GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

グループ紹介 「すみれ」テニスクラブ 1985年

2009年03月18日 | 報道・グループ紹介
 今回紹介させていただきます私たちのグループは、毎週一回町のテニスコートをお借りして、楽しんでおります仲間です。
 始めてからまだ日が浅く、約一年と四ヶ月ほどしかたっておりませんが、旧知の仲間かのように、和気あいあいと活動しております。会員は現在十一名おりますが、皆熱心で小雨がぱらついていたり、風の強い日でもラケットを握りたい一心で、集まってきます。
 始めた頃は、ラケットの振り方さえ知りませんでしたが、この頃では、試合のまねごとが出来るまでになってきました。
 又、平均年齢が、三十歳そこそこのメンバーですので、小さい子どもたちを連れて来て、子守をしながら、練習をする人もおります。一週に二時間ほどのプレーですが、戸外で思いっきり体を動かすことは、家に閉じこもりがちな私たちにとりましては、たいへん良い気分転換になります。皆声をそろえて、毎日の生活に張が出て来たと申しております。
 地域の仲間づくりとしても大変良い機会ですので、事情の許すかぎりこれからも続けていきたいとおもっております。(高野公子)
     『嵐山町報道』330号 1985年(昭和60)5月25日  婦人のページ

断金の交 小林博治 1971年

2009年03月17日 | 追悼の辞
   断金の交
                    埼玉県師友協会幹事 小林博治
 昭和四十四年(1969)四月二十四日、田幡先生の告別式の席上、弔辞のために立とうとした埼玉師友会長大沢雄一氏は、急によろめいて倒れかけ、一瞬、一座の者をハッとさせた。足がひどくしびれている様子であった。
 埼玉県知事、衆参議員の経歴をもつ大沢氏である。あらゆる会合、儀式の経験はたっぷりある筈である。それをどうした訳だったのであろうかと、不思議に思った次第である。別席で大沢氏は「私は何にも知らず、しびれにも気がつかず座っていました。」と語ったが、このように大沢氏の心は、ただ全く、田幡氏を失った悲しみに強くとらえられ、全く我を忘れておられたのである。
 大沢氏の弔辞は、田幡家に大切にしまってあり、そのテープもある筈である。この弔辞には、皆、泣かされた。私達は人間の心と心の結びつき、その厳粛さに触れて、涙を流した。このようなことは私達の人生にも希有のことである。
 大沢氏は、埼玉県師友会報に「正師善友」と題して貴い宗教的体験を語り、安岡先生を正師、田幡氏を心友として敬している。大沢、田幡両氏の間には、他から、うかがい得ない深交があったのである。
 さてそこで、この両氏の出会いの機縁は、どんないきさつであったか。それを紹介しよう。
 昭和二十三年(1948)四月、菅谷村では新制中学の建設にからんで、鎌形小学校廃止の問題が起り、これを主張する議会側と、絶対反対の鎌形区民との間に、はげしい対立が生じ、鎌形出身議員の総辞職から、分村運動へと紛争は止めどなく発展した。
 田幡氏はこの時菅谷小、中学校PTAの会長をしていた。「喧嘩はいけない、話合いで。」これが田幡氏の信念だった。そして二、三の同志と協力して、裏面から両者の説得に奔走し、事件の解決に尽瘁(じんすい)した。
 「県の意見もきいて見たいから、君も説明役に行って呉れ」と言われて、私も田幡氏について浦和に行った。私は当時役場に勤めていたし、鎌形区民だったので、問題の焦点に近接していたわけである。
 斯くて、県庁で面会したのが、外ならぬ大沢雄一氏、当時の総務部長であった。これが両氏出会いの発端である。
 その年の秋、大沢部長は、農士学校に安岡先生を訪ね、洗心林で会食、懇談された。兼ねて村の学校問題を探るためであった。田幡氏と共に私も同席して、村の実情を説明した。部長は帰路、田幡氏の案内で、水害後の鎌形地区など実地に視察されたが、これが後の調停案の重要な資料になったようである。
 村の紛争はその後、部長の斡旋案を議会側が拒否し、青年層の蹶起により村会リコール運動など紛糾を重ねたが、二十四年(1949)の七月になって解決を見た。その内容は略々(ほぼ)部長の斡旋案に沿ったものであり、田幡氏の「喧嘩はよせ。」という主張が実ったものであった。両氏の親交はこの頃から始ったのである。
 昭和三十六年(1961)、埼玉師友会が結成され、全国師友協会(会長安岡正篤氏)と連繋(れんけい)し、安岡先生の提唱する「一燈照隅行」の組織的活動がスタートした。安岡先生の教学を、処世の根本信条とする田幡氏は、この会の結成にひたむきな情熱を傾け、創立準備会には太郎丸の自宅を提供し、知人、友人の多くを会員に糾合した。これは師友会の名簿を見ればよく解る。そして大沢氏を会長に推し、自ら副会長となって、会の運営に当ったのである。
 このように初対面から十余年、両氏の交りは年を重ねて深まっていったのである。此の間の事情は生前の田幡氏の話から推察できるが、今は詳説の暇がない。私は、田幡氏を「先生」という敬称で呼んでいたが、ふだんの対話はすべて「友達語」で敬語は用いなかった。先生は私の前でよく喋った方だと思う。大ていのことは、つつまず話してくれた。先生はいつも愉しそうに話し、私はよろこんで聞き手に廻った。学校は別だが小学校は同級生に当たっていた。それでお互いに遠慮がなかったわけである。尤も大沢、田幡両氏の友情は、私にはうかがい知る事の出来ない高い次元で結ばれていたのかも知れない。
 然しそれにしても、ここで、今一つ考えておきたいことがある。それは、大沢氏が知事、代議士として、政官界の第一人者であるし、田幡氏は歯科医を業とする一介の市井人である。どうしてこの両氏がこのような結びつきをしたのであろうか。この一点である。
 易経繋辞伝に、天火同人の卦を説明して、孔子が言っている。
「君子之道。或出或処。或黙或語。二人同心。其利断金。同心之言。其臭如蘭」*と。つまり君子の生き方は、人柄と地位と境遇とにより、いろいろの違いがあり、或は世の中に現われ出でて官途に就くこともあり、或は自分の家にいて、世の中に現われ出ないこともあり、或は沈黙して何も言わないこともあり、或はいろいろなことについて意見を述べることもあり、其のやり方はまるで異っているのであるが、其の心は世の中を憂え、世の中を救いたいと思うことは同じである。二人の君子が心を同じくして事に当るときは、その精力の鋭利なことは、堅い金属をも断ち切るほどであり、心を同じくするところの二人の君子が相語るところの言葉は、その香りは蘭の花の如く奥ゆかしいものである(公田連太郎述、易経講話)と。
 この孔子の言葉は大沢、田幡両氏の関係を見事に説きつくして余すところがない。まことに両氏の交りは、君子の道の上に立ったのである。朝と野とその立場は違っていたが、志すところ、進む道は全く同一だったのである。そこにあの奥ゆかしい友情と断金の指導力が発揮されたのである。これがわが埼玉師友会の活動を推進して来たのであった。私は今、両氏の出会いの経緯を書いて、人生に於ける人と人との邂逅の不思議さに胸を打たれている次第である。
     『田幡先生追悼誌』埼玉県歯科医師会発行 1971年(昭和46)2月
田幡順一:1908年(明治41)1月11日~1969年(昭和44)4月22日。埼玉県歯科医師会長など歴任。
*「二人心同じうすればその利(と)きこと金を断つ。同心の言(ことば)はその臭(かおり)蘭の如し」

今は亡き田幡順一君を偲びて 平沢・内田講 1971年

2009年03月16日 | 追悼の辞
   今は亡き君を偲びて
                    内田講
 私が小学校三年生になった大正三年(1914)四月一日(その頃は多分四月一日が入学式)校庭にいると急にあたりがざわめいていて校庭の西南側へ皆がゾロゾロと行き何か言っている。自分も行って聞いて見ると今日は宗順(田幡家の襲名で当時の自分等は家の呼び名と思っていた)の坊っちゃんが入学するのでどんな支度で来るかと皆はそれを見るために急な登りになっている坂道を見下ろしているのだった。自分も何となくその仲間に入って見ているうちに来た来た、ランドセル(後で知った呼び方)編上げ黒革靴半ズボン長靴下紺サージの折詰襟服、白カラー、ツバ長の学帽、いわゆる慶応スタイルの稍々(やや)小柄、細面の美少年、誰かにつれられて無心に登って来る少年、これが私の見た最初の田幡順一その人だった。当時一般の服装は筒袖の地縞織りに三尺、手作りの藁ぞうり、洋服とか靴とかは夢か絵で見た位の時兎に角皆一様におどろいたものだ。しかしそれもその筈、君の父君は明治二十二年(1889)市町村制施行の折村内随一の豪農として推されて初代村長を勤め君の入学当時は東京に出て事業に打ち込んでいたのだったから。私にはあの君が坂を登る時の姿が今でも絵でも見る如くはっきりと思い出され誠に感慨無量である。
 私が高等二年従って君が尋常六年の秋、それは文字通り運動の秋、秋季大運動会にはリレーが唯一つ部落対抗の種目で人気の中心でありそれは尋常高等通じてのチーム作り故尋常高学年から高等二年までの者が毎に一団となって校庭で一応走り、更に各の神社、寺等の庭で大いに走ったのだった。その時の校庭での練習はの偵察戦でもあったわけ。その時君は私の事を「馬」等と言ってワイワイ騒いでいたったね。多分私が大股に走ったからだったろうね。太郎丸は小さな故人が揃わず君の力走も効無く一位にはなれなかったね。私の方はも大きい方だし人も揃ったので見事一位だったね。でもあの時の君の力走振りは衆人の目に残って「宗順は早いぞ」の印象はハッキリ残ってるよ。明けの三月(大正九年)(1920)私は浦和へ君は東京の中学、日歯【日本歯科医学専門学校】と夫々の道に別れたね。
 昭和になって私は八和田小学校の教師をしていた六年(1931)の一日、停車場通りでふと見た「歯科医田幡順一」の表札、私は一瞬立ち停り昔の恋人にでも会った様な気持でじーっと見詰めた記憶がありますね。その後左上奥歯のむし歯で御厄介になったのだったが、あの坂を登った時の美少年とは打って変わりガッチリしたヒゲの男に成長していたのには先づは驚き且つは嬉しく思ったものだった、その後あの歯は補修してその後全然痛んでいませんよ。
 敗戦後のあれは二十三年(1948)の秋からだったろうか。親子リレーの親として何回顔を合わせたったろう。君は少々太り気味で相当苦労したったね、話せば必ず、健康のこと、仕事と健康の関係、君はよく小学校時代の放課後校庭での走り合い、日歯当時の箱根駅伝を話題に上げ「俺は体力があればこそこの仕事ができるんだよ。歯科医はとても馬力が必要なんだよ。」と言ったものだったね。その君があの難病におかされ、夢の間の裡にこの世から消え去り逝かれた事は何とも残念でたまらない。よく人は若し信長があそこで討たれずに天寿を全うしたら日本の歴史は……というね。今此処も君が更に十年、二十年健在であったら発展途上の嵐山町にどの様に力を尽されたかを思う時、御遺族の方々の無念さは勿論、吾々多少なりとも因縁を持つ者には唯々残念の一語に尽きる。先は奥様からの御話を承り逆縁ながら粗辞を連ねてなつかしき君の追悼の一文とします。(七郷小学校同窓生、元中学校長)
     『田幡先生追悼誌』埼玉県歯科医師会発行 1971年(昭和46)2月
田幡順一:1908年(明治41)1月11日~1969年(昭和44)4月22日。埼玉県歯科医師会長など歴任。

内田講『子どもの頃の思い出』 1978年・1979年

2009年03月15日 | 内田講『子どもの頃の思い出』

   内田講『子どもの頃の思い出』目次

その一
 『嵐山町報道』274号 1978年(昭和53)10月30日
  その1 野球
  その2 テニス
  その3 自動車

その二 『嵐山町報道』275号 1978年(昭和53)11月30日
  その4 熊谷小川間の交通
  その5 服装

その三 『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日
  その6 子どもの生活

その四 『嵐山町報道』279号 1979年(昭和54)4月5日
  その7 思い出すままに
        糸紡ぎ
        自転車
        自然物

その五 『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日
  その8 病気

その六 『嵐山町報道』281号 1979年(昭和54)7月1日
  その9 熱気球

その七 『嵐山町報道』282号 1979年(昭和54)8月1日
  その10 旗行列
  その11 マラソン

その八 『嵐山町報道』283号 1979年(昭和54)9月1日
  その12 草刈り
  その13 鳰の浮巣

その九 『嵐山町報道』285号 1979年(昭和54)12月1日
  その14 山鳥の親心


歩け大会に参加して 菅谷・高瀬しげ 1985年

2009年03月14日 | 報道・婦人のページ

 風がすこしあったか、早春のよき日、すすめられて歩け大会に参加した日は、二月二十四日。園児、若者、老人入り交じりて百名近く、服装もまちまちで,私は子どものお古。
 九時半出発、婦人会館を右に見て、大蔵から将軍沢に向かう道も良くなった。見返り橋を過ぎて峠に向かう上り下りの両側には、桜並木が植えられて、桜咲く四月はすばらしいことだろう。
 足弱な老人が先頭にということで先を歩いておりましたが、峠近くになりますと、子どもたちにどんどんぬかれてしまいました。
 途中、強者どもの夢の跡で小休止して山路に入る。松林は落ち葉がつもり、ジュータンを敷きつめたように。下り坂で足を取られることもたびたびあったが、足裏には心地よい。
 いまは顧(かえり)みる人もない落ち葉も、燃料、肥料にと大事な農家の資源でしたのに。古き良きことも、世代の流れには逆らえず埋もれてアラ枝も雨ざらし、もったいない。年を重ねた古い私には、この六字が頭から離れず、嫌われております。
 松林を出るともう鎌形に出る。畑の枯れ草には、よもぎの青葉が見えかくれに。山の若葉もふくらみて鎌形の里も、はや、春間近。工場が建ち、家並みもきれいでりっぱなグランドも出来ていた。
 若者が野球に汗を流して、活気ある嵐山が町の隅々まで。細い野道を出ると二瀬の上流に。急な坂道を登りつめると、立派な道路に出、その先に出来て間のない赤い班渓寺橋がつづいている。
 散風のなかに赤い橋は遠くからでもよく目立つ。その昔、牛若と弁慶が出会ったのは、こんな橋かなと思いながら鎌形小学校に着いたのは、昼少し過ぎていた。
 陽のいっぱいあたる校庭の土手で食事を、遠々歩いてきた胃には、おにぎりのおいしかったこと。
 帰りは団体行動も長くなり、私たちが千手堂橋まで来ましたら、先の団体は、はるかかなたに。橋近くには、広い駐車場も出来ていてお休所もあるようでした。
 行き届いた町の配慮に夏は大勢の人々でにぎやかと聞いたが、観光地嵐山がますます発展するでしょう。
 一時五十分ごろ出発の小学校に着く。十km歩いたうれしさと一日中せまい家の中でうろうろ歩いている井の蛙が急に世間が広くなったよう。
 人の和も広がり、友も出来てまた機会があればぜひ参加させていただきたい。

  きさらぎの 寒さもゆるみて ふきのとう
             たしかな春が 土手に息づく
     『嵐山町報道』329号 1985年(昭和60)4月30日  婦人のページ


農閑期利用の手編み教室 根岸・小沢幸子 1985年

2009年03月13日 | 報道・婦人のページ
 工業国日本は、いまや全世界をリードしている。そして、伝統産業である養蚕は今や谷間に追いやられようとしている。その中でひっそりと農業を営む私たち夫婦である。
 冬になると何もすることがなく、日なたぼっこでお茶を飲み、雑談で終わる一日に、余り希望のもてる老後ではなかった。
 そんなある日、「手編みをやってみない。」と、柏俣さんから声をかけられた。柏俣さんは二十数年来趣味で手編みをやっているベテランの奥さんである。
 そう言えば、嫁に来て、二十数年というもの子育てと仕事の忙しさに自分の時間をもつということは考えてもみなかったことだ。
 そのためか、こうして年をとって暇ができても時間をもてあましていた。いまから思うと何ともったいないことをしていたのかと悔やまれる。
 声をかけられた近所の農家の奥さんが六、七人集まった。教室は冬の間は使うことのない養蚕ハウスの二階の一室である。日当たりがよく暖房がなくても汗ばむほどの中で、一針ごとに編みあがる喜びをかみしめながら話題に花がさく。
 家庭内の話題「嫁姑問題・老人ぼけ等」は手編み教室のおかげで、一挙に解決できそうである。
 編み物を習い始めた今の私には、一分一秒が貴重である。
 編み物は、頭の回転を良くする作業であり、新たな目標や楽しみを作ってくれる。私にとっても老後の生きがいとなっている。
 一生懸命、無報酬でご指導してくださる柏俣さんと教室を提供してくださる藤縄さんには感謝の気持ちでいっぱいである。
     『嵐山町報道』329号 1985年(昭和60)4月30日  婦人のページ

ボランティアありがとう  志賀・山田美子 1985年

2009年03月12日 | 報道・婦人のページ
 去る三月三日のひな祭りの日に嵐山町から雄飛会(代表・関根弘子さん)の皆さん二十名が特別養護老人ホームの当、清雅園に慰問のボランティアに来て下さいました。
 中には、幼稚園から中学生までのかわいい会員の方々もあり、なによりお年寄りの皆さんに喜ばれました。二時間歌と踊りで、二百名の清雅園のお年寄りに、温かい心を寄せていただきました。
 又、車椅子のお年寄りにもできる手踊りや、最近の新しい歌にあわせた踊りを、その場で教えて下さり、会場のお年寄りと共に職員も楽しい時間をすごすことができました。
 歌はローズ会のメンバーのみなさんが、カラオケの設備までして下さったり、会員の皆さんとお家のお母さんたちが、毎晩少しずつ手ぬいで作って下さったポーチを二五〇個、それぞれにティッシュと折り紙の親子鶴を入れてプレゼントしてくだっさったのです。
 今、清雅園のお年寄りは、いただいたポーチに大事な小物を入れたり、散歩の時に持ったり、歯医者さんに入れ歯の修理に行く時義歯を入れて持ったり、大変便利にさせていただいています。色とりどりの花模様のこの小袋は、雄飛会の皆さんのあたたかさそのものです。
 教えていただいた踊りは、これからのお花見や、鍋料理を囲む夕食会、又は一泊旅行の時などに、楽しいプログラムとして加えていきます。
 ほんとうに、心のこもったボランティアを、ありがとうございました。(清雅園勤務)
     『嵐山町報道』330号 1985年(昭和60)5月25日  婦人のページ

性役割の流動化をめざして 国立婦人教育会館女性学講座 1985年

2009年03月08日 | 報道・婦人のページ

   性役割の流動化をめざして -女性学講座より-
                    国立婦人教育会館事業課専門職員 上村千賀子
 国立婦人教育会館では、調査研究事業の一つとして女性学講座を開催し、今年で6年目を迎えました。講座のねらいは、女性や女性の生活についていろいろな学問分野から女性の視点で研究し、女性が主体的に学習するために必要な情報を提供することにあります。
 昭和58年度(1983)から60年度(1985)の3年間は「性役割の固定化・流動化」をメイン・テーマとし、各年には,「見直しからの出発」「性役割の形成と教育」「性役割の流動化をめざしてー実践と展望」をサブ・テーマとして焦点的に考察しました。

  性役割とは
 テーマとしてとりあげた「性役割」とは、男・女という性の違いに応じて期待される一連の役割をさします。その「固定化」とは、性が違えば特性も違う、男と女はそれぞれ役割が異なる、だから違った生き方をするのは当然だとする方向です。
 「流動化」とは、性の違いが役割を決めるのではない、これまでの男の役割、女の役割とされてきたものも変わってきているし、変わっていくと言う事です。

  性役割固定化はなぜ問題か
 第一に女性の就労の増加等により女性の生活基盤が変化しているにもかかわらず、女性の生き方に枠をあたえ、その能力開花の機会を制約する。第二に、女性だけでなく、男性にも働き人間として偏った生き方を強いる。第三に、暮らしの基本的な問題にかかわる企画・立案の段階への女性の参加を妨げる。第四に、こうしてつくられた「男性中心社会」はさまざまな矛盾や限界を生み出すからです。

  性役割の変化と現状
 女性学講座を通して次のことがあきらかにされました。
 一、女性の役割(母親・主婦役割)の中身が変化し、新たな問題が生じていること-「お産の戦後史」や「台所空間の変遷と主婦像」の研究によれば、戦後40年の間に、自宅分娩から施設分娩が多くなるなど、医療技術に身を任せているうちに、女性のお産への主体的なかかわりが希薄になり、親子関係や家族のあり方をも変えてきました。
 戦後の台所革命は封建制をつき崩し、台所空間は住居の核となり、更に、昭和30年代の高度成長期には家事の合理化が進み、主婦は多くの余暇時間を手にいれました。
 しかし、この変化は女性の主体的な働きかけによるよりも、むしろ、社会、経済の発展の結果であり、時代の流れに身を任せているうちに生活領域が広がっていたというものです。
 二、性役割の流動化の兆しがみられるが限界があること-例えば、社会参加の一つとして女性の間で普及しているスポーツについて、競争主義に陥ったママさんスポーツは経済的には夫に依存し、精神的にも自立を欠いており、スポーツを地域や生活に根ざしたものとして積極的にとらえかえす必要があると指摘されました。
 また、働く母親が増えたが、その多くはパートなど不安定な立場にあること、男性の職業分野への門戸が開放されたが、女性側に職業意識が確立されていないことがあげられます。
 三、性役割の固定化と再生産が生活のあらゆる場面でみられること-子どもの性役割形成に大きな影響力をもつのは家族、とりわけ母親です。母親の選ぶ絵本の大切さもあげられます。活発で冒険的な男の子、無口で従順な女の子、絵本は視覚に訴え、くりかえし読まれるので性役割意識の形成に深くかかわっているのです。また、学校教育における男女の性による特性教育、新聞、雑誌、テレビ等マスメディアから流される固定的な役割モデルがとりあげられました。

  性役割流動化をめざしたさまざまな実践例
 生活と結びついた、男女が共に学ぶに値する新しい家庭科を創りだすことをめざした出版活動。女性センターづくりに女性の意見を積極的にとり入れている行政の取り組み。小・中・高校における男女平等教育や大学における女性学講座、男性の家事、育児への参加の実践例が発表されました。
 家事・育児を妻と分担し、職場、家庭、地域の活動を日常の暮らしの中で結びつけて生きてきた男性ジャーナリストはその発表の中で、〝家庭〟があって〝家事の分担〟があるのではなく〝個々の生〟があって〝家事の共同〟があるはずであり、より人間らしい暮らしとは何かを明らかにしたいなら〝女・子どもの視点〟に立とうと努力することだ、と述べています。
 女性学講座で共通に理解された「性役割の流動化」の方向とは、単に女性の自立や婦人問題を解決することにとどまらず、男も女も自立し、個人の意志と能力に応じた生き方を選択できるということです。-おわり-
     『嵐山町広報』339号 1986年(昭和61)2月20日 婦人のページ


新女大学・三育のすすめ 菅谷・佐々木ユ基 1986年

2009年03月05日 | 報道・婦人のページ

 「幼(いと)けなくしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子にしたがう」という三従の言葉。
 私は女学生のころ父の勧めで和とじのその本を手にした記憶があります。その後ある雑誌で、親が娘にぜひ読むようにというと「イヤです。男の人が書いた本ですもの…」というエピソードを読みました。
 では、今様女大学どんな「三?」となるのだろうかと、わたしなりに思いめぐらしたことがあったが、そのころ青木先生から次のようなお話を伺いました。これからの女性はもっと積極的な女性像として、三従でなく「三育」でありたい、つまり第一に育てなくてはならないのは子どもであり、これが育児。
 第二に育ててほしいのが家計であり、財布をしっかり守る役割、すなわち家育。
 第三に育てなければならないのは、女性のもつ不正を憎む気持ち、平和を愛する心情をストレートに政治にぶっつける、これが女性の手で国を育てることであり、きわめて重要な助成の使命である、と三育を挙げられました。
 紙面に限りがありますので詳しくは書けませんが、第二の家育について、私たちは、限られた収入のなかで、できるだけ豊かな生活をし、また多くの貯金もしたいと思う。「豊かな消費と高い貯蓄」の両立については「ないものと思って貯めよ20%、使いきれ80%」の原則、貯めるべきは絶対にため、使うべきは絶対に使うこの割りきりが重要であるとのことです。その割合は20対80でも、10対90でも、その人、その家庭で定めるものでしょう。
 次に重要なことは、使うべき部分をできるだけうまく使って効果100%にもちこむ、消費資金額以上に活用する為には「消費と浪費の区分」を知っておくことが、たいせつであると言われました。

  消費と浪費の区別
 ① 自己思考型 他人思考型
 ② 計画型   衝動型
 ③ 実質価値型 付加価値型

 ①の自己思考型とは、広告や宣伝に惑わされずに、ほんとうに必要であるか否か、自主的に判断して買物をする。これに対し他人思考型は、広告を見てすぐ欲しくなったり、他人が持っていからといって、考えもなく買ってしまうことです。
 ②は略
 ③は中味の良否で商品選択をするか、うわべの価値だけで選ぶかということで、
    使用価値(使っての効果)
    耐久性(丈夫で長持ち)
等、主婦の消費態度がたいせつだということです。
 私たちは視野を広め、物価や税金、福祉の面も考えて、「三育」の精神をたかめてゆきたいと思います。
     『嵐山町報道』340号 1986年(昭和61)3月20日 婦人のページ


変貌する農村と婦人 古里・安藤たつ子 1986年

2009年03月04日 | 報道・婦人のページ
   〝箸の上げ下ろしまで監視の目〟
 私の目から見た農村婦人の位置づけについて筆を走らせて見たいと思います。
 私がこの町に嫁いで二十数年が夢の間にすぎようとしております。戦中、戦後を経験している一人で、過去を振り返って見ますと昭和三十年代の前半はまだまだ封建的な風潮があちこちに見られました。
 嫁たちは箸(はし)のあげおろしまで家族の監視の目にさらされ、ましてや嫁の立場で口答えなどしようものなら大変なことになったという体験者も多かったことを耳にしたこともありました。
 だが今では兼業化に伴い、父母、若夫婦が各々、農業や農外就労、家事などを役割分担し家族が対等な立場でしかも各々が主体的な存在として家庭を構成し、きりまわしするようになって来ているので、過去の暗いイメージもややもすると消えてしまったと言っても過言ではないでしょうか。
 このようなことで夫の農外収入を若い妻も比較的自由に使えるようになったり、あるいは、自分自身も農外収入を得ていたりして、日常生活上でお金に困ることが次第に少なくなって来ていて、農家の複雑な家計管理が従来にくらべ比較的オープンになってきていることを意味しており、その点では大きな前進があったといえます。
 つまり、ひとつには女同士がお互いの立場を認め合い、毎日を愉快に暮らしあおうとする懸命な努力の結果であると思います。
 家庭において何か物を購入する場合にまず、お母さんに相談してから話をまとめるとかの集まりにも最近では婦人が男性の代理で出席する姿が目立つようになって来ているように、家庭内、地域内においても、婦人の活動には目をみはるものがあります。
 今まで述べてきたことを、要約すると、高度経済成長前期は婦人たちは家からの解放を実質的なものをめざすとともに経済的自立をめざしたのに対し、高度経済成長以後は生活や生産における主体的管理者としての地位を築いた時代といえると思います。
 もちろん、自分たちの意志で得たものばかりとはいえません。政策に支えられた面も大いにあったのです。
 これからは地域社会をよくするための生産組織の、生産計画、販売計画に参加し農村婦人の限りない強い歩みを望みます。
 みんなでもっともっと力を合わせて明るい農村地域社会を作りましょう。
     『嵐山町報道』341号 1986年(昭和61)4月20日 婦人のページ

助役の決定とその政治的意義 関根昭二 1956年7月

2009年03月02日 | 報道・論壇

  助役の決定とその政治的意義 -高崎村政の一歩後退-
 助役に漸く小林博治前助役が決定したが、この助役選任の件は、はしなくも合併後の高崎村政が直面した最初の試金石となった。
 助役定数条例の改正と共にスムースに決るかに思われた助役が議会勢力を二分して争われることになり、それは助役問題として区長まで要望書を提出する程の政治的色彩をもった運動となるに至った。助役の決定は地方自治法により村長の推薦という前提において議会の同意を必要とする条件がある。従って助役を誰にするかは村長の意志によるが議会の同意が得られなければ助役を決定することはできない。一方、議会の方から助役を誰にすべきであるかということは云へない。今度の助役問題で先づ問題になったのは「同意」ということの解釈である。これは法的には議会の意志表示であり、それは議員の表決によって決することである。従って過半数の賛成を得れば同意したことになるのである。そこで二派に分れた両勢力はいづれもその表決の際のことを考へて一人でも多くの議員を自派に引き入れようと運動した。この運動に際してあまり香しくない噂さが出たことは議会人として反省しなければならぬ。
 高崎村長はこの同意の解釈を満場一致の賛成という意味に考へていたため、かなり苦慮した。政治家の立場からすればこのような考へ方をするのは当然であり、又そうすることが、円滑な解決方法でもあるからである。
 次に問題になるのは村長の推選権である。本来、村長が助役を推選すべきであるのに、議会提案以前に議員が二派に分れてそれぞれの候補者を主張して争い村長と対立するかの如き感を呈したことは村長の推選権に政治的圧力を加えたことであり、議会において論争されるべき問題が議会の外で安易に妥協されることは議会を軽視したことであり、責任ある議員の行動とは云へない。
 第三に助役の選定に代表委員制をとり、議長、副議長、それに議員四名と村長を加えた七人の所謂首脳者達によって助役の件が決定されてしまい、議員は議会の休憩中に議長の報告を聞き、本会議で「異議なし」と云っただけにすぎないのだが、ごの議長報告によれば、助役の任期は二年であり、地区による交代制となっている。このことは村長の推選権を無視したことにならないのであろうか。ある議員が「村長の推選権を侵害したことになる」と発言したが、こうした疑問が起きないのは不思議という他はない。何が故に地域的感情にとらわれるのであるか、政治が地域的立場に立って行われる限り大きな発展は到底望めない。二年交代というが、もし途中で村長が変ったり、議会が解散したらどうなるのであろうか。代表委員による助役問題の解決と地域的二年交代制の決定とは、それが今回にのみ限られたことであるにしても、好ましいことではなく。高崎村政の政治力が弱まっている証左とも云へよう。いづれにしても今度の助役の決定はその経過と結果とにおいて、高崎村政の一歩後退を示したものである。自己の信ずる助役をさへも容易に選任することができなかったことは、合併による政治状況の複雑さと議員の政治に対する不明朗性に由来するものであるにしても、高崎村政の前途が多難なることを思わせるに充分である。
     『菅谷村報道』72号 1956年(昭和31)7月20日) 論壇

※参照:「助役選任をめぐり菅谷村議会紛糾 1956年


転換期に立った高崎村政 関根昭二 1956年4月

2009年03月01日 | 報道・論壇
   強力な政治力の展開を期待 -三十一年度予算を見て-
 三十一年度予算成立直後、村議会に実力のある某議員は「高崎村政に新味なし」と批判した。事実この予算は新鮮味が感じられず特色も見当らない。
 吾々が先づ第一に問わなければならないことは本村の発展の為めに如何なる構想を有しているかということである。予算を通してみればいづこにそのような構想が盛られているのか少しもはっきりしない。
 それは何よりも予算の実行が計画的でないということである。予算を重点的に使わず総花的に使っている。これでよい政治が行はれる筈はなく発展も福祉も考へられない。高崎村政は旧菅谷村の場合すでに十年である。計画的に予算を編成してきたならば、かなりの効果が上がった筈である。それを行い得ず徒らに補助金政策をとってきたところに高崎村政の欠陥がある。
 高崎村長は本紙六十六号の「年頭の挨拶」において「合併により事業は山積して居り、このまま無計画に推移すると公平な配分も至難となり、従って村民の期待にも沿い得ない状況ともなりかねないので、本年度から計画的に(四ヶ年計画樹立)事業を実施し四年後の則ち昭和三十四年度計画完成の際には新村育成に必要な当面の事業を概ね完遂し、村民の付託に答へたい」と述べている。高崎村長は四ヶ年計画樹立の考へを述べながらその内容は少しも発表されて居らず予算にもあらはれていない。警察消防費にしても土木費にしても産業経済費にしてもどういう計画のもとに予算が組まれているのかはっきりしないのである。
 例へば土木費の中の道路改修助成費二十万、道路新設改良費約五十万はいづれもどことはっきりした目的のない予算なのである。何故かくの如く目的のない予算を組まなければならないのか、消防費の新営改築費は九十二万円【?】あるが鐘楼二基、貯水池五ヶ所、可搬動力ポンプ二台をどこに作るのか明かにしていない。これは政治が計画的でなく他人まかせ式だからである。高崎村長は速やかに四ヶ年計画の構想を樹立して発表すべきである。然してこの構想を如何に実現するかが高崎村長の政治力であり、強力にして断乎たる態度が望まれる所以なのである。
 本年度予算に見られるが如く、あちらのこちらの区域あの要望この要求を容易にとり入れることなく村長独自の計画と意図のもとに予算を編成すべきであり、その執行には勇気を持って当るべきである。徒らに人気取り的政策をとることをやめ、お人好し的存在になることを拒否して、高崎村長の政治的信念と政策的抱負が明確に具現されることを期待して止まない。
     『菅谷村報道』69号 1956年(昭和31)4月20日 論壇