先週、社会に出て最初に就職した会社の同期の連中と再会したからか、
それ以来、その頃のことが走馬灯のように蘇ることが多くてね。
20年前のちょうど今ごろは、入社して2ヶ月目の頃で。
表面上は会社の雰囲気にも慣れはじめて、先輩や上司の方々とも
少しずつ普通に話ができはじめた頃だったと思う。
ボクは、希望通り制作部デザイン課に配属されたデザイナーの卵・・・と
いうよりも、どこの馬の骨かも分からないチンピラだった(笑)
さすがに会社の空気には慣れはじめたと言っても、仕事はまだまだ
全然、まったく、完全無欠に憶えてなくて、先輩や上司に怒られて
ばっかりだったな。
最初に担当になった仕事は、今でも憶えている。
広島市内のMストアという小さなスーパーマーケットのチラシだった。
A4サイズの1色刷りという、今では一般人でも自宅のパソコンで作れる
ようなチラシだった。
そのラフデザイン(設計図)を担当した。
だけど、新入社員が担当する最初の最初の最初の仕事だから、会社だって
ちゃんと考えている。
そのチラシに対するクライアントからの要望も“前回印刷したチラシの
デザインとほぼ同じでいい”というものだった。
だからラフデザインの制作と言えども、ほとんど自分の考えやアイデアを
投影させることもなく、設計図を見ながらプラモデルを組み立てるように、
ただ印刷できる原稿を、前回通り組み立て直す・・・というような仕事だった。
今考えればデザイナーの仕事とは言えないような仕事だったけど、それでも嬉しかった。
自分で広告を創りたい!と思って広告業界に入った人間だったからね。
何も知らなかったし、何を知らないのかさえも分からない状態だったから、
やること、知ること、全部新鮮だったし、刺激的だった。
そうこうするうちに2ヶ月ほどが過ぎた。
そう、ちょうど今頃の季節だった。
小さなチラシのデザインや制作を毎日こなしていたら、ある日、直属の上司に
呼ばれた。
「来週、サンブランドのチラシの制作が入る。お前が、やれ」
頭が、まっ白になった。
サンブランドというのは、会社が抱える数多のクライアントの中でも超お得意先だった。
制作するチラシも、町の小さなスーパーのような稚拙なチラシではない。
サイズは小さくてもB3、通常はB2、B1サイズで制作し、印刷枚数も何十万枚単位で、
それを関西地方一円に折り込まれる途方もない仕事だ。
そんなチラシだから、制作過程もハンパではない。
デザインのクォリティは高いし、費やす時間も膨大だ。数日間徹夜なんて当たり前。
何で、オレが????
そんなこと、上司に言えっこない。
ボクは“は、はぁ・・・わかりました”と、曖昧な返事に終始したような記憶がある。
こういう噂は、社内をあっという間に駆け回る。
その翌日には、「来週のサンブランド・制作担当:りきる」ということが瞬く間に知れ渡った。
当時、ボクが勤めていた本社には、社員は100人程度いたと思う。
同期入社の連中は、全部署で30人くらい。東京営業所や大阪支社にも同期の連中はそれなりにいた。
何が起こったかというと、そんな様々な場所にいた連中が、次から次へと内線でボクに電話してきたのだ。
「お前、サンブランド担当するんだって?」
「すげーなぁ、出世頭じゃん」
「がんばれよ~」
「大丈夫か?」
「お前、たぶん、死ぬな」・・・など(笑)
そんな励ましやひやかしの電話を対応しているうちに、少しずつ背中に得体の知れないプレッシャーが
のしかかってきたことを今でもよく憶えている。
翌週、予定通りサンブランドの仕事が入稿した。
何だかんだ言っても、ボクは新入社員だから最初からボク一人だけが担当するわけではなく、最初の
大元になるラフデザインはベテランの先輩が担当され、ボクはそのアシスタントのような役だった。
しかしアシスタントと言っても、実際に印刷されるB1サイズのチラシを制作するのは、このボクなのだから、
手を抜くようなマネができない。
チラシに載せる文字ひとつ、写真ひとつ、慎重に慎重に扱って作ってゆく。
いつもなら午後7時過ぎには退社していたのに、その時は、さすがに連日深夜残業だった。
いつもなら40人近いデザイナーが右往左往している広いデザインフロアに、ボクと直属の上司だけ残って
ひたすらサンブランドのチラシと格闘し続けた。
そうこうするうちに、チラシのデザインが完成した。
いったいどれだけの時間、どれだけの日数で仕上げたのか、今ではまったく憶えていない。
とにかく無事仕上がって、次の工程である製版にまわし終えたのが、夜中だったことだけは憶えている。
あれから、20年。
会社も変わり、仕事のスタイルも変わり、広告もチラシだけではなく、ありとあらゆる広告媒体の
デザインに携わってきた。
20年前のあのサンブランドの仕事が、今の自分の何らかの糧になっているのかどうかを尋ねられても、
自分でもよく分からない。
でも、仕事を任せられることへの喜びと重責を初めて実感したのは、まぎれもなくあの仕事だったと思う。
20年前、まさか今もあの頃と同じように広告の仕事で飯を食べているとは、正直想像だにしていなかった。
大げさではなく、奇跡のようなことだと思う。
これから先、どこまでこの仕事でやっていけるのか?
それはまったく分からない。時代もあるし、年齢もある。
でも、いろんなことがありつつも20年もやってこれたのだから、どうにかやっていけるんじゃないか?と
楽観的に思っている自分もいる。
道は、続いている。
その道を、ボクは歩くだけ。それだけだ。
それ以来、その頃のことが走馬灯のように蘇ることが多くてね。
20年前のちょうど今ごろは、入社して2ヶ月目の頃で。
表面上は会社の雰囲気にも慣れはじめて、先輩や上司の方々とも
少しずつ普通に話ができはじめた頃だったと思う。
ボクは、希望通り制作部デザイン課に配属されたデザイナーの卵・・・と
いうよりも、どこの馬の骨かも分からないチンピラだった(笑)
さすがに会社の空気には慣れはじめたと言っても、仕事はまだまだ
全然、まったく、完全無欠に憶えてなくて、先輩や上司に怒られて
ばっかりだったな。
最初に担当になった仕事は、今でも憶えている。
広島市内のMストアという小さなスーパーマーケットのチラシだった。
A4サイズの1色刷りという、今では一般人でも自宅のパソコンで作れる
ようなチラシだった。
そのラフデザイン(設計図)を担当した。
だけど、新入社員が担当する最初の最初の最初の仕事だから、会社だって
ちゃんと考えている。
そのチラシに対するクライアントからの要望も“前回印刷したチラシの
デザインとほぼ同じでいい”というものだった。
だからラフデザインの制作と言えども、ほとんど自分の考えやアイデアを
投影させることもなく、設計図を見ながらプラモデルを組み立てるように、
ただ印刷できる原稿を、前回通り組み立て直す・・・というような仕事だった。
今考えればデザイナーの仕事とは言えないような仕事だったけど、それでも嬉しかった。
自分で広告を創りたい!と思って広告業界に入った人間だったからね。
何も知らなかったし、何を知らないのかさえも分からない状態だったから、
やること、知ること、全部新鮮だったし、刺激的だった。
そうこうするうちに2ヶ月ほどが過ぎた。
そう、ちょうど今頃の季節だった。
小さなチラシのデザインや制作を毎日こなしていたら、ある日、直属の上司に
呼ばれた。
「来週、サンブランドのチラシの制作が入る。お前が、やれ」
頭が、まっ白になった。
サンブランドというのは、会社が抱える数多のクライアントの中でも超お得意先だった。
制作するチラシも、町の小さなスーパーのような稚拙なチラシではない。
サイズは小さくてもB3、通常はB2、B1サイズで制作し、印刷枚数も何十万枚単位で、
それを関西地方一円に折り込まれる途方もない仕事だ。
そんなチラシだから、制作過程もハンパではない。
デザインのクォリティは高いし、費やす時間も膨大だ。数日間徹夜なんて当たり前。
何で、オレが????
そんなこと、上司に言えっこない。
ボクは“は、はぁ・・・わかりました”と、曖昧な返事に終始したような記憶がある。
こういう噂は、社内をあっという間に駆け回る。
その翌日には、「来週のサンブランド・制作担当:りきる」ということが瞬く間に知れ渡った。
当時、ボクが勤めていた本社には、社員は100人程度いたと思う。
同期入社の連中は、全部署で30人くらい。東京営業所や大阪支社にも同期の連中はそれなりにいた。
何が起こったかというと、そんな様々な場所にいた連中が、次から次へと内線でボクに電話してきたのだ。
「お前、サンブランド担当するんだって?」
「すげーなぁ、出世頭じゃん」
「がんばれよ~」
「大丈夫か?」
「お前、たぶん、死ぬな」・・・など(笑)
そんな励ましやひやかしの電話を対応しているうちに、少しずつ背中に得体の知れないプレッシャーが
のしかかってきたことを今でもよく憶えている。
翌週、予定通りサンブランドの仕事が入稿した。
何だかんだ言っても、ボクは新入社員だから最初からボク一人だけが担当するわけではなく、最初の
大元になるラフデザインはベテランの先輩が担当され、ボクはそのアシスタントのような役だった。
しかしアシスタントと言っても、実際に印刷されるB1サイズのチラシを制作するのは、このボクなのだから、
手を抜くようなマネができない。
チラシに載せる文字ひとつ、写真ひとつ、慎重に慎重に扱って作ってゆく。
いつもなら午後7時過ぎには退社していたのに、その時は、さすがに連日深夜残業だった。
いつもなら40人近いデザイナーが右往左往している広いデザインフロアに、ボクと直属の上司だけ残って
ひたすらサンブランドのチラシと格闘し続けた。
そうこうするうちに、チラシのデザインが完成した。
いったいどれだけの時間、どれだけの日数で仕上げたのか、今ではまったく憶えていない。
とにかく無事仕上がって、次の工程である製版にまわし終えたのが、夜中だったことだけは憶えている。
あれから、20年。
会社も変わり、仕事のスタイルも変わり、広告もチラシだけではなく、ありとあらゆる広告媒体の
デザインに携わってきた。
20年前のあのサンブランドの仕事が、今の自分の何らかの糧になっているのかどうかを尋ねられても、
自分でもよく分からない。
でも、仕事を任せられることへの喜びと重責を初めて実感したのは、まぎれもなくあの仕事だったと思う。
20年前、まさか今もあの頃と同じように広告の仕事で飯を食べているとは、正直想像だにしていなかった。
大げさではなく、奇跡のようなことだと思う。
これから先、どこまでこの仕事でやっていけるのか?
それはまったく分からない。時代もあるし、年齢もある。
でも、いろんなことがありつつも20年もやってこれたのだから、どうにかやっていけるんじゃないか?と
楽観的に思っている自分もいる。
道は、続いている。
その道を、ボクは歩くだけ。それだけだ。