里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

薄幸の皇女の墓?

2010年12月10日 | 歴 史
今日の朝日に「中大兄皇子の娘の墓か?」と題する、次のような記事が載っていた。

『奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳の約20m南東で新たに棺を納める石室が見つかり、これに付近の地名から越塚御門(こしづかごもん)古墳と名づけた』
『日本書紀には“斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめひこ)を合葬し、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を御陵の前に埋葬した”と記述されているが、牽牛子塚古墳からは2人用の棺が納められる石室が見つかっている事から、二つの古墳の位置関係から見てこれら3人を埋葬したとする説が有力である』

『大田皇女の父は中大兄皇子(後の天智天皇)。
夫はおじの大海人皇子(後の天武天皇)で、斉明天皇(祖母)や夫と共に九州に遠征する途中に大津皇子と大伯皇女をもうけたが、夫が天皇に即位する前20代前半で世を去った。
大田皇女の子・大津皇子は母の死で後ろ盾を失い、謀反の疑いをかけられ24歳で命を絶ったとされている』
『中大兄皇子が母と妹のそばに若くして世を去った娘を葬ったのではないかと見る学者も居るが、宮内庁では牽牛子塚古墳の西約2.5kmの所にある車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵、その近くの丘陵を大田皇女の墓と指定しており、現段階では陵墓指定の見直しはしない』

というもので、牽牛子塚古墳の位置は近鉄吉野線“飛鳥駅”の直ぐ西だった。

面白かったのは当時の風習で、
Wikipedia によれば、中大兄皇子は弟の大海人皇子に4人もの娘を与えたのだそうで、大田皇女の妹の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)も大海人皇子に嫁し、九州に遠征する際に草壁皇子を産んだのだという。
いとこ同士なら最近まで聞いた事があるが、叔父にしかも4人も与えるとは驚きだ!!

天智天皇の子女の内で大海人皇子に与えた子女の名前〕…Wikipedia から引用
大田皇女鸕野讃良皇女、建皇子、御名部皇女、阿閇皇女、山辺皇女、明日香皇女、
新田部皇女、志貴皇子、大友皇子、阿閇皇子、阿雅皇女、川島皇子、大江皇女、泉皇女、水主皇女

天皇に仕えた女性の身分〕…Wikipedia から引用
皇后(正妻)・妃(正妻)・夫人(皇后・妃の次に位する後宮の女性で三位以上から選んだ)、
 嬪(寝所に侍する女官で四位・五位の者)