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第五代柄井川柳は佃の人

2010年06月07日 21時57分18秒 | Weblog
佃は川柳の記念碑的な場所である。
知らない人も多いだろう。
五世柄井川柳こと水谷金蔵が居住した所で、佃住吉神社には石碑が建っている。


「和らかでかたく持ちたし人ごころ」五世川柳遺詠

川柳とは、主に五七五で構成された、うがち、おかしみ、かるみを主な骨格として創られた口語主体の句。
俳句とは異なり、季語や切れの制限がなく、字余りや句跨りの破調、自由律も許される自由句である。
江戸時代中期の前句付けの点者・柄井川柳(享保3年、1718年~寛政2年、1790年9月23日)が選んだ句から、呉陵軒可有が『誹風柳多留』を刊行し川柳は庶民に定着、以後盛んになっていった。
『誹風柳多留』は、天保11年(1840年)までに167編が刊行された。

天保6年(1835年)、文英堂から上梓された『俳風狂句百人集』には、天保当時、絶頂期の狂句者達の川柳が、歌川國直描く似せ絵とともに紹介されている。


『俳風狂句百人集』天保6年(1835年) 文英堂

最盛期の文政、天保期には、四世柄井川柳の下で松浦静山や七世市川団十郎、十辺舎一句、葛飾北斎、柳亭種彦といった一流の文人達が名を連ねたという。
しかし、四世柄井川柳、本名人見周助は、八丁堀に住んでいた町奉行所付きの同心で、文政7年に四世を襲名後、派手な立ち振る舞いが目立ち、武士たる身分からクレームが付けられ絶頂期の天保8年(1837年)突如として引退、後進に道を譲ることになる。


「夜学にふけて埋火のほたる程」狂句元祖四世川柳 國貞寫

特に四世柄井川柳の似せ絵には力を入れたようで、この図のみを歌川國貞が描いている。

後進の五世柄井川柳になったのが、佃島の魚問屋・腥斎佃(なまぐさいたづくり)こと水谷金蔵(天明7年、1787年~安政5年、1858年)であった。
彼は、四世柄井川柳・人見周助とは異なり、純朴一筋な親孝行者でそれが公儀に聞こえて褒美をいただくような穏やかな人物である。


「和らかでかたく持ちたし人ごころ」 岸姫松連 腥斎佃 

時は幕末、天保の改革が直ぐそこに来ている動乱の時代。
水谷金蔵のような派手さの少ない人物を指導者に仰いだのは、川柳という庶民サークルを守るという知恵の産物であろう。
天保12年(1841年)から五世柄井川柳の手で『新編柳樽』が編まれ、嘉永2年(1849年)までに55篇が刊行された。
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