〈2008年作〉
月に一度の割合で、心療内科に通院している。
別に重度の精神障害を患っているわけではない。仕事でストレスや疲れが溜まって、判断力や気力が萎え “ あれ?俺、ちょっとヤバイかも・・・”と感じると、とりあえず通院して先生のカウンセリングを受けて、相応の薬を1ヶ月分処方してもらっているのだ。そうなると、必然のように1ヶ月に一度の通院というリズムが出来上がってしまった。そんな感じで、僕はここ三年くらいを過ごしている。
その病院は先月から診療システムが変わった。完全予約制になったのだ。裏を返せば、完全予約制でないとさばけないほど、精神的な理由で来院する人が増えたということなのだろう。
僕も先月から事前に予約するようになり、今回も予約した時間の10分ほど前に訪れたのだが、完全予約制になってからというもの、アポなしの急患がいなくなって、以前なら受診待ちの患者でひしめき合っていた待合室は、驚くほど閑散としていた。
そんな待合室に、二人の先客がいた。
一人は、ソファーに座った五十代半ばぐらいの男。もう一人は、その横で直立不動の二十代とおぼしき男。待合室に入り、その二人の姿が視界に入った瞬間、僕は凍った。
たとえば、街で100人に“この二人の職業は何でしょう?”とアンケートを取ったら、きっと100人中150人が"や●ざ!"と答えるほど、見事な893様だったからである。
僕は、待合室の受付に診察券を提出すると、本棚から適当な雑誌を選んで、ちょっとその二人から離れた椅子に座った。
ここだけ一足先に冬がやってきたのか?と錯覚するほど待合室は、寒く、そして静かな、本当に静かな空気が漂っていた。
待合室に男三人。
“俺の次の患者、早く来い、早く来い”と僕は念仏を唱えるように心の中で繰り返しながら、本棚から持ってきた3ヶ月前の週刊誌という、今さら読んでもまったく意味も価値もない雑誌の記事を必死に読んでいるフリをした。
「あんちゃん!あんちゃん!」
そんな掛け声が、冷たい待合室に響き、僕の鼓膜を突き破った。 〈日本の景気はどんどん回復する!〉という3ヶ月前の能天気を通り越えてもはや哀愁さえ漂っている記事を真面目に読んでいるフリをしていた僕は、恐る恐る顔をあげてその声が聞こえて来た先客の方に目を向けた。するとソファーの御仁は、僕の顔を見るや否や、"オウ!"とオットセイのような声をひと声上げて、手招きをした。
僕はその言動を見て、とっさに、「さっきから、俺のことを“あんちゃん”って呼んでたみたいだけど、俺には親からもらったちゃんとした名前があるんだ、失礼じゃないか!それに初対面で手招きをするなんてどういうことだ!普通ならば、用事があるべき貴男の方から俺の元へ来るのが礼儀だろう、君の方から来なさい!」
・・・とは口が裂けても言うわけがなく、ちょっと目を丸くして "へ?あっしのことで?"というような表情をすると、
「ほうよ、他に誰がおるんなら」
と、床を這うような野太いダミ声と天使のようなしわくちゃの笑顔で僕にそうおっしゃったので、僕は即座にソファーの御仁の横のイスにスライドした。 移動するや否や、御仁は僕に尋ねた。
「あんちゃんは、どこが悪いんな?」
「僕は、ストレスをためやすい性格なんです。だからちょっと心身に変調を感じたら、酷くなる前にこうやって通院をして先生に診てもらって予防しているんです。酷くなったら、仕事はおろか、私生活もまともに過ごせなくなりますからね。そうなると、とても厄介ですから」
・・・ということを滑舌よく喋られるはずもなく、
「ええ・・・まぁ、これで・・・」
と僕は、精一杯の作り笑顔で、ブレイクダンスの下手なウェーブのように片手を上下させただけだった。
「ほうか・・・大変じゃのう・・・」
とソファーの御仁は、僕の動作を見て、明らかに理解できない表情を浮かべながらも納得したフリをした。
生まれてこのかた、こんなに低能なコミュニケーションの取り方を僕はしたことがない。この時点で、確実に一年ほど寿命が短縮。
「あんちゃんは結婚しとるんか?」
御仁は二発目のミサイルを僕に発射した。
これは別に答えに窮することもない。僕は「はい」と答えた。
「ほおか・・・そりゃあ、たいそうベッピンさんなんじゃろうのう」
「いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ・・・」
僕は、手のひらが団扇になるくらいの勢いで手を振り、そして一生分の“いえいえ”をここで使い果たした。
でも御仁の言葉にちょっと嬉しかったのも事実だから、タチが悪い。 この時点で、2ヶ月ほど寿命が回復。
「子どもは、おるんか?」
寿命が回復したところで、つかさず三発目を放つ御仁。
「はい」
と答えると、
「何人な?」
と御仁。
「二人です」
と答えると、
「ほうか・・・可愛いんじゃろうのう」
と御仁は口にした。
しかし僕は子どもの数は言ったけど、年齢も性別も言っていない。 何で可愛いって分かるんだ?あんた、千里眼でもあるのか?それともエスパー893なのか?・・・なんて、これまた尋ねることなどできるわけがなく、
「あ、ありぐろてれっす」
という絶対に広辞苑に載っていない言葉で感謝の意を伝えた。
妻の時は否定して、子どもの時は肯定する。
世の中、必要なのは何事もバランス感覚なのだと、この時知った。
「わしはのぉ・・・」
どうも僕への興味が尽きたらしい御仁は、今度は自分の話をはじめた。そして待合室全体に響き渡るような声でこう言った。
「あんちゃん、わしはうつ病になってしもうてのう」
その言葉を聞いた僕は、思わず手にしていた週刊誌を落としそうになった。
そして、
「オッサンよぉ、うつ病ってのは、人と話したり、日常生活ができなくなったり、酷い時には記憶力もなくなるほど辛い病気なんだぞ、僕も前に罹ったことがあったけど、二度とあんな症状はごめんだって思うほど嫌な病気なんだ!あんたみたいに初対面の俺と堂々と喋れる人間のどこがうつ病 なんだよ?全国の本当のうつ病患者に、今すぐ土下座して謝れっ!」
・・・という言葉を真正面からぶつけられるわけもなく、
「そ、そうなんですか・・・それは大変で・・・」
と同情するような言葉を口にした。できれば涙の一滴でもこぼしてやろうかと思ったが、さすがに泣けなかった。涙腺は正直である。
「食欲ものうなってしもうてのぅ・・・じゃけぇ、最近は顔色もすぐれん」
と、松崎しげると見間違えるほどの褐色の頬を指差しながら、御仁はそう言った。
「Aさぁ~ん」
そうこうしているうちに、看護師が診察室から名前を呼んだ。僕の名前ではなかった。
しかしその名前は耳にした御仁は“オウ!”とまたまたオットセイの声をあげると、スクッと立ち上がり、僕と御仁が話している間、ずっと直立したままだった若い男性を引き連れて、診察室に入っていった。
しばらくすると、分厚い扉で仕切られていて、普段なら、絶対に中の声も音も聴こえないはずの診察室から “・・・わしはうつ・・・”とか、“顔色・・・なんじゃ!” という御仁の声が漏れ聞こえてきた。
診察は15分ほどで終わり、御仁たちは診察室から出てきた。入れ替わるように僕の名前が呼ばれ、診察室に入ると、いつもの先生が診察室のデスクに座っていた。 真っ青な顔をして。
うつ病かと思った。 〈待合室編につづく〉
●うつ病い893〈待合室編〉→ https://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/9630437aa8fd56d4cc5f9fb68d756b45