徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

新春の朝ー世代交代を想うときー

2017-01-01 10:23:59 | 二世帯同居
2017年もあっという間にやってきた。
東京は快晴。
初日の出はきっと美しいに違いない。

なんて考えながら、
元旦にも関わらす、
いつも通りに布団の中で「ヌクヌク」していると

「おじいちゃん、おばあちゃん、おはよう!
アッ、明けましておめでとう!!
新聞だよ!!」(ウルトラマン1号 一年生)

いつもと変わらぬ新聞配達。
時間は6時40分。
「そろそろ起きたほうがいいと思うよ」(ウルトラマン1号)
と言って、階下に戻っていった。

今日は元旦。
ウルトラマン一家は
ウルトラの父の実家に年始に行く。

私たちは今日はのんびり過ごす予定。
朝も、いつも通りの簡単なパン食にするか、
はたまたお雑煮ぐらいは食べようか・・・
と迷っていると・・。

「おめでとう!!」とウルトラの母がやってくる。
「私たち、もうお雑煮食べたわよ。
まだ余っているから、よかったら持ってこようか?」(ウルトラの母)

「なんだか、それじゃあ悪いわよ」(私)
「遠慮しなくていいんだってば。
でも、味の保証はないわよ」(ウルトラの母)
「じゃあ、お言葉にあまえようかな・・・」(私)
「適当なお鍋に入れておくからねー」(ウルトラの母)

娘に、お雑煮をおすそ分けしてもらうなんて・・・、
今までは私の美学が許さなかったけれど、
もうそんな「親」をやっていなくていいんだって、ふと思った。

ここでフラッシュバック。

お正月。
25歳で結婚して家を出るまで、
ずっと母に作ってもらったおせちを食べ続けた。
グータラ娘は、ほとんど手伝うことはなかった。

結婚して社宅に住む。
その10年間は暮れからお正月は夫の実家で過ごした。
そのあと私の実家に行くというのが恒例行事。
ここでもおせちを作るのは姑。
私片づける人、食べる人。
実家に行っても同じこと。

その後、姑と同居。
ここから私のおせちづくりが始まった。
姑はおせちづくりリタイア。
姑が71歳の時のこと。

以後、夫の転勤についていった数年を除いて、
私のおせちづくりは続いている。
今年でかれこれ30年。

そして今日、私は30年ぶりに
作ってもらったお雑煮を食べた。
(もっとも亡くなった母のおせちは、母が亡くなった年、
今から12年前まで、食べ続けていたけれど・・・)

パン食はやめて、
娘のお雑煮に、作っておいた黒豆と昆布巻きを出し、
それに伊達巻と、実家のある町の蒲鉾屋さんの
超高級「はんぺん」少々。
明日、子どもたち家族が集まるので、
それ用に用意したものを一足先に味見を兼ねていただくことに。

なんと、娘のお雑煮には
三つ葉と柚子が別皿に用意されていた。
私より丁寧だ。
(もしかしたら、お姑さんが丁寧なのかも…フフフ)

こうして代替わりしていくのかなって。

グータラ娘だった私をもった母は、
79歳で亡くなる年まで、
私たちのためにおせちづくりをしてくれていた。

その年のお正月のことはよく覚えている。
皆で夕食におせちを食べた後、
母は、椅子に座ったま舟を漕いでいた。
ああ、疲れちゃったんだなって思った。
でも、そこまでしかわからなかった。

その時、すでに母は肺がんを発症していたのだ。
だから、年のせいだけではなく、
いつもより疲れがあったのだと思う。

でも、本人も、そして私たち家族も気づくことはできなかった。
分かったのはそれから3か月を経た3月のこと。

ああ、ぎりぎりまで母をこき使っちゃったなあって、
このことを思い出すたびに思う。
母は遂に「母業」をリタイアすることなく旅立ってしまった。

そして戻って、今日の私。
お雑煮、美味しかったなあ。

「いいわよ。大丈夫。私がやるから」っていう
自分を張って生きていくという
私自身の今までのスタンスを
少しやめてみようかなって思った。

もういくら頑張っても子どもたちの世代のようには
テキパキ生きてはいけない。
もう孫の方は走ったって私より早い。

そんな老いを認めながら、
また今年も徒然なるままに、
このブログに向かおうって思ったのでした。

昨年はあまりにも多くの、近しい人々が旅立っていきました。
そういう年代を私たちはこれから生き抜いていくしかないんだな
と思う年始でした。

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