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虚像

今、清原元プロ野球選手の例にとってもSMAP問題や不倫疑惑に関しても一方向から配信される情報によっていかに私達は脳の中で印象を形づくってしまうのか不安になります。

本人たちの内面や本質抜きに、作られた虚像が独り歩きしていくような状態です。仕事がその虚像を必要としているため、「はい、やーめた」みたになわけにはいきません。生活がかかっているわけですから。
そんな人らの普段の生活とは、内面とはどんなものなのでしょう。あくまでも作られたメディアの世界でのみ有効な自分がとても不安になるのではないでしょうか。
清原さんがヤクザのような裏社会に憧れたのは、じでいっているそれらの人の凄みみたいのに憧れただけ。本当にそうであるならば、はじめから野球選手でなくそっちの道に入っていくべきです。お寺に勤めていた頃、その道の人で信仰熱心な人の何人かと知り合いになりましたが、映画やドラマのような世界とはまるっきり違っていました。命の危険がある為、いつ死んでも恥ずかしくないように綺麗な下着を身につけたり、お酒などで身体はみんなボロボロになり社会的に保障が利かないので晩年がとてもつらいと。

暴力団を肯定するわけではないですが、中途半端ではその世界でものこることはできないでしょう。
一時の根性や努力はそれ程辛いものではありません。修行も終わりがあるからこらえられます。マラソンもゴールがあるから走れるのです。私達の人生には死ぬまでゴールがありません。死んでからも魂の修行者としては終わりがないのです。しかし終わりがないことを忘れ日々自分のできることのみに一心に取り組んだ人間にだけ、神仏はご褒美をくださいます。

「生きている。自分は今を生きている」

マラソンでいうエンドルフィンが出て気持ちよくなって走っていても苦しくないように、その境地に今が生きれたら薬物などの快楽よりよほど気持ちいいに違いないのです。その状態になれないからこそ、苦しいのかもしれませんが終わりのない私達の魂修行には「やり直し」という特典があることは知っておくべきです。
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