徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

清水眞砂子「本の虫ではないのだけれど」を読みながら

2018-07-09 11:04:40 | 読書あれこれ
清水眞砂子さんといえば
言わずと知れた「ゲド戦記」の訳者。

そして私にとってはあこがれのお姉さま。
お姉さまなんて言葉は時代がかっているけれど、
こうとしか呼びようがない。

私は1950年生まれ。
清水さんはそれを遡ることおよそ10年前に生まれた
お姉さまたちの一人。

この10年の差は大きい。
私の近しいお姉さまたちはみな「筋」が通っている。
翻って私・・・、そんな筋がない。

私が学生時代を送っていたのは
1960年代末から70年代にかけて。

このあたりから海外の創作児童文学が
雪崩をうって日本に入ってきた。

そんな面白さの道を開いてくれたのは
本田和子先生。
先生の児童文学評論が面白く、
そんなに面白そうなら読んでみよう!!って
それらの本を手に取った。

結果、先生の評論が面白いってことの方が多いことも・・。

それでも、私はそのとき現代の児童文学や絵本の扉を
開けてもらった。

それまでの私は、私たちの時代の子どもの例にもれず
昔話や、グリムなどの子ども版で育ったのだ。

その後しばらくして
私は清水眞砂子さんの児童文学評論に出会った。
「子どもの本の現在」「子どもの本のまなざし」などなど。

丁度子育て時期と重なっていた。
本を読む時間をとることなんか至難の業だったが、
それでも清水さんの新刊が出ると手に取った。

こうして私は彼女の本の追っかけになった。

時が過ぎ、子育ては終わった。
60代の後半に入った今、
また、彼女の本に再会した。

その名は「本の虫ではないのだけれど―日常を散策するⅠ」。
その本が出た当初に買っておいて、
一回読んだきりで、
本棚に積読となっていた。

彼女のこの本、最後の授業の講演録
「なぜ本を手ばなせなかったか」で始まる。
以後折々に認められたエッセイが続く。

その中で目に留まったのは
「それにしても山田太一は恰好いい」という文章。

その中の引用に
「『親によって、言葉によって解決されない世界で
ゆっくり育って来る魂のようなものが子どもにはあるのだと思います』
」(注1)があった。

読んでみなくちゃ。
そう思って、山田太一の「親ができるのは『ほんの少しばかりのこと』」を
kindleで手に入れた。

60代後半を生きている私には納得がいくことばかりのエッセイ。
なるほど、清水さんが取り上げている意味がよくわかった。

そこで・・・私のおせっかいが始まった。
子育て最中のウルトラの母に「面白いわよ」と
kindleを渡した。

そして2,3日後、
ウルトラの母は「これってきれいすぎる。
本当に子育て中に、山田太一はそう思っていたのだろうか?
美しい思い出になっているのではないか・・・。」との
感想と共いにkindleは返されてきた。

そうか、みんなそれぞれ生きている年齢や状況がある。
私がもう60をとうに超えた年代だから
なるほどと頷けることも多いのかもしれない。

渦中にあるときは、それは見えない。
私もそうだったに違いない・・・。

またやっちゃった。
待つって難しい。

とそんなことにまで広がっていった
清水眞砂子さんの本との再会でした。

私は今続いて
同じく積読してあった
「そして、ねずみ女房は星をみた」という
清水さんセレクトの「大人が読みたい子どもの本」の
評論にハマっている。

(注1) 山田太一:親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと PHP叢書 より


















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