りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

天満川

2024-03-07 | 短編小説


         【1】

 家路につく徹の背後には、カクテルライトに染まった初秋の薄暮が広がっていた。片手には赤いメガホン。祭りの後のあの独特な空気が彼を優しく包み込んでいた。
 二〇〇八年、広島市民球場の公式戦最終日。広島東洋カープは、感動的な勝利で市民球場の有終の美を飾った。
 今日は歩いて帰ろう。徹はそう決めた。
 いつもなら球場前の電停から路面電車に乗って帰るのだが、別に歩いて帰れない距離ではなかったし、何よりも三十路を控えて少し早めの中年太りがはじまった彼にとっては、むしろその距離は適度なウォーキングの距離だった。


 広島市中区小宮町。
 広島市民球場から西へ約一キロ。相生橋を渡り、本川町を横切り、繁雑とした土橋を越えると、細い路地で形成されたその町に辿り着く。その一角に徹の家はあった。家は車がなんとか擦れ違える程度の路地に面していて、玄関は路地に密接している。当然、玄関アプローチや庭といった優雅なものはない。寛ぎや安らぎとは無縁の、ただただ住むためだけのような家だ。古びた引き戸の玄関を開けると、段ボール箱とその中に入れる荷物たちが徹を出迎えた。
 「カープ、勝ったんね?」
 おかえりの代わりに、家の奥からそんな問いかけが耳に届いた。
 「ああ、六対三で勝ちじゃ」
 と徹は答えた。
 「ほぉね、そりゃあ、よかった」
 今度はそんな安堵の声が家の奥から届いた。   
 靴を脱ぎ、玄関から居間に入った。居間はさらに雑然としていた。衣類や毛布やバスタオルが、引越し業者の名前が印刷された数個の段ボール箱の周りに散らかっている。
 「全然、片付いてないのう」
 徹は居間の真ん中で仁王立ちになって、独り言のようにそう呟いた。
 「しょうがないわいねぇ、お母ちゃん一人で全部できるわけないじゃないの」
 徹の母は居間の隣の台所で食器棚を片付けていた。徹は居間をゆっくり見回すと、とりあえず足元の荷物を段ボール箱に入れはじめた。
 「綾さんも一緒に行けたらよかったのにねぇ、市民球場、今日が最後じゃったのに」
 しばらくして、食器を片付けながら独り言のように母が徹にそう話しかけた。
 「仕方がないわ。今日は夜勤明けなんじゃけぇ、無理は言えん」
 母は何も答えなかったが、徹の返事に微笑んでいるようだった。
 「なぁ、お母ちゃん・・・」
 「何ね?」
 「今さらこういう事を聞くのも何じゃけど・・・本当に大丈夫なんか?」
 タオルの束をまとめて段ボール箱に入れながら、徹は母にそう尋ねた。
 「ホンマに何を聞くんねぇ、この子わぁ」
 と、今度は声を出して母は笑った。
 「大丈夫よ」
 ひとしきり笑うと、母は明確な輪郭を持った口調でそう言い、徹に向かってこう続けた。
 「心配しんさんな。あんたは綾さんを幸せにする事だけを考えんさい」
 「でも家が変わって、俺も出ていって、それでお母ちゃん一人でお爺ちゃんの面倒を見るのは・・・」
 「家を出る言うても、別に遠くに行くわけじゃない、同じ市内じゃ。それに綾さんは看護師さんなんじゃけぇ、何かあったら助けてもらうわ。それに何じゃ言うても、新しい家は新築のマンションなんじゃけぇねぇ」
 母は一気にそこまで喋ると、イヒヒと意地悪そうに笑った。しかしそれは明らかに芝居じみた笑いだった。その笑いが、徹を余計に複雑な心境にさせる。
 結婚しても、一緒に住もう。
 そう提案したのは徹でも母でもなく、徹の婚約者の綾だった。
 「お義母さん一人だけでお爺ちゃんの世話をするのは・・・うちも手伝いますから」
 綾からの提案を、母はにべもなく断った。
 「結婚したらねぇ、色々あるんよ。じゃけぇ、あんたらはあんたらの生活を作ればええ。それに・・・新婚時代は、何かと気まずい事もあるじゃろうし」
 そう言うと、その時も母はイヒヒと笑った。徹は知っている。これは母の癖だ。自分の本心を隠す時、母は必ずこんな三文役者のような笑い方をするのだ。
 母は笑い終わると、もう一度「大丈夫じゃけぇ」と口にして、そして、いつもの口癖をその後に続けた。
 「なるように、なるけぇ」


         【2】

 小宮町に再開発の話が出たのは、今から五年ほど前だ。
 東の段原町、南の宇品と、広島市内の下町然とした町が次々と再開発の名の元に消えてゆく中、西の下町とでも言うべき小宮町にその波がやって来たのは、言わば必然的な事だった。長年小宮町に鎮座していた広大な鋳物工場の跡地を地元の大手不動産屋が買い上げ、そこに地上三十階建ての二棟のタワーマンションを建設する計画をブチあげた。周囲にはショッピングモールやホテルも作り、完成すれば紙屋町や八丁堀と肩を並べる新都心になると喧伝された。
 再開発地域は「リバーラ・コミヤ」と命名された。どこにでもある誰にでも付けられそうな安易なネーミングだったが、名前にリバーがついたのは、再開発地域のすぐ西隣に天満川が流れていたからだ。
 徹の家は鋳物工場跡地の裏手にあって、リバーラ・コミヤの一角に引っ掛かっていた。当時、バブルの後遺症から回復しつつあった不動産屋は、破格の立ち退き料を徹の家に提示した。長年、兎小屋以下の家で暮らしてきた徹の母は、この提示に何も躊躇う事なく乗った。
 だが、祖父は躊躇った。
 いや躊躇ったというよりも、立ち退き自体に反対しているように見えた。しかし祖父の想いを無視するかのように、小宮町の再開発計画は着々と進んでいった。母と徹は逡巡する祖父を粘り強く説得し続け、祖父も最後には何かを諦めたかのように 
 「わかった」
 と、ひと言漏らした。
 それによって徹の家は多額の立退料を手に入れ、母はこの際だから・・・と、雑然とした広島の中心部から離れる事を決め、リバーラ・コミヤを手掛ける不動産屋が販売する海が近い新築のマンションを購入したのだった。
 全てが円満に解決したように見えた。ある事だけを除いては。これをきっかけに、祖父の様子が変わりはじめた事だけを除いては。


 「今度の家は、窓から宮島も見えるんじゃけぇね。きれいな景色を毎日眺めていれば、お爺ちゃんもまた元気になるかもしれん・・・」
 母は大皿を梱包しながらそう言った。その言葉が、まるで祈りのように徹には聞こえた。
 祖父は温厚な人だった。無口で趣味らしい趣味もなく、定年退職するまで毎日、広島湾に突き出た工場へ天満川の河岸を自転車で通勤し続けた。定年後は、今度は毎朝、その天満川の河岸を散歩する事ぐらいが唯一の日課のような人だった。今年で九十二歳になる。
 「お爺ちゃんは?」
 徹が母に尋ねる。
 「自分の部屋におるよ」
 祖父は自分の部屋に、おる。確かに、おる。だが、“おる”だけだ。
 「ただいま」
 徹は祖父の部屋の襖を静かに開けた。
 子どもの頃から帰宅したら六畳間の祖父の部屋に顔を出すことが徹の習慣だった。それは単なる挨拶という意味だけではなく、父親を早く亡くした徹にとって父親代わりの存在だった祖父に対する愛情表現だったのかもしれない。
 だが、今は違う。
 祖父が変わりはじめてからの「ただいま」は、愛情表現というよりも、確認という意味合いの方が強い。
 襖を開けると案の定、祖父は饐えた匂いが染み付いた部屋の中で、介護ベッドに腰掛け、両手をだらんと下げ、虚空をみつめていた。寄れた白いワイシャツの裾が鼠色のズボンからはみ出ている。黒い靴下も片方だけ穿いている。身なりだけはいつもキチンと整えていた祖父の姿は、もうそこにはなかった。しかし、ちゃんとワイシャツの裾をズボンに入れ、靴下を両足に穿けば、その格好はかつて祖父が天満川を散策していた時の姿になる。そんな以前の面影が辛うじて残っている事が、徹にはたまらなく哀しかった。
 「お爺ちゃん、ただいま」
 徹はもう一度、祖父に声をかけた。しかしその言葉に反応はなかった。徹は静かに襖を閉め、浅いため息を落とすと、居間に戻った。
 マンションには来週引越す予定だ。
 本当ならば、半年後に引越す予定だったが、不動産屋から〈予定より早期に着工する事になった〉という全く体温を感じさせない連絡が突然届いたために、早めの引越しになってしまった。
 おかげで、引越しの翌週が徹と綾の結婚披露宴という事態になってしまい、実家の引越し、徹と綾の新居への引越し、そして結婚披露宴と、慶事といえども稀に見る慌ただしさが徹の家を覆っていたのだ。
 「お爺ちゃんの荷物は?」
 「明日やるわ。業者さんも手伝ってくれるし、荷物は少ないけぇね」
 「でも、あの部屋には親父やお婆ちゃんの物もあるんじゃろ?」
 徹がそう口にすると、母は黙り込んだ。


 母は徹が八歳の時に癌で夫を亡くして以来、女手ひとつで一人息子の徹を育てあげた。社交的な性格が幸いしてか、保険の外交員の仕事は母の天職のように見えていたし、実際に業績も優秀だったようで「今月は報奨金が出たけぇ」と言って、年に何度か徹と祖父を土橋の寿司屋へ連れて行ってくれた事もあった。
 定年退職を迎えた昨年、ささやかな宴を昔と同じ土橋の寿司屋で開いた。昔と違っていたのはお金を払ったのが母ではなく、徹と綾だったことだ。母は泣いた。二十年分、泣いた。徹が母の涙を見たのは、それが初めてだった。母が徹にしつこいほど「綾さんを幸せにしんさい」と言うのも、おそらく自身があまりにも早くに連れ合いを亡くしてしまった事も要因なのだろう、と徹は思っていた。きっと母の中では、息子の結婚に対して歓喜と寂寞の情が網の目のように絡まっているのだろう。


 「捨てようと思うとるんよ」
 母はため息まじりにそう言った。そして、全部じゃないけど、と前置きして話を続けた。
 「いつまでも持っといても仕方がない…お父ちゃんの物はともかく、お婆ちゃんの物なんて、ほとんど…いや、何もないんじゃし」
 母の話を聞きながら、徹はある事を思い出していた。徹は小学生だった。たまたま祖父の部屋にいた徹は、祖父にふと、祖母について尋ねた事があった。徹が生まれた時、祖母はすでに鬼籍に入っていた。祖父はしばらく思案した後、机の引出しの奥から古びた缶の箱を取り出し、蓋を開けた。中には黄ばんだボロボロの布切れが収まっていた。
 「お婆ちゃんじゃ」
 祖父は布切れを徹に見せながら、たったひと言、そう言った。


 「とにかく、こっちの事はええから、あんたは自分らの事を進めんさい。ええね?」
 母はそう言うと、台所の奥の洗面所へと消えていった。
 居間のタンスの上に薬箱のような仏壇があった。徹はその古びた小さな仏壇を、ため息を落とす代わりに力なくみつめた。


         【3】

 引越し前夜。
 徹たちは家の居間でささやかな宴を開いた。小宮町の家での最後の夕食だ。
 母と徹は迷うことなく土橋の寿司屋から出前を取った。がらんどうになった居間の畳の上に置いた丸い寿司桶を、母と祖父と徹、そして綾の四人で囲んだ。「ちゃんとした寿司屋のお寿司なんて、お義母さんの退職祝い以来じゃわぁ」と、綾は寿司桶を前にして戯けた。


 徹と綾は高校の同級生だった。三年前の同窓会で再会し、二年前に交際をはじめ、そして一年前に徹ではなく、綾の方から求婚した。
 徹と綾は好対照だった。電気工事会社で電気技師として働く徹は、祖父譲りなのか口数が少なく人付き合いも苦手だった。しかし綾は看護師という職業柄か、人付き合いが上手く、徹の母とも交際間もなくすぐに打ち解けた。
 気丈な母と屈託のない綾は見事に馬が合っていた。徹が仕事から帰宅すると、台所で母と綾が一緒に和やかに夕食の準備をしていたこともあったし、母は冗談と本気の境目のような口調で「うちは本当はこんな娘が欲しかったんよねぇ」と目を細めることもあった。
 様子が変わってしまった祖父と最も懇意だったのも、綾かもしれない。すっかり途絶えていた天満川の散歩に祖父を最初に誘ったのも綾だった。祖父は綾が誰だか分からないまま、ワイシャツの裾をズボンに入れ、靴下を穿き、綾と手をつないで、満開の桜の花びらが舞い散る天満川の河岸へ散歩に出かけた。
 綾はすでに徹の家の家族だった。だから二人の結婚は、もはやある意味、形式的な意味しか持っていなかった。


 「お爺ちゃんはお茶で我慢してね」
 と綾が紙コップにお茶を注いで祖父の前に置いた。
 「この家で暮らすのは今日が最後なんよ」
 「お爺ちゃんは、いっぱいいっぱい思い出があるもんねぇ」
 「六十年も住んでたんじゃもんねぇ」
 「でも、今度の家は海が近いけぇ、気持ちがええよ」
 「ホンマホンマ、うちらも遊びに行くけぇね」
 ・・・母と綾は交互に祖父に語りかけた。徹はそれを缶ビール片手に耳にしていた。徹が隣の祖父を一瞥すると、祖父は足元の寿司桶を眺めていたが、ゆっくりと頭を上げると、がらんどうになった居間の中空を、居間と同じがらんどうの眼で眺めていた。
 今日は酔いが回るのが早い。缶ビールを一本も空けないうちに、徹の頭は鈍くなりはじめた。仕方がなかった。実家と自分の引越し、そして結婚式の段取り。もちろん仕事はいつも通りだ。特にここ数日はそれらが折り重なって、全てが同時に徹に覆い被さってきていて、今までに経験がないほど心身ともに疲れ切っていた。
 母と綾は寿司を摘みながら話をしている。しかし睡魔が断片的に会話を遮断して、その内容が把握できない。二人の言葉の断片から推測するに、どうも祖父の介護についてのようだ。祖父を見る。取り皿の上に巻寿司がひとつ。箸をつけずに相変わらず中空を力なく眺めている。再び睡魔が襲う。記憶が途切れる。波が引くと「あんた、もう横になりんさい」と母が徹に呼び掛けていた。徹は右手を横に振った。綾が母に何かを尋ねる。母が答える。「昔は川の向こうに家があったらしいんじゃけど、お爺ちゃんがこっちに建て直したんよ。まぁ、それはうちも嫁いで来る前じゃけぇね、詳しい理由はよう知らんのんよ・・・」そう話すと、母は缶ビールを啜った。居間が回りはじめる。グルグルと回りはじめる。また睡魔が来る。波のようにやって来る。分かる。今度は本格的な睡魔だ。母の言った通り徹は少し横になろうとした。その時だった。


 「・・・ユキ・・・コ・・・」


 聞こえた。
 消え入るようなか細い声だったが、確かにそう聞こえた。だが、母と綾の耳には届かなかったようだ。二人は今度は新居の話をしている。徹は祖父へ顔を向けた。しかしそこには、相変わらずがらんどうの中空を眺める、がらんどうの祖父しかいなかった。


 小宮町の電停は、あまりにも道幅が狭いのでアスファルトの上に簡単な安全地帯が描かれてあるだけだ。そんな狭小な電停で、徹は綾を見送るために路面電車を待っていた。
 「この電停も、もっと綺麗になるんかねぇ?」 
 綾が足元の安全地帯を見つめてそう言った。  
 徹は「たぶんな」と答え、周囲を見回した。季節が変わろうとしていた。胸に吸い込む空気にも初秋の匂いがまじっている。
 小宮町の再開発は少しずつ進んでいた。鋳物工場跡地はすでに更地になり、その周辺にも少しずつ更地が広がりはじめている。徹の家とその周囲一帯の家が取り壊されれば、さらに広大な更地がうまれる。
 「この更地、どれくらいの広さなんじゃろ?」 
 綾が徹に尋ねる。
 「さぁ・・・市民球場くらいじゃないかのう」 
 と徹が無意識に答えると、綾が吹き出した。その姿を見て「どうしたんな?」と徹がふくれた。
 「だって、市民球場も更地になるんよ」
 「あ、そうか」
 「色んなものが、変わっていくんじゃね・・・」 
 電停に滑り込んで来た路面電車の軋む音が、綾の呟きをかき消した。綾が電車に乗り込む間際に、徹は明後日からは新居に泊まる事を綾に告げた。綾は微笑み、小さく頷いた。



 それは真夜中というよりも、もう朝が近い時間だった。
 枕元の携帯電話がけたたましく鳴った。寝ぼけ眼で徹が受話器のボタンを押すと、母の声が聞こえてきた。明らかに取り乱していた。どうしたんな?落ち着けや・・・という言葉を徹が口にしていると、一緒に新居に泊まり隣で眠っていた綾も眼を覚ました。そのうち母は徐々に落ち着きを取り戻し、あらためて徹に向かってこう言った。
 「お爺ちゃんが、おらんのんよ!」


 徹と綾は新居を飛び出した。
 車で祇園新道を一路、南へ走る。夜明け前のこの時間帯なら、徹と綾の新居がある安佐南区から母のマンションまで一時間もかからない。助手席で綾が携帯電話で母と話し続けている。しきりに「大丈夫」「もうすぐ」「落ち着いて」という言葉を繰り返している。雨が降っていた。細かく霧のような小糠雨だ。霧吹きで吹いたような微粒の雨がフロントガラスを濡らしてはワイパーが掠め取ってゆく。綾が電話を切った。
 「お義母さん、警察に電話するって…」
 綾はそう呟くと、深いため息とともに助手席のシートに沈み込んだ。
 母と祖父は、一昨日新しいマンションに引越した。その夜は荷物の片付けもあったので、徹もマンションに泊まった。マンションのエントランスは厳重なオートロック式だが、それは入る時だけであって、外出する時は比較的容易だ。きっと祖父は家のドアを開けると、当ても無いまま見知らぬ町へ彷徨い出たのだろう。
 徘徊。
 徹は頭の中で呟いた。胸が押し潰されるような感覚が徹を襲った。
 祇園新橋を渡り、牛田を抜け、白島北町の交差点で右折する。徹は太田川放水路を目指した。放水路に沿って延びる車道を河口に向って一気に南へ走れば、母と祖父が暮らすマンションまで一直線だ。その時だった。
 「小宮町へ、行こう」
 フロントガラスの先を真直ぐ見据えて、綾がそう言った。
 「たぶん、お爺ちゃん・・・いると思う」


         【4】

 小宮町も雨だった。
 家に向かった。だが家はすでに本物のがらんどうになっていた。周囲を見回す。大半が更地になり、以前の町並みがすっかり消えてしまった町の中には、動く者の姿は皆無だった。
 傘を忘れた徹と綾は濡れながら祖父を探した。霧雨が肌に染み込み、徐々に体温が奪われてゆく感覚に襲われる。
 それは自分が白い息を吐いている事に徹自身が気づいた直後だった。徹から指呼の距離にいた綾が、突然走り出した。何かを思い出したかのように更地を抜け、河沿いの道路を渡り、そして一気に天満川の河岸へ駆け上った。河岸に立った綾は周囲を見渡すと、にわかに対岸の一点に釘付けになった。
 綾の後を追って走って来た徹も、河岸に辿り着くと肩で息をしながら対岸を見つめた。立ちすくんだ綾が凝視している場所に眼を向けると、そこに、誰かがいた。誰かが対岸の土手でしゃがんで川面を覗き込んでいた。再び綾が走り出す。綾はすぐ傍の天満橋を渡り、対岸のその誰かの元へ向かって駆けてゆく。徹も追いかけた。徹が綾に遅れて天満橋の上を駆けている間に綾はその誰かの元へ辿り着き、そしてその途端、まるで全身の力が一気に抜けたかのように綾はその場にへたり込んだ。その光景を目にして、対岸の人がいったい誰なのか、徹にも分かった。


 祖父は、川面に向かって呼びかけていた。
 「のう、帰って来い・・・帰って来いや・・・ユキコ」
 ユキコ。忘れていた。そして、思い出した。その名前は徹の祖母の名前だった。あの家での最後の宴の時に鼓膜に届いた言葉は、やはり空耳ではなかったのだ。
 「あの時、お前と武を助けるのにわしは必死じゃった…ホンマに必死じゃった」
 武とは、徹の父の名前だ。父は物心つく前から、祖父の男手ひとつで育てられたという。
 「ぎょうさんの人が川の中におった・・・家も人も町も何もかんもが燃えて・・・わしも火傷しとった。でもわしは、お前と武だけは助けたかった。じゃけえ、お前と武と一緒に川の中に飛び込んだ・・・なのに、なんで・・・なんで、わしの手を離してしもうたんじゃ」
 祖父が、そこにいた。六十三年前の、二十九歳の、徹と同い年の祖父が、そこにいた。
 「気がついたら、この布切れがわしの肩にくっ付いとった。この布切れだけが・・・」
 祖父は片手に黄ばんだボロボロの布切れを握りしめていた。足元には古びた缶の箱が転がっていた。
 「あれから、わしはずっと探しょうたんじゃ。毎日毎日河岸を行ったり来たりしてのう・・・仕事の行き帰りも、毎日毎日毎日毎日・・・」
 その言葉に徹は心臓を鷲掴みにされ、呼吸が止まりそうになった。
 自転車通勤ではなかった。散歩ではなかった。


 祖父は、探していたのだ。


 天満川の河岸で、あの夏の朝、自分の手から離れてしまった祖母を、ずっとずっとずっと探し続けていたのだ。
 今、眼の前の祖父は、ワイシャツの裾をズボンに入れ、両足には黒い靴下を穿いていた。いつも河岸を散歩していた時の格好だ。そんな祖父の骨張った背中を、今にも泣き崩れそうな表情の綾がゆっくりと擦っている。
 「お前とはぐれたすぐ近くに家を建てた。無理矢理建てた。待っとったんじゃ、お前が帰って来るのを・・・。じゃが、その家ものうなる・・・探しとうても、もう、探せんようになる・・・」
 徹は対岸の小宮町に眼を向けた。
 瞬時に体が凍りついた。
 霧雨と近づく夜明けに浮かび上がる広大な更地となった小宮町は、まるで〈あの日〉の広島を想起させるような景色だった。


 その景色が、今、祖父の両眼にも映っている。


 「武も大きゅうなってのう・・・もうすぐ結婚するんじゃ。花嫁さんもベッピンさんでのう・・・よう気がつく優しい子なんじゃ」
 祖父は、徹を息子の武だと思い込んでいた。      
 それでいい。徹はそう思った。幼い頃、祖父は明らかに徹の父親代わりだった。色んな事を教えてくれた。色んな事で叱られた。しかし、誰よりも徹を可愛がってくれた。そうだ。俺は、祖父の息子だ。川面に向かって四つん這いになって語り続ける祖父を見つめながら、徹の胸は次第に熱くなっていった。
 「今度の家は高い場所にあるんじゃ。宮島が見えるんじゃ・・・一緒に行こう、また一緒に暮らそうや、のう、ユキコ・・・一緒に・・・」
 濃紺の天満川の川面に、現在の祖父と六十三年前の祖父が交錯する。九十二歳の祖父と二十九歳の祖父が交錯する。綾はいつの間にか祖父の背中を擦るのをやめ、両手で顔を覆って嗚咽していた。
 ふと、視界の端に赤色灯が見えた。徹が眼を向けると道端の大きな楠木の下にパトカーが停車していた。後部座席のドアが開くと、中から母が飛び出して来た。
 小糠雨は祖父を濡らした。
 母を濡らした。
 徹を濡らした。
 綾を濡らした。
 そして、天満川の川面をいつまでも濡らし続けた。


         【5】

 二本の線香に火を点けると、夫婦はその線香を川辺に刺し、そして静かに手を合わせた。
 「お爺ちゃん、お婆ちゃんに会えたかな」
 夫がそう呟くと、妻は緩やかに流れる川面をみつめながら、柔らかい表情で静かに頷いた。
 「だって、探して探してずっと探して、あの朝、やっとみつけたから、お爺ちゃんは安心して天国に逝ったんよ、きっと・・・」
 妻の言葉を耳にした後、夫はゆっくりと周囲を見回した。
 あれから二年の月日が過ぎていた。
 町はすっかり様変わりしてしまった。二棟の高層マンションは完成し、その周辺には多彩なショッピングモールが広がり、休日には数えきれない家族連れやカップルで賑わっている。夫の生家があった場所あたりは、シネマコンプレックスへ通じる通路になっていた。
 夫は振り返ると、もう一度、目の前の河岸に視線を移した。
 陽射しが反射して、川面が硝子の絨毯のようにキラキラと光っている。河岸の木立は、生命の悦びを謳歌するかのように日毎にその緑を濃くしてゆく。もう、夏が近い。
 「大丈夫か?」
 と夫が妻に問いかけると、妻は
 「うん」
 と頷いて、少し目立ちはじめたお腹に優しくそっと両手を添えた。
 「ねぇ、お義母さんに、何かお土産買っていかん?」
 「別にえかろうが。もうすぐ一緒に暮らすんじゃけぇ」
 「あそこのお寿司、買って行かん?きっと喜ぶよ」
 「でも、今日はそんなにお金持ってないで・・・財布がスッカラカンになるわ」
 夫が渋るようにそう言うと、つかさず妻は片手をパッと開いて、「大丈夫」と言ってこう続けた。
 「なるように、なるけぇ」


 二人は笑いながら河岸を降りると、土橋の寿司屋で寿司を買って、以前より広く綺麗になり屋根まで付いた小宮町の電停から、宮島口行きの路面電車に乗った。電停を出発した路面電車は、ガタンゴトンと、鉄橋を渡る音を川面に響かせながら川を渡って行った。
 夫婦が灯した二本の線香の煙は、二人が去った後も、まるで戯れるように天満川の川面の上をいつまでもゆっくりと漂っていた。
          
              〈終/2008年〉
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