員さんが死んだとか聞いても平気だったのですから。
十数校の中学生女学生総数2700人以上が動員され働いていたのです。
飛行機の部品を作る板金工の仕事をしていたクラスメートが、ジュラルミンを切断するときに指を切り落としてしまいました。西高の生徒は手首から切り落としたとかの話のほう衝撃でした。
2004年の同期会で、60年ぶりに昭島市の昭和飛行機工場を訪問し、まだ残されている広い建物などを見て一同何とも言えない胸の痛い感動に駆られました。
14、15歳の子共達が飛行機を作っていた日本・・・・





海で泳ぎました。

2008-11-11 23:33:01 | Weblog

泳ぐのが好きだった私は、一人で泳いでいたのですが、海辺でクラスのお友達増田さんに偶然に会い、一緒に泳いで楽しみました。

この絵巻物は母の手紙用の巻紙を使い、絵は15場面くらい入れて帰るまでの様子が書いてあります。
思ったままのじか書きの絵と文章なのですが、昔の記録として残してあってよかったとしみじみ思いました。


絵巻物―駅で切符を買う場面

2008-11-08 09:29:46 | Weblog

駅で切符を買う場面です。丁寧に描いた絵ではなく、さっさと思うままにじかに巻紙に描いたので適当かもしれません。文章の字も間違いがあります。
1941年の服装ですが、意外とハイカラだったことが分かります。
当時は大きく膨らんだ提灯袖で、フレアーの多い服がオシャレでした。
しかしお母さん達は日常は着物です。この絵のお父さんは麻地の夏服で、父のスーツ姿ですが父ではありません。タバコはすいませんでしたから。ステッキはおしゃれで持っていました。

スカートがこんなにロングだった記憶はないのですが、当時のファッションが分かり面白いです。
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海に行った日の絵巻

2008-11-07 23:46:31 | Weblog

昭和16年の8月16日に父と海に行った日を描いた絵巻物の初めのほうです。
この日から4か月も立たない時から戦争がはじまったなんて・・・・
妹と弟は体が弱かったので、父は私だけを連れて逗子の海に行きました。
私の家は吉祥寺と三鷹の中間にあり、歩いているのは現在は井の頭通りとなっていますが、当時は水道道路と呼ばれて、地下には浄水場から東京につながる大きな水道管が入っているので、道路には砂利がひかれて、車の通行は禁止されていました。汽車が走っているのは中央線です。
広い原っぱがあり、萩や女郎花など沢山の花があってよく取りに行ったものです。
私の着ているワンピースは母の手作りです。
昔の写真や私の描いた絵は、母が縫ってくれた服の記録になり懐かしい思い出が蘇ります。


西暦1941年に

2008-11-07 17:21:49 | Weblog

1942年に発行された「大東亜戦争第一周年記念」寄付金付き記念切手です。
切手は、真珠湾とバターン半島の戦場を描いたものです。

1941年(昭和16年)の12月8日、マレー半島侵攻、真珠湾攻撃をして、日本政府は対米宣戦布告をしました。小学6年生だった私達には忘れられない日であり、
1945年8月15日玉音放送があり、終戦になった瞬間のことも生涯忘れられない日なのです。
戦中派の私たちは大東亜戦争の言葉が身にしみてしまいましたが、終戦後GHQによる「大東亜戦争」という用語使用は禁止され、すべて「太平洋戦争」に置き換えられたことを後で知りました。
GHQは公文書だけでなく、すべての出版物から「大東亜戦争」という言葉を抹殺しようと検閲を行い、占領軍に都合の悪い記述があれば、出版物の発行は禁止されたそうです。

私たち少女の手紙まで抜き打ち検査で開封されて届いたのを思い出します。

昭和16年に描いた絵巻物を出して見ながら、12月8日のことを思い出してしまいました。