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戦前に美しい書物を数多く輩出した第一書房。
全容の解明の手助けになればと、家蔵の第一書房本を整理分類し、少しづつではありますが公にしていきたいと存じます。
この企ての先達は、勿論『第一書房長谷川巳之吉』(1984年 昭和59年 9月14日 日本エディタースクール出版部 )でありました。
企画に参画した林達夫、福田清人、布川角左衛門の編集諸氏には、頭が下がります。
皆様すでに鬼籍に入られていらっしゃいますね。
お三方以外に、この企画に尽力をつくした方がいらっしゃいます。
「第一書房刊行図書目録」を担当した大久保久雄氏です。
彼のご努力には、感謝の気持ちで一杯であります。
何せ、1923年(大正12年)から1944年(昭和19年)まで、わずか21年間ではありますが、第一書房から刊行された書物類を殆んど残らず網羅して、図書目録を作成されたのですから。
勿論、抜け落ちもありますが、それは後世の人々が訂正すればいいことであります。
実は私は、大久保氏と邂逅したことがありました。
それは、20年以上前でしょうか、横浜の『斎藤昌三を語る会』に参加したときのことでございます。
大久保さんも参加されており、そこで紹介されました。
(そういえばこの会のお話、ビデオで撮影しておりました。
一度も観ずに、どこかへ仕舞い込み、それっきりですな。
探してみよっと)
飲みながら少しお話したのです。
その時、同席されていた書痴往来社の峯村幸造氏が、笑いながら「優游の会」への参加を打診されましたが、大久保氏は冗談にとっていたように見受けられ「ハイハイ」とあいまいな大人の返事をされていました。
この時、大久保氏が入会していたら、私の「書物の旅」もずいぶんと変容したことは間違いないでしょう。
そんな想い出のある『第一書房長谷川巳之吉』ですが、あえて難点を申せば、掲載書影が如何せん少ないということでしょう。
刊行時の1984年(昭和59年)の印刷事情からいえば、モノクロの書影を掲載する際の製版代の高直なこと。
もっといえば、カラー書影にいたっては、天文学的な数字になり、写真点数の増加は、即予算オーバーとなりますから、書影を抑えるのは当然でしょう。
その上,掲載された書影の中には、『近代劇全集』のように、非常に保存の悪いものもあった。
おそらく、簡便に入手し撮影可能な本を優先的に使用したためでしょう。
保存のいいものを時間をかけて探す余裕は、存在していなかったためと思われます。
そのため、後年に保存状態の劣悪な記載された第一書房の革装本をあげつらい、「第一書房嫌いの●●●で●●●●なSS一派」の誤った指摘の原因をつくたことは、返す返すも残念、無念で仕方ありません。
腹が立つ出来事でありました。
このSSは、ルバイヤートのことは知らないのに、なにか語ったことがあるようにも……。
本来、書物の保存は所有者の命題に記すべきものと思っておりました。
それが、彼ら一派の指摘によれば、第一書房の革装本だけは違うようです。
湿度の高い日本においては、所有者が保存状態には充分に配慮すべきはずですが、すべて出版社のせいにするアンチ巳之吉一派らの論調には、決して同意出来ないのであります。
第一書房が、利潤の飽くなき追求とコストダウンの為に安革の使用を行い、手抜き製本を押しすすめた結果である、と公言する輩がまだこの世に存在するのには、驚かされます。
第一書房以外、革を使用の書物で保存が悪くても堅牢に残るよう本が存在するならお目にかかりたいものです。
この前、丸善で開催された「現代フランス文学 受容と展開」に登場した出版社で唯一6冊も取り上げられたのが、第一書房でした。
この点を鑑みてもいかに第一書房、長谷川巳之吉が、採算を度外視して文学というものに貢献したかが解るエピソードでしょう。
すでに紹介した、『法城を守る人々』上巻に続き、最後の遣唐使として派遣された天台宗圓仁による自筆日記『入唐求法巡礼行記』にあやかって『第一書房巡礼行記』と題し、第一書房本を少しずつ開陳していきまする。
つづく
全容の解明の手助けになればと、家蔵の第一書房本を整理分類し、少しづつではありますが公にしていきたいと存じます。
この企ての先達は、勿論『第一書房長谷川巳之吉』(1984年 昭和59年 9月14日 日本エディタースクール出版部 )でありました。
企画に参画した林達夫、福田清人、布川角左衛門の編集諸氏には、頭が下がります。
皆様すでに鬼籍に入られていらっしゃいますね。
お三方以外に、この企画に尽力をつくした方がいらっしゃいます。
「第一書房刊行図書目録」を担当した大久保久雄氏です。
彼のご努力には、感謝の気持ちで一杯であります。
何せ、1923年(大正12年)から1944年(昭和19年)まで、わずか21年間ではありますが、第一書房から刊行された書物類を殆んど残らず網羅して、図書目録を作成されたのですから。
勿論、抜け落ちもありますが、それは後世の人々が訂正すればいいことであります。
実は私は、大久保氏と邂逅したことがありました。
それは、20年以上前でしょうか、横浜の『斎藤昌三を語る会』に参加したときのことでございます。
大久保さんも参加されており、そこで紹介されました。
(そういえばこの会のお話、ビデオで撮影しておりました。
一度も観ずに、どこかへ仕舞い込み、それっきりですな。
探してみよっと)
飲みながら少しお話したのです。
その時、同席されていた書痴往来社の峯村幸造氏が、笑いながら「優游の会」への参加を打診されましたが、大久保氏は冗談にとっていたように見受けられ「ハイハイ」とあいまいな大人の返事をされていました。
この時、大久保氏が入会していたら、私の「書物の旅」もずいぶんと変容したことは間違いないでしょう。
そんな想い出のある『第一書房長谷川巳之吉』ですが、あえて難点を申せば、掲載書影が如何せん少ないということでしょう。
刊行時の1984年(昭和59年)の印刷事情からいえば、モノクロの書影を掲載する際の製版代の高直なこと。
もっといえば、カラー書影にいたっては、天文学的な数字になり、写真点数の増加は、即予算オーバーとなりますから、書影を抑えるのは当然でしょう。
その上,掲載された書影の中には、『近代劇全集』のように、非常に保存の悪いものもあった。
おそらく、簡便に入手し撮影可能な本を優先的に使用したためでしょう。
保存のいいものを時間をかけて探す余裕は、存在していなかったためと思われます。
そのため、後年に保存状態の劣悪な記載された第一書房の革装本をあげつらい、「第一書房嫌いの●●●で●●●●なSS一派」の誤った指摘の原因をつくたことは、返す返すも残念、無念で仕方ありません。
腹が立つ出来事でありました。
このSSは、ルバイヤートのことは知らないのに、なにか語ったことがあるようにも……。
本来、書物の保存は所有者の命題に記すべきものと思っておりました。
それが、彼ら一派の指摘によれば、第一書房の革装本だけは違うようです。
湿度の高い日本においては、所有者が保存状態には充分に配慮すべきはずですが、すべて出版社のせいにするアンチ巳之吉一派らの論調には、決して同意出来ないのであります。
第一書房が、利潤の飽くなき追求とコストダウンの為に安革の使用を行い、手抜き製本を押しすすめた結果である、と公言する輩がまだこの世に存在するのには、驚かされます。
第一書房以外、革を使用の書物で保存が悪くても堅牢に残るよう本が存在するならお目にかかりたいものです。
この前、丸善で開催された「現代フランス文学 受容と展開」に登場した出版社で唯一6冊も取り上げられたのが、第一書房でした。
この点を鑑みてもいかに第一書房、長谷川巳之吉が、採算を度外視して文学というものに貢献したかが解るエピソードでしょう。
すでに紹介した、『法城を守る人々』上巻に続き、最後の遣唐使として派遣された天台宗圓仁による自筆日記『入唐求法巡礼行記』にあやかって『第一書房巡礼行記』と題し、第一書房本を少しずつ開陳していきまする。
つづく
https://web.archive.org/web/http://www.ne.jp/asahi/cpu/fukuda/d1.html
こちらの『四行詩集日乗』に轉載するなどして再公開して戴けると有り難く存じます。