りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

ドロップシャドウ。

2012-02-03 | Weblog
仕事の話。

僕の仕事は広告のグラフィックデザインだ。
専門職ということもあって、日々の仕事の中でいろんなことをやっている。
その中で、最も比重が大きい仕事は、まぁ、名前のとおり広告のデザインなわけで。
ポスターやらフライヤーやらパンフレットやら看板やらホームページやら名刺やら・・・と
日々、ありとあらゆるものをデザインしている。

・・・で、それらを制作してゆく過程で様々なデザイン的技法を用いるわけだが、その中に
“シャドウ”というものがある。
要するに“シャドウ=影”なのだが、おもにタイトルなどの文字に用いることがある技法だ↓



しかし最近では上記のようなシャドウよりも、下記のようなシャドウが圧倒的に多くなった↓



この違いがお分かりだろうか?

上のシャドウは単に文字を重ねてズラしたモノだが、下のシャドウは重ねた下の文字がボケて
本物の影のようになり立体感が出ている。
このように、立体感のあるシャドウを“ドロップシャドウ”という。

実は、僕はこのドロップシャドウが苦手だった。

使えないとか創れないというわけではなく、どうもこの技法を自分のデザインに用いるのに
抵抗があったのだ。
それには大きな理由として、2つの理由があった。

ひとつは、僕自身がこの仕事をはじめた頃は、まだ広告業界(というよりも世の中すべて)が
アナログの時代で、広告も紙と鉛筆と版下で制作されていたこと。
当時駆け出しの半人前以下だった僕は、諸先輩の創ったモノはもちろんのこと、神様のような
著名なクリエイターの作品を見て憧れて、それらを見よう見まねで模倣しながら、いつか自分
のものにしようと七転八倒・暗中模索を繰り返していた。
亀倉雄策、田中一光、サイトウマコト、バウハウス・・・etc.
それら神様のようなクリエイターやクリエイター集団の作品には、ドロップシャドウは使われていない。
まだそんな技法はなかったということもあるが、何よりもそんな小手先の技法を持ち入らなくても、
十分にパワーと魂がこもった作品を創り上げていたのだ。
そういった作品に感化されていた僕は、シャドウが無くても十二分に訴求力とインパクトのある広告が
いつか自分にも創れるはずだ、と信じ続けてきた。

もうひとつは、昨今の広告で、あまりにもドロップシャドウが氾濫してしまっていること。
あなたの近くにパンフレットや折込みチラシがあれば、それを手に取って見ていただきたい。
おそらく十中八九の確立で、文字のどこかにドロップシャドウが使われているのではないだろうか。

〈他人と同じは、イヤだ〉

巷のドロップシャドウを使った広告を目にするたびに、広告に携わる人間なら少なからず持っている
この気持ちが大きく揺さぶられた。
そしてその解決策といえばいいのか結論といえばいいのか分からないが、その結果、また最初の理由に
戻ってしまい、“最後のアナログ世代”という訳の分からないポリシーとプライドをまとって、自分の
中の殻に閉じこもろうとしていた。

でも、やめた。

気づいたのだ。
最初の理由でも書いたが、普通のシャドウだろうが、ドロップシャドウだろうが、どちらにしても
それはデザインの技法のひとつに過ぎない。
つまり、あったり前の話だが、良い広告を創る過程で必要な方を使用すればいいわけで、仮に良い
広告を創るために双方とも必要なければ、別に使わなくてもいいのである。

そんな当たり前のことに、今さらながら気づいたのだ。

こういうことを“木を見て森を見ない”とか“本末転倒”というのだろう。
僕はよくこういう事態に陥る。
盲目的になってしまい、物事の主客が逆転したことに気づかずに進めてしまうことが、公私に関わらず
今までもよくあった。
明らかに、僕の短所だと思う。

これから仕事は繁忙期に入る。

様々なクライアントの様々な仕事が同時に何本も動き出す。
どんなモノを創るべきか、まだ頭の中がまっ白な仕事もあるが、自分が関わる以上、良い広告を創りたい。

その気持ちだけは、20年前にこの世界に入った時から、何ら変わっていない。
コメント (2)
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