この春から末娘夫婦と同居することになった。
二世帯住宅。
姑が亡くなるまで、一階は姑、二階は私たち家族。
といってもここ数年は私たち夫婦と猫だけ。
もう時効と思い、思い切って一階部分を改築することに。
私たちは二階から動かず、娘夫婦に一階をということだ。
さあ、片づけなくちゃ・・・。
なんたってここ数年は、姑の住まいだった一階は倉庫と化していた。
今すぐ使わないものは、下に置いておこうっと、
と、軽い気持ちで置きはじめてしまったのだが、
気が付くとそれがかなりの量に・・・。
夫と二人で、時間を見つけては片付けだした。
姑のものはすんなり行き場が決まったり、捨てたり(嫁って現金です・・)、
割と早く片が付いた(なんて言葉も思わず口からポロリ)。
片付かなかったのは、子どもたちが家を出る時に置いて行ったものだ。
片付かなかった原因を考えてみたのだが・・・、
始めのうちは「まったくもう、いらないものは全部おいていっちゃうんだから!」と
その責任は子どもたちにあると考えて、怒りモードに。
(でも、かくいう私も、実家に本入りの本棚置いてきちゃっている・・)
そこで一応、電話で聞いてみることに。
捨てられないものを取りに来た長女。
でもそれも、彼女の置いていった量からみたら微々たるもの。
「見ちゃったら捨てられなくなるから、捨てていいよ。
もう何年もそれで困ったことないんだもん。」とは二女の返事。
息子はどうしてもというものだけに「捨てるな!」とシールを張っていった。
そうか、捨てていいのか・・。
と、思って「いざ片付けん!」と腕まくり。
ところが・・、
これがまた、すぐ片づけをする手が止まってしまい・・・、
うーん、これは捨てられないわ、
え、これ捨てちゃっていいの?
これ捨てたら、子どもたちがもっと年を取ってから
自分の記憶をたどれなくなっちゃうんじゃないかしら・・と、心配が募る。
例を挙げると、長男が幼稚園から小学校低学年の時にはまっていた
小型の恐竜図鑑。もうボロボロ。
それから、童話屋(もう潰れて今はない出版社)から出ている
工藤直子さんの「こぶたはなこさん」シリーズ。
末っ子の二女は大型ではなく小型の絵本が好きだったっけ・・。
挙句の果てに、二女が中学校の時に書いた反省文の下書きなんていうのが出てきた。
その内容をみたら、全く反省になっていない。
思わず、二女に電話した。
そうしたら、「その時も、お母さん、これ反省文になってないわよ!
書き直しなさい!って言ったから、ちゃんと書き直したのを出したわよ」
という返事。あらまあ、そうだったのね・・・。
なんて、あれこれ思っているうちに
「捨てない」と書いた段ボールがみるみる増えていく。
これでは、なんのための断・捨・離かわからない。
子どもたちは捨てていいっていっているものなのに・・、
「捨てる」の段ボールには入れられない私って、いったい何なの???
ということで、捨てられないのは「私自身」だと気付いた次第。
子どもたちはもうとっくに通過していったもの。
その時をやりきったのだろう。
だからいらない。
ピアノをもう卒業したといった長女と同じだ。
では私は?
母親やめられないんだろうか??
結局どうしても捨てられないものが数箱残った。
それを捨てる決断はできなかった。
まさか、片づけられないのが自分だったとは・・。
でも、出しっぱなしにはできない。
ということで、
私はまた、自分の荷物の「断・捨・離」、いえ、
こんまり風片づけに励むことにいたしましょう。
二世帯住宅。
姑が亡くなるまで、一階は姑、二階は私たち家族。
といってもここ数年は私たち夫婦と猫だけ。
もう時効と思い、思い切って一階部分を改築することに。
私たちは二階から動かず、娘夫婦に一階をということだ。
さあ、片づけなくちゃ・・・。
なんたってここ数年は、姑の住まいだった一階は倉庫と化していた。
今すぐ使わないものは、下に置いておこうっと、
と、軽い気持ちで置きはじめてしまったのだが、
気が付くとそれがかなりの量に・・・。
夫と二人で、時間を見つけては片付けだした。
姑のものはすんなり行き場が決まったり、捨てたり(嫁って現金です・・)、
割と早く片が付いた(なんて言葉も思わず口からポロリ)。
片付かなかったのは、子どもたちが家を出る時に置いて行ったものだ。
片付かなかった原因を考えてみたのだが・・・、
始めのうちは「まったくもう、いらないものは全部おいていっちゃうんだから!」と
その責任は子どもたちにあると考えて、怒りモードに。
(でも、かくいう私も、実家に本入りの本棚置いてきちゃっている・・)
そこで一応、電話で聞いてみることに。
捨てられないものを取りに来た長女。
でもそれも、彼女の置いていった量からみたら微々たるもの。
「見ちゃったら捨てられなくなるから、捨てていいよ。
もう何年もそれで困ったことないんだもん。」とは二女の返事。
息子はどうしてもというものだけに「捨てるな!」とシールを張っていった。
そうか、捨てていいのか・・。
と、思って「いざ片付けん!」と腕まくり。
ところが・・、
これがまた、すぐ片づけをする手が止まってしまい・・・、
うーん、これは捨てられないわ、
え、これ捨てちゃっていいの?
これ捨てたら、子どもたちがもっと年を取ってから
自分の記憶をたどれなくなっちゃうんじゃないかしら・・と、心配が募る。
例を挙げると、長男が幼稚園から小学校低学年の時にはまっていた
小型の恐竜図鑑。もうボロボロ。
それから、童話屋(もう潰れて今はない出版社)から出ている
工藤直子さんの「こぶたはなこさん」シリーズ。
末っ子の二女は大型ではなく小型の絵本が好きだったっけ・・。
挙句の果てに、二女が中学校の時に書いた反省文の下書きなんていうのが出てきた。
その内容をみたら、全く反省になっていない。
思わず、二女に電話した。
そうしたら、「その時も、お母さん、これ反省文になってないわよ!
書き直しなさい!って言ったから、ちゃんと書き直したのを出したわよ」
という返事。あらまあ、そうだったのね・・・。
なんて、あれこれ思っているうちに
「捨てない」と書いた段ボールがみるみる増えていく。
これでは、なんのための断・捨・離かわからない。
子どもたちは捨てていいっていっているものなのに・・、
「捨てる」の段ボールには入れられない私って、いったい何なの???
ということで、捨てられないのは「私自身」だと気付いた次第。
子どもたちはもうとっくに通過していったもの。
その時をやりきったのだろう。
だからいらない。
ピアノをもう卒業したといった長女と同じだ。
では私は?
母親やめられないんだろうか??
結局どうしても捨てられないものが数箱残った。
それを捨てる決断はできなかった。
まさか、片づけられないのが自分だったとは・・。
でも、出しっぱなしにはできない。
ということで、
私はまた、自分の荷物の「断・捨・離」、いえ、
こんまり風片づけに励むことにいたしましょう。