林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

小学生の英語必修化論争がよくありますが。。。

2011年01月21日 | 英語学習
近年、小学校の英語必修化をめぐって、たびたび議論が行われる。

今日(2011年1月21日)の産経ニュースの[金曜討論]もそのひとつである。

小学校の英語教育必修化をめぐり、立教大教授と上智大教授が激論

登場する面子はほとんど同じであり、議論もほとんど深まりを見せることはない。

しかし、結論は分かりきっている。学校英語教育推進派の見解はナンセンスな空論にすぎないのだ。


日本人が英語を話せないのは、小学生のときから英語を勉強していないからではない。(1)英語の絶対的な勉強量が足りないこと、(2)英語を話せる機会が少ないこと、(3)英語教育が全国民対象であること、(4)少人数授業の安価な英語コースがないこと、(5)大学生(以上)の英語教育プログラムが実質的に整備されていないことが主な原因なのだ。


現状において現実的な英語教育の改革は、公立小学校で英語教育を実施することではなく、むしろ公立中学の英語の時間を週4回に回復すること(できたら週5回)である。なぜ、そういう当たり前の提案をせずに、小学校英語の必修化をたくらむのかちょっと理解に苦しむところだ。だが、塾屋の私から言わせれば、その理由はほぼ見当がつく。要するに、教育産業の子供英語部門のエージェントがロビイストとして活躍しているから、小学校英語論が勢いを持っているのである。子供、つまり幼稚園児や小学校低学年を市場ターゲットとして抱き込もうというのは、業界の常識である。当然、なるべく多くの小学生に英語を学んでもらいたいのだ。

子供英語にとりわけ熱心なのが、縞滋郎で有名なベ社である。上智大学の吉田先生もベ社の恩恵に預かっている大学教授の一人である。要するに大人の利害が一致し、子供を英語教育市場に誘導しようとしているようにしか見えないのである。


英語を普通程度に話せるようになる(ここでは、英検1級程度の英語力で良いとする)ためには、中学校から頑張れる機会さえあればよい。こういう当たり前のことを、国民が知ることが出来ないのは、非常に残念である。

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1 コメント

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official language (noga)
2011-01-22 21:28:13
英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっていれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしがなりたたない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境がととのはないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。

「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


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