2020@TOKYO

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■巨星、堕つ

2007-07-31 | ■政治、社会
  
  30日、夜半前に雨が轟々と降り出し、雷光が鋪道に反射して、一瞬、街路樹が異様なシルエットを見せる。雨水は大河のように流れ、その勢いは止むところがない。天候の激変に人々は逃げまどい、タクシーの群れは方向感覚を失ったバッファローの群れのように頭を交差点に突込んでいる。角を突き合わすように強烈な光線を交差させるヘッドライト、私はこの異様な光景の中に呆然と立ち尽くし、未明に逝った巨人のことを思っていた。

  小田実が死去した。どうあっても、この人は死ぬことがないと勝手に決めていた。しかし、75歳の若さで病死してしまった。

  1970年、高校3年生のとき、70年安保に反対するため、友人と私は清水谷公園で開催されたべ平連の集会に参加した。逮捕されれば退学であることを覚悟はしていたが、気弱なことに学生証は靴の中に隠していた。しかし逮捕などまったくの杞憂、べ平連の集会とその後のデモ行進は、機動隊などまったく介入する余地がないほど平和的なものだった。私たちは代表の小田実に会いたかったのに彼は不在で、集会の中心人物は事務局長の吉川勇一だった。黒いコートを着て、「私は今、アメリカから帰ってきた」と演説した吉川は、本当に格好よかった。

  べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は、1965年、ベトナム戦争に反対する哲学者の鶴見俊輔、作家の開高健と共に小田が結成した運動体である。アメリカのワシントンポスト紙に、「殺すな」と日本語で書いた反戦広告を掲載するなど、独自の活動を展開した。

  2004年には、大江健三郎、加藤周一らと「九条の会」を結成して、徹底的に護憲の思想を貫いたが、まさに昨日、参議院選挙における改憲推進政党の歴史的敗北を見ることなく逝ってしまった。

  数年前、私は偶然、小田実に出会ったことがある。新宿のホテルのロビーで、ドイツから来たファゴット奏者との打ち合わせに出かけたとき、ラウンジの側に小田実がいた。テレビで見かけるように、アスコットタイにジャケット、首をすくめて、体を少し傾けて歩いていた。今となっては、あのとき言葉を交わすことができなかったことが悔やまれる。こんな風に話しかけるべきだったのだ。

  「あなたの“何でも見てやろう”を読んで、私は世界に興味を持ちました。その後、“殺すな”というあなたのメッセージを心に留めて生きてきました。あなたの発言と行動は、今の私の生き方にとてつもなく大きな影響を与えてくれました。ありがとうございました」。

  このコラムを書き終えると日付が変わり、豪雨は嘘のように止んだ。夜空の彼方に去った巨星に向けて、もう一度、「ありがとうございました」と語りかける。

  (写真:2005年7月30日、有明コロシアムで開催された「九条の会講演会」)

  

  
  

  

  

  

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