里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

天明の一揆

2010年12月20日 | 歴 史
朝日新聞に、地元の作家・藤井登美子さんの執筆による“備後歴史紀行”が連載されて
いて、昨日は天明の一揆を誓った場所である“素盞鳴神社”を紹介していた。

内容は、
『数年間に及んだ天明の飢饉では、福山藩でも長雨と洪水によって作物は稔らず、人々
 は飢餓に苦しんでいた』
『当時の4代目藩主・阿部正倫は幕閣への栄達を望んで、当時の権力者達に賄賂を贈
 り続けた為に財政が厳しく、農民や町人から過酷な収奪を行った』
『そして、天明6年(1786年)未明、蛇円山であげられた狼煙を合図に遂に一揆が勃発
 し、先鋒隊の品治郡や芦田郡の一揆勢は戸手村の天王社(現在の素盞鳴神社)に終
 結して庄屋の屋敷になだれ込み、同じく安那郡、深津郡、沼隈郡の農民も決起して天
 王社近くの天王河原に合わせて数万人が終結し、福山藩に対峙した』
『一揆の代表は大阪城代へ越訴する為に当時の法を犯して岡山領へ侵入し、万余の民
 衆は神辺平野へ集結して、昼夜となく大声で威嚇して仲間の安全を隣国へ訴え続けた』
『この時、悲願の老中就任を控えていた藩主は、隣国へ居座る一揆勢の存在を隠し通す
 事が出来ないと考え、公になるのを恐れて一揆勢の要求を丸呑みせざるをえなかった』
『こうして一揆は一人の犠牲者も出さずに収束し、知略を用いた民衆の完全勝利となった』
というものだ。

天王社(現在の素盞鳴神社)は、高天原を追放されたという“荒ぶる神”須佐之男命を祀ってある神社で、今は夏に行われる祇園祭での喧嘩神輿が有名だ。
近くの天王河原には、宝暦と明和の一揆の際にも農民達が結集したと言うが、農民達は
こうした荒々しい一揆を起こすに相応しい場所としてこの地を選んだのであろうか?