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里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

備後国と備中国の国境

2008年10月23日 | 歴 史
鯉が窪湿原へ行く途中で、予てから気になっていた“備後・備中国境跡”へ寄って
みた。 
そこは、182号線を北上し東城町から哲西町に越える峠の頂上(県境)を、ほん
の少し左(北)へ行った所へあった。

(県境近く→県境で左折し旧街道へ)
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昔は、この182号線より少し北に旧街道が平行に走っていて、やはり峠の頂上に
国境があったらしい。

旧街道を東城側から歩いて行くと、国境近くの備後側に浅野藩の番所跡があった。
現在はE氏宅なのだそうだが、江戸時代には、ここに浅野領福代村の役人と備中側
天領大竹村の役人が詰め、交代で一人ずつ国境警備にあたったそうだ。

国境には“御境杭木(おさかいこうぼく)”なる木の門柱が立っていて、

その左手の備後側には“一里塚”があり、「従是西芸州領」「従是西備後国」と書
かれた木の柱が立てられていた。 
江戸時代、備後国北部の大部分は広島藩の浅野氏の所領で、東城村を含む32か村
は浅野家3家老の一つである東城浅野家(1万石)の知行地だったそうだ。   

右手には両国の国境碑が立てられ、夫々
「従是東備中国哲多郡大竹村」 「従是西備後国奴可郡福代村」と刻まれていた。

備中国側に入ると、“熊谷屋”という茶店があった。
当時人馬の往来が多かったこの“備中新見路”、二本松峠界隈は格好の休憩所であ
ったが、大正9年に現国道に新道が開通し、昭和5年に芸備線が開通した為に街道
はさびれ熊谷屋もなくなってしまったが、その跡地の隣に再現されたものだ。
どうも、明治40年にここに泊まり歌を詠んだ若山牧水を記念して、昭和39年に建て
られたものらしい。

昔は活気があって賑やかだったのだろうが、今は人目にもつかない裏道だ。
しかし、ゆっくり歩いてみると色々なものがあって面白い!

(再現された熊谷屋の裏側→玄関側)
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