つれづれ日記

心と目の記録

昭和23年の軽井沢松原湖の油絵

2022-08-29 18:30:20 | Weblog

 昭和23年の8月、N女子大二年生の私は軽井沢の

女子大の「三泉寮」での修養生活に参加しました。

戦後の食糧難の頃ですから、お米を持参

お菓子もヤミ市以外では売られていませんでしたので

家でクッキーを焼いて持っていきました。。

又美しい風景が描けると想像して、油絵の道具を持参

三脚など荷物が大変でしたが、思い出の軽井沢を写生できました。

松原湖の雲場の池の地域は進駐軍にとられてしまい

日本人は絵を描いたこの場所以外に通れませんでした。

今は変わってしまい、面影もありません。

74年の時が流れても、娘の家の壁に掛けられている松原湖です。


倦まず弛まず怠らずの93歳

2022-08-27 16:29:41 | Weblog

毎日暑い日が続きます。

一昨日は2か月ぶりに下総中山の眼科にお薬を頂きに行きました。

なんと2時間待ちですが、長くお世話になった先生に診て頂くことで

安心の心境。私にとって眼は生きていくのに一番大事だと思います。

何の異常もなく安心、帰りは懐かしいお店などを見て

私の好きなスモモを買って帰りました。

スモモは見ているだけでも嬉しく満足。

16歳で戦争のさなかに広島県の田舎に疎開し、

田舎の家のスモモを初めて食し、その時の美味しさと

感動が忘れられません。

 

あれからの長い人世、うまず弛まず 怠らず の心境で生きてきました。

健康で歩ける事に感謝しています。

 

今回のスモモは痛んでいたので

画像は以前使用したすものです。

 

 


水泳の友人達とのひと時

2022-08-20 10:27:37 | Weblog

昨日は1990年代の水泳の友人達5人でデパートのカフェでお会いし、

楽しい語らいの時間を過ごしました。

1992年船橋にプールができ水泳教室が出来たと知った時

91歳の姑は体調が悪く臥せっていましたが

何十年ぶりに泳げるチャンス到来と思い、1時間のお稽古と

往復の時間を入れて3時間以内に戻れるからとお願いしました。

おむつの世話をして出かけ、帰宅してすぐおむつを替えました。

 

水泳は私が10歳の頃、受け持ちの先生は師範学校を出たばかりで

若いお兄さんのような先生でした。

水泳の選手だったそうで、近くの井の頭公園のプールで

私達に本格的に基礎からきちんと教えてくださいました。

泳げることは私の人生にとって格別な思いがあり

年をとっても水泳教室で真剣に泳ぎ、お友達もでき、まことに幸運でした。

上は1996年9月 レバンカップ の写真。 私たちは最前列中央当たりににいます。

 

2000年、私が71歳の時に、下総中山の駅前にコナミスポーツセンターができ、家のすぐ近くなので、プールに夕方行き一人で

1000mから1500m泳ぎ、買い物をして帰りました。

 

2005年の12月末、夫の骨折などあり、今のマンションに転居し、

水泳は終わりとなりました。

 

 

 

 

 

 


玉音放送を聞いた終戦の日

2022-08-15 16:04:36 | Weblog

77年前、わが家は東京から川越に疎開しましたが、

戦禍が厳しくなり、7月23日に

父の故郷広島県の世羅郡に再疎開しました。

8月6日のブログに書きましたが、

広島に原子爆弾が落ち、パッと光が当たり、ぐらっと揺れたのです。

 

8月15日、12時から重大放送があると言うので

早くからラジオをつけて待ちました。

山陽本線も10分とまったそうです。

「皆厳粛なる態度でお聞きください。

ご起立をおねがいします」

君が代が奏せられ、大詔が発された。

日本は無条件降伏をしたのです。

陛下の玉音放送で

皆、ただただ茫然とするばかりでした。

 

 

 

 

 

 

 


人生の記録を楽しむ

2022-08-13 14:10:01 | Weblog

長い人世の最初の記録は

生後6日目に父が写した私、生後3日目から記録した

母の日記、90余年の人生の確かな記録です。

又、弟と妹の書いたエッセイ20篇以上を読むと

子供時代の様子がはっきりと浮かび楽しくなります。

 

父の十代から書いた日記帳、母の結婚前からの日記帳は

弟に託して保存してあります。

自分の日記帳は1号他2冊は無くしましたが

1944年7月から49年末16号で終わりで

独身時代の思い出の日記は私の宝で、

今生きて居る運命に感謝です。

 

 

猫の三毛さんはあれきり姿が見えません。

S家の納屋に寝ている野良さん2匹をアップします。

娘の写した写真ですが、S家の納屋は野良さんにとって

最高の住まいです。

 

 


私は原爆の光を見ました

2022-08-06 10:10:02 | Weblog

第二次世界大戦の終わりの頃、満16歳になったばかりの私は

父の故郷、広島県の中央当たりの山間部の田舎に疎開しました。

妹と二人近くの叔父様の家にいた時、

パッと光って突然台地がぐらっと揺れました。

広島市に特別大きな爆弾が落ちたと言われ、

原子爆弾の名はその後に聞きました。

市内で被爆し帰ってきた近所の女性は

腕の肉が溶けて膿んでいてその後亡くなりました。

10日後の入市被爆者を含め56万人が被爆したと後で知りましたが

父は何日か後に、知人を見つけようと入市しましたが

何事もなくてよかったです。

8月6日は私の人生で忘れられない日です。

  広島に落とされた、原子爆弾     広島市公式ホームページより


約90年前の記憶

2022-08-01 14:23:13 | Weblog

満93歳を迎え、改めて記憶を呼び起こしてみました。

私が3歳10か月の時弟が生まれ、その場面を隣の部屋からそっと覗いたのです。

昔、出産は自宅にお産婆さんが来て赤子を取り上げてくれました。

母は座敷に寝ていて、隣の部屋に産湯を使うたらいにお湯が入れられてあり

私はその部屋から襖を少し開けて覗いていました。

布団の裾から弟が出てきてお産婆さんが取り上げたのです。

4歳になってからの記憶はかなり多く、時間があれば書いておきたいと思っています。

 

下の写真は私のライフワークになった グレートピレニーズのコレクションの一部です。