以前友人の一人から信田さよ子さんのブログ(信田さよ子blog ブックマークをクリックしてみてください。)のことを教えて頂き、時々拝見していました。その著書紹介の中でちょっと興味をそそられて購入したのがこの本です。
著者の信田さよ子さんは原宿カウンセリングセンターの所長さんです。カウンセラーとしての経験を基にDVなど家族の問題についての著書も多く、また全国各地で講演活動などもされていらっしゃるようです。
この本は中高年の・・著者の言葉を借りて言えばアラカン(アラウンド還暦)の女性たちの結婚観、男性観が述べられています。それはアラカン世代に続く1950年代に生まれた女性たちにとってもほとんど変わらないかもしれません。
戦後、学校教育の現場ではずっと男女平等を教えられてきましたが、なんだか多くの女性たちが抱える悩みは本質的にあまり変わっていないことに改めて気づかされたような気がします。
それはとても簡単なことなのですが、ずっと続いてきた男尊女卑という社会構造の中で育った多くの男性たちは、わからないか、わかろうとしないようです。あるいは本音はわかりたくない・・・・のでしょうか。
第一章は夢の男を求めて奔走するSST(しみ・しわ・たるみ)のアラカン(アラウンド還暦)のおばさまたち・・・まあ私にとってはこれからの私自身の手本か反面教師になるかもしれないお姉さまたちなのですが・・・
ヨン様に夢中になったところで現実の夫たちにはそれほど害はなし・・・でもそのミーハー的なパワーは凄まじく、男性報道陣にも呆れられる始末なのです。
なんでこんな記述が長いの??と最初は思いました。
確かにヨン様や〇〇王子様たちはイケメンで美しい男かも知れません。私と同世代や年下の友人にも彼らのファンは何人もいます。でも私はミーハー的に夢中になるエネルギーが今のところ全く出てこないのでSSTのお姉さまたちの行動はいつも複雑な気持ちで眺めていました。
でもこの一見退屈に思えた第一章が実はとても重要で、第二章以降を読み進めるうちにこの現象の謎が解けていくような気がしました。
さて第二章は深刻な第三章へのステップでもあります。私たちの世代も余変わりませんが、アラカンの人々の青春時代、女性たちが理想とする女性像は男性が理想とする女性像と大きな違いはなく、男性からみたらかわいい女であり、結婚はその延長線上にあり、結婚後はかわいい妻であることがしあわせをつかむ条件だと考えていたように思います。
もちろん、当時は高学歴の女性たちも同様で、多くの場合、結婚してもずっと同じ仕事を続けられる人はごくわずかでした。だからこそ「結婚は人生最大のギャンブル」とまで言われたのです。
以前このブログで柴田翔の「されどわれらが日々」について書いたことがありますが、あの小説に登場する1960年代の節子は大卒で社会に出ていく能力も持ち合わせていましたが、自分の気持ちに正直になりすぎて悩みます。でも当時の男性も節子を生意気だとは思わなかったでしょう。柴田氏は節子をかわいい女性として描いているからです。
一方男性たちは学生時代のいわゆる就職活動のころから、実はしっかり男社会の基礎の中に組み込まれ、その後長年企業社会の中で働きながら身につけてきた信念を家庭の中に引きずり込み女性たちの結婚生活の理想をぶち壊していきました。
夫たちが「家族は妻子を養っている自分のためにあるのだから家族は自分に都合よく回るべきであり余計なエネルギーを割く必要はない」と考えたらどうなるでしょう?
夫たちは会社の不快を家庭で不機嫌という表現で撒き散らしました。家庭はあたかも彼らの解放区であるかのようにふるまう夫たちがどれほど多いことでしょうか。
おばさんたちの王子様への情熱は彼女たちの夫たちの信念へのレジスタンスなのだそうです。
さて後半はいたって真剣にこの本に向き合わされることになります。
DVという言葉が世間で広く知られるようになったのは最近のことです。ここでは内容は省略しますが、第三章のA子さんやB子さんの事例は言葉をなくすほど深刻です。男性の読者ならどう感じるでしょうか。
でも女性の読者の多くはそれなりに共感できるのではないかと思います。
細かいところはわからないのでなんともいえませんが「ここまでひどい状態によく耐えてきたなあ」と感じるA子さんやB子さんがアクションを起こしたことについては「よくやった!!」と感じます。おそらく同じような悩みを抱える女性たちを勇気づけることだからです。
さて、ここでDV加害者プログラムにも関わってこられた信田さんが加害者側の言い分について書かれている部分があります。
多くの加害者が深い被害者意識を抱いているという記述が言いようのない複雑な感情に私を引き込みました。
自分では全く正しいと思っていることに妻は従わないどころか時には戒律を破った理由を正当化したりする彼らは信じられないと憤慨する・・・
だから暴力を奮うの??
殺人犯が殺人を犯す時自分の正当性を説明するでしょうか。
相手が妻だから・・彼らは妻への大いなる期待と依存を当然と考えているからなのです。
「妻なんだから言わなくてもわかるだろう」
ああこれくらいはどの夫も言うだろうということは想像できます。そして彼らは自らが持つ権力性についても自覚がないのです。
夫婦がお互いに人間として認め合う「君は僕と同じ人間だが、君を思い通りにはできない。」つまり「完全なる所有ではない」ということをアラカンのあるいはそれに続く1950年代生まれの男性たちはどう認識し、家庭で妻と向き合っていけるでしょうか。
ヨン様や王子たちあるいは草食系の男子・・・彼らは結婚という制度の枠外に位置し、あくまでも夢の男にすぎません。
私の友人たちの中で少し親しくなると夫の悪口を言わない人はほとんどいません。
(もっとも男性たちだってどこかで妻の悪口を言っているのでしょうけれど・・・。)
30年余の結婚生活を過ごしてきて、自らの結婚を「幸せな結婚ができてよかった」と胸をはっていう友人はほんのわずかです。その彼女たちだって他に家族の問題をかかえていないわけではありません。
男尊女卑の社会構造と生物学的力関係がDVと無関係だとは思いません。DVは人種や民族を問わず世界各地で存在すると言われています。今世界各地の女性たちがこの問題と向き合おうとし始めました。
苦しかった過去、忘れたい過去を背負った人々だからこそ「所有物ではなく妻をひとりの人間として認めて欲しい!」女性たちの叫び声が響いてくるような気がします。
これは夫婦のあり方を考える意味でもたいへん意義ある一冊であると思いました。
著者の信田さよ子さんは原宿カウンセリングセンターの所長さんです。カウンセラーとしての経験を基にDVなど家族の問題についての著書も多く、また全国各地で講演活動などもされていらっしゃるようです。
この本は中高年の・・著者の言葉を借りて言えばアラカン(アラウンド還暦)の女性たちの結婚観、男性観が述べられています。それはアラカン世代に続く1950年代に生まれた女性たちにとってもほとんど変わらないかもしれません。
戦後、学校教育の現場ではずっと男女平等を教えられてきましたが、なんだか多くの女性たちが抱える悩みは本質的にあまり変わっていないことに改めて気づかされたような気がします。
それはとても簡単なことなのですが、ずっと続いてきた男尊女卑という社会構造の中で育った多くの男性たちは、わからないか、わかろうとしないようです。あるいは本音はわかりたくない・・・・のでしょうか。
第一章は夢の男を求めて奔走するSST(しみ・しわ・たるみ)のアラカン(アラウンド還暦)のおばさまたち・・・まあ私にとってはこれからの私自身の手本か反面教師になるかもしれないお姉さまたちなのですが・・・
ヨン様に夢中になったところで現実の夫たちにはそれほど害はなし・・・でもそのミーハー的なパワーは凄まじく、男性報道陣にも呆れられる始末なのです。
なんでこんな記述が長いの??と最初は思いました。
確かにヨン様や〇〇王子様たちはイケメンで美しい男かも知れません。私と同世代や年下の友人にも彼らのファンは何人もいます。でも私はミーハー的に夢中になるエネルギーが今のところ全く出てこないのでSSTのお姉さまたちの行動はいつも複雑な気持ちで眺めていました。
でもこの一見退屈に思えた第一章が実はとても重要で、第二章以降を読み進めるうちにこの現象の謎が解けていくような気がしました。
さて第二章は深刻な第三章へのステップでもあります。私たちの世代も余変わりませんが、アラカンの人々の青春時代、女性たちが理想とする女性像は男性が理想とする女性像と大きな違いはなく、男性からみたらかわいい女であり、結婚はその延長線上にあり、結婚後はかわいい妻であることがしあわせをつかむ条件だと考えていたように思います。
もちろん、当時は高学歴の女性たちも同様で、多くの場合、結婚してもずっと同じ仕事を続けられる人はごくわずかでした。だからこそ「結婚は人生最大のギャンブル」とまで言われたのです。
以前このブログで柴田翔の「されどわれらが日々」について書いたことがありますが、あの小説に登場する1960年代の節子は大卒で社会に出ていく能力も持ち合わせていましたが、自分の気持ちに正直になりすぎて悩みます。でも当時の男性も節子を生意気だとは思わなかったでしょう。柴田氏は節子をかわいい女性として描いているからです。
一方男性たちは学生時代のいわゆる就職活動のころから、実はしっかり男社会の基礎の中に組み込まれ、その後長年企業社会の中で働きながら身につけてきた信念を家庭の中に引きずり込み女性たちの結婚生活の理想をぶち壊していきました。
夫たちが「家族は妻子を養っている自分のためにあるのだから家族は自分に都合よく回るべきであり余計なエネルギーを割く必要はない」と考えたらどうなるでしょう?
夫たちは会社の不快を家庭で不機嫌という表現で撒き散らしました。家庭はあたかも彼らの解放区であるかのようにふるまう夫たちがどれほど多いことでしょうか。
おばさんたちの王子様への情熱は彼女たちの夫たちの信念へのレジスタンスなのだそうです。
さて後半はいたって真剣にこの本に向き合わされることになります。
DVという言葉が世間で広く知られるようになったのは最近のことです。ここでは内容は省略しますが、第三章のA子さんやB子さんの事例は言葉をなくすほど深刻です。男性の読者ならどう感じるでしょうか。
でも女性の読者の多くはそれなりに共感できるのではないかと思います。
細かいところはわからないのでなんともいえませんが「ここまでひどい状態によく耐えてきたなあ」と感じるA子さんやB子さんがアクションを起こしたことについては「よくやった!!」と感じます。おそらく同じような悩みを抱える女性たちを勇気づけることだからです。
さて、ここでDV加害者プログラムにも関わってこられた信田さんが加害者側の言い分について書かれている部分があります。
多くの加害者が深い被害者意識を抱いているという記述が言いようのない複雑な感情に私を引き込みました。
自分では全く正しいと思っていることに妻は従わないどころか時には戒律を破った理由を正当化したりする彼らは信じられないと憤慨する・・・
だから暴力を奮うの??
殺人犯が殺人を犯す時自分の正当性を説明するでしょうか。
相手が妻だから・・彼らは妻への大いなる期待と依存を当然と考えているからなのです。
「妻なんだから言わなくてもわかるだろう」
ああこれくらいはどの夫も言うだろうということは想像できます。そして彼らは自らが持つ権力性についても自覚がないのです。
夫婦がお互いに人間として認め合う「君は僕と同じ人間だが、君を思い通りにはできない。」つまり「完全なる所有ではない」ということをアラカンのあるいはそれに続く1950年代生まれの男性たちはどう認識し、家庭で妻と向き合っていけるでしょうか。
ヨン様や王子たちあるいは草食系の男子・・・彼らは結婚という制度の枠外に位置し、あくまでも夢の男にすぎません。
私の友人たちの中で少し親しくなると夫の悪口を言わない人はほとんどいません。
(もっとも男性たちだってどこかで妻の悪口を言っているのでしょうけれど・・・。)
30年余の結婚生活を過ごしてきて、自らの結婚を「幸せな結婚ができてよかった」と胸をはっていう友人はほんのわずかです。その彼女たちだって他に家族の問題をかかえていないわけではありません。
男尊女卑の社会構造と生物学的力関係がDVと無関係だとは思いません。DVは人種や民族を問わず世界各地で存在すると言われています。今世界各地の女性たちがこの問題と向き合おうとし始めました。
苦しかった過去、忘れたい過去を背負った人々だからこそ「所有物ではなく妻をひとりの人間として認めて欲しい!」女性たちの叫び声が響いてくるような気がします。
これは夫婦のあり方を考える意味でもたいへん意義ある一冊であると思いました。