GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

病気 志賀・多田げん 1958年

2009年07月23日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

 今思ひだしてもぞっとするやうである。今年の五月は干ばつで梅雨時期になってもかんかん照りの毎日がつづいた。農家の誰もが雨の降る事を願っていたが、六月中にはとうとう降らず、毎日畑仕事をしながら、今年は田植は出来そうもないと、半ばあきらめていたところ、七月四日の夕方大雨が降り一家の喜びは大変なものであった。五日には早朝から田んぼへ出かけた。どこの家も競争の様であった。田んぼにいる人も、行き合ふ人も「良い雨が降ってよかったね」と喜びにみちみちていた。家でも新宅から手伝いに来てくれたので私も文字通り夢中で働いた。そのかひあって、予定の仕事も出来、明日は夫の会社が休みなので田かきが出来る重い足を引きづって家にたどりついた。ところが床について、どの位たったか、私は胸の苦しさで目がさめた。じっとがまんしていたが十分、二十分たつにつれ動悸ははげしく胸はしめつけられるようで、どうにもがまん出来なくなった。夫を起し、医師を迎えに行ってもらった。診察の結果は、体がつかれているところへむりをしたので、心臓を悪くしたと診断された。一晩中苦しみつづけ、家中さわがしてしまった。明朝には、すっかり体がつかれて考へていた。田植どころかお茶の仕度もできなくなってしまった。それから一月余りも仕事が出来ず、年取った父母があせまみれになり、つかれた様子で帰る姿を見るたびに、早くよくなって、かわりたいとあせればあせるほど病気の方ははかばかしくなく一人でじれてしまった。子供達も私が病気になってからは、みちがえる程よく手伝ってくれた。父母も大切なところがわるいのだから、すっっかりよくなってから仕事に出るようにと言ってくれ、夫も出勤する時「気をつかわず早く体をなおすようにしろ」と言って出かけるが、私は気書きではなかった。やがて体がよくなり、畑に出て、草取りが出来た時の嬉しさはたとえやうもなかった。ここへ嫁いで以来十五年、体の事など考へず、ただ嫁として、もくもくと働きつづけて来たが、今度病気をして初めて、健康で働けてこそ、幸福な家庭生活が営まれるのだと強く強く感じた。これからは充分体に注意し、子供達の成長を祈りつつ明るい家庭を維持できる様にしたいと思ふ。

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


働き者の惣さん 千手堂・中島初子 1958年

2009年07月22日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

1.八十越した惣さんは     村一番の働き者
  未だに野良へ出ていって   畑の草をむしってる
  とんびが飛ぼうが輪をかこが そんなことは知らん顔
2.若い時から右も見ず     左も見ないで一すじに
  百姓一本生きて来た     我家のため村のため
  近所づきあいなごやかで   こんな惣さんめずらしい
3.この頃いくらかだるそうだ  けれども惣さん野良へいく
  杖をつきつき野良へ行く   畠のあぜで腰おろし
  草をむしって一休み     その内惣さんうとうとと
4.米のなる木の真中で     黄金の波にゆれながら
  過し昔を思ひ出し      米の子供があらわれて
  惣さん惣さん歌おうよ    声をそろえて歌おうよ
5.畠たがやし蚕飼い      種を蒔いたり手入れして
  夏は草刈り冬木の葉     家に居る時ナワをない
  ばあさん一所にたすけあい  本当に惣さんえらい人
6.あまりあたりがにぎやかで  惣さんびっくり目をさまし
  あたりを見れば誰も居ず   今のは夢かと苦わらい
  昔も今も変らない      働き者の惣さんよ

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


短い糸屑 千手堂・高橋さき 1958年

2009年07月21日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 一寸買い物をしても紙に包んでくれます。紐をかけてくれます。近頃は商人が人の気分をよくするため此の紙や紐にもこまかな注意をしてをります。勿体ないほど立派なものを使ってあります。心掛のよい方は其の紙も紐も決して粗末にしません。どんな糸屑でも始末をするくせをつけましょう。そうするには始末する入れ物と其の置き場を定める事が大切です。糸屑は此の箱へ。そうしてここへ。紙屑はこのかご、小切は此の抽き出しときめて置けば誰でも気のついたものが入れられます。日本の凡ての家庭がこんな心掛をもちましたならば、之による節約だけでも大したものと思います。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

希望 志賀・内田豊子 1958年

2009年07月20日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 毎日の仕事に追はれて居る私たち農村婦人は、一日のうちに本をよんだり新聞を見る時間がどれだけあるでしょうか。わづかな時間があるのは夜だけで、それでも一日の激しい労働のために夕食を食べてふろから出るともう床に入るのが精一ぱいです。本を読み物を考える事もなく、ただ牛か馬のように働くことで過ぎて行き、眼まぐるしいやうに進歩して行く社会の流れから自分だけが取残されて行くやうなきがします。電化、機械化と叫ばれる今日、婦人に取っては一ばん身近な台所改善すらもはかばかしく行かないのです。自分だけが苦しみ悩んでいても仕方がありません。あきらめたり絶望したりしないで、社会へ送り出す子供たちのためにも、良き事は日常生活に取り入れてお互に話合をしてみたいと思って居ります。ともすれば私達婦人会員が会合に行くのを白い眼で見られ、つい出足がにぶり、人眼をさけて行くやうになります。隣近所さそいあって、婦人学級や料理の講習に行けますやう家族の協力を希望致します。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

にがいことば 遠山・山下藤 1958年

2009年07月19日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 先日夕飯の時四才の子が、「母ちゃん今日ね、どこかのおじさんに嵐山へ行く道を聞かれたんだけど皆が黙って居たらね、やっぱり遠山の子は駄目だなあ、って云ったよ、今度は教えるんだい」と、ほほをふくらませ乍ら、いくらか恥かしそうに私に話しかけた。
 「それじゃあ馬鹿みたいね、今度は教えてあげなさいね」と子供に云いながら、私自身も一寸恥かしい思いがした。その場には小学二年の姉の方も居たと云うし、もっと高学年の子供も数人いたらしかった。私はその晩床に就いてから、夕飯の時の子供の話を思い出していろいろ考えさせられた。知りながら教えなかった子供もさる事ながら、「やっぱり遠山の子は駄目だなあ」と云って立去ったと云う大人の言葉に一矢報いたい気持が動いた。幸い子供心にも今度は教えてやろうと云う気持が起きた事は多少でも進歩した事である。それを思えば、にがい言葉も薬になるが、若しそれが大人の言葉に対する反抗であるとすれば、にがい言葉も薬と云うわけにはゆかなくなる。
 問はれて答うるは人の情であり大人の社会では常識である。又云はずに済む事は云はずに通す事も人情ではないだろうか。大人だからと云って重宝な言葉の濫用(らんよう)は子供でなくも御免蒙(こうむ)りたいだろう。二十年前小学校の先生に三匹の猿の話しを聞かされた。世相の移り変りのはげしい現在、みざる、いはざる、きかざるの戒(いましめ)はそのものずばりで受入れる事はできないだろうが、その教えも又忘れてはならないと思う。いろいろ考えて、昔の人は修身科なるものから道徳教育を受け、今の子供達も社会科などで、さりげなく正しい道を教えられて居ると云うのに、どうして一寸した道徳が守れないのだろうか。結局大人も子供も共に教科書の上だけでない日常の身近なそして庶民的な道徳を少しづつでも身につけてゆかなければ、すべての社会の矛盾はなくならないのではないか、と思う。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

終戦記念日に憶ふ 志賀・高橋りせ 1958年

2009年07月18日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 終戦後早十三年の歳月は流れた今日、あの恐ろしかった戦争、忘れようとしても昨日の出来事のように頭に浮かんで来ます。都市にあっては空襲の為、家を焼かれ死んで行く人、親子ばらばらになった人等、又農村にあっては食料に供出に労働に、苦労や悲しみの事がはっきり目に浮かんで来ます。皆一生忘れる事の出来ない苦しみを味わって来た事と思います。赤紙一枚で召集され戦地に送られ、一人として知人も頼る者とてなく、空しく死んで行った人の事を思いますと身も心もぞっと引きしめられます。人間と言う者は苦難を味わってこそ其の中から真に自分の生きる道を発見するものである事を身にしみて考へられます。今生きておられる人で自分を幸福だと思っている人はほとんど少数であると思われます。不幸の原因は其の大部分がお互の不信にあるのではないでしょうか。終戦後特に利己主義にはしり、自分の利益自分の幸福のみを第一に考へると言ふのが今の世の人々の多くの考へではないでしょうか。私達婦人会の皆様特に此の点に留意せられて今後の婦人会をより楽しい集いの場所にするにもこうした利己的な事のみにはしらず、「世の中は持ちつ持たれつ立つ身なり人と言う字を見るにつけても」と言う事わざのようにお互に信じ助け合って進んで行けたならと思います。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

短歌 根岸喜・高崎静子・大野春枝 1958年

2009年07月17日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

          根岸・根岸喜
遠き記憶さくら若葉の教会に蒼き少女のわれがゆきしは
祈ある生活をゆく人等にて守られてしづかな朝の礼拝
キリスト者蘇轍の隙(あひ)に隠見し今聖餐のワイン配らる
裸樹に觸る雪の素性あらわにてキヤコルの後に来たるさびしみ
椎の実の堕ちくる日に邂逅ふ駅のひさしにただ泪ぐみ
拗ねながらゐたりし稚さ雲白くあかざ花咲く丘の草原
淡き記憶松虫草のおもい出は桜樹の下に君が右手に
会合に赴かむと託す洋傘の下耳朶かすめ吹く迅き風あり
雨気孕む風にあふられ飛び込める蛾よいましばし助(いた)はられ居む
抗(あがら)ひはひそまりながら消えてゆくドームに高く日の堕つる頃
とざされて光る窓あり夕映のビルの高さの彩雲ひとつ

          志賀・高崎静子
歌の会終えていづれば甘やかに銀座は夜の雨となりをり
手折らむとしてためらいつ朝霧をふくめて匂う白き椿を
久に見る夕月のかげさやけくて紅ばらの花暮れ残りたり
音もなく雨降るなつのひるさがり白きダリヤのうなだれた咲く

          志賀・大野春枝
台風に打ちひしがれしコスモスもやがて自ら起きて花咲く
秋の夜を夫と向いて物言はず心淋しくこうろぎを聞く
修学旅行より帰りたる子をかこみ粗末乍らも夕餉は楽し

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


俳句 高崎静子・大野春枝 1958年

2009年07月16日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

        志賀・高崎静子
早春の眠れる庭や一休寺
短日の山なみ暗く村を秘め
終着は小諸と呼べりそばの花
ゆきづりの人と汽車待つ秋日和
ニコライ堂近き学窓つた紅葉

        志賀・大野春枝
コスモスに雨のささやく宵なりし
コソモスの庭に受取る便りかな
コスモスや涙あらたに墓詣づ

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


私の前半生 遠山・杉田千

2009年07月04日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 百姓をきらって現在の夫と結婚したのが昭和十五年(1940)、新世帯もつかの間希望も夢も一挙にかなぐりすてなければならなかった。それが大東亜の開戦(1941)であった。夫は南方戦線に、私は現在の長女妊娠五ヶ月の身重であった。世の女の当面する取越苦労をいやと言う程あじわい、昭和二十年(1945)の終戦をむかえた。横須賀よりの帰郷、混乱せる社会、百姓を好まなかった私が一家の中心となり肥料の施し方、品種の選び方、養蚕の飼育への努力、農村の不況を打開しのりきる為に夫には働きに出てもらう。思へば運命の皮肉な廻転をうらみました。
 嫁であり妻であり子へのよき母にならんと我が身のつかいわけに随分と苦労をいたしました。唯一のいこいの一時、乳のみ子をねかしながら読まんとする新聞も昼のつかれに三面記事の、見出しが目にはいるとうつらうつらとしてしまい、若かった日の希望もどこえやら。でも今は三人の子供の母として長女も十六才、何かと相談相手になり、一日一日希望にもえて農家のことも一部を身につけ、過去の主婦の如く生活を苦しむのではなく、生活を楽しむ家庭の建設に一生懸命です。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

思いのまま 志賀・恒木才子 1958年

2009年07月03日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 新しい民主教育の一端として正しい批判をすることが大切でありますが、其の基盤をなす物指しが個人によって大小さまざまで私達は少しでもこの物指が正しく清く立派であるように日夜修養に務めているのです。
 近頃の子供は理屈ばかり言って親の言は一向に聞き入れないと言う声をしばしば耳にするが親である私達にも一応考える点があると思います。それは子供の批判力と親の批判する物指しに相入れない点があるからです。嫁と姑との間が円滑に行かないのもお互の物指しが狂っているからです。まずそのひずみをお互いに直して行く事が円滑な家庭を築く原動力となる事と思います。姑が立派だと嫁がばかに見え、嫁が利巧だと姑が不足に見えて心の一致が出来ないので不平を外にまで報道して自ら他人に広告している人もいるのです。もっともお互に不足の本は助け合い話しあって楽しい我が家にすることが姑のつとめであると思います。
 婦人会の講習や講演会に子供をつれて来て泣かしたり、さわいだりして他人に迷惑をかけているのを、当然のように考えている会員もありますが、熱心に聴講している会員は不愉快であると思います。姑がもっと理解して「子供の守りは自分が引受けるから、しっかり勉強して来なさい」と子供の心配がなく出席されたら其の理解ある心に本気で受講し身についた講習が出来、休憩時間に姑の悪口など話し合っている時間はないと思います。
 私達は世の出来事が正しく批判出来る尺度をより長くより正しくするために、そうして次の世代の子供に理解ある母親として、又一家の明るい灯火の主婦となるため一層の修養をすることが必要であると思います。そのために結成した婦人会でありますので一層協力して発展するよう致しましょう。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

自由詩 夜の雨 志賀・高崎静子 1958年

2009年07月01日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 遠い空から雨は落ちてくる
 くらやみの夜の中に
 しめやかに地上をぬらす
 ただその気配だけの
 夜の雨は
 静かに心の中までしみ通り
 やがて又涙となってあふれ出る
 ひそやかに夜のやみを
 かなしみながら雨は落ちる
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

研究会出席の記 川島・權田かつ子 1958年

2009年06月29日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 去る三月上旬、川越農高に於て比企、入間地区婦人団体運営研究会が開催されました。大友会長の長い挨拶の後、三つのテーマがあげられて分科会にうつりました。
 一、地域に於ける団体のあり方
 二、団体の財源について
 三、事業計画について
 私は会計に関係ある第二に入りました。司会者大宮婦人会長、助言者飯能婦人会長、参加人員四十七名。先づ会費の問題から。月十円年百二十円が半分位。年百円が数人。八十円、六十円、五十円で、中にたった一人年三十円の方が居りました。月十円を集める団体では六円を本部、四円を支部。百円の所では七分、三分。後は全部を本部でした。此の時助言者が「皆さん事業をなさるにも小さい支部単位の方がやりよく又効果的ですね。それには支部の財産を充実させなくては活動できませんね。支部はどうしていますか」に対し、大体が日用品の販売でした。
 「婦人会は物を売る機関ではありませんから、物品販売は好ましくありません。特に商人との間を考へてですね」との注意でした。三十円の会費の団体では、役場の衛生係のお手伝ひをしたり、又講演等開く時は、社会教育委、PTA、保健所等と共催にやりますので、費用はわずかでよいお勉強の機会をたびたび得て居るそうです。
 次に帳簿で、記録簿、会計簿は大概ありましたが、発送つづりは菅谷だけでした。「それは大変結構ですね。会の歴史になりますから、皆さんもこうした団体に習い、あまり他をたよらずに明るく、堅実に歩みたいものですね」と司会者からおほめにあづかりました。
 最後に助言者から「県には社会教育費としてたくさんの予算が取ってあります。此のお金は婦人会のような団体でお勉強のためにつかえるお金ですから、大いに利用してお勉強して下さい。」と申されました。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

平等の楽しさ 遠山・山野未知子 1958年

2009年06月27日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 民主主義と言う言葉が用いられるようになって私は総てが平等になり、明るく朗かに生活が出来ます事は何より有難い事だと思います。総てが平等と言っては余り範囲が広いと思いますが、婦人としては第一に数えられるのは衣服の問題ではないでしょうか。菅谷婦人会は既に一定の会服が調ひ何より喜ぶべきことだと思います。私の青春時代は今と違って余りにも上下のへだたりがあって、ある時はゆううつになった事もありました。そうした度毎にせめて交際位平等であってと心の裡(うち)で何度くり返した事でしょう。去る七月最初のレクリエーションの練習の時、会長さん自らお茶を運んで下さった。ほんとうに優しい慈愛のある会長さん、姉妹のように御指導下さる係のお方、私は只々しっかりやろうと心にさけび乍ら一生懸命に習いました。終って今日の行動を思い浮べ、今迄味った事の無い美味しさ、躍りも茶摘音頭。意義深く愛と平等の集りを充分に味ふ事が出来ました。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

自主性をスローガンに 根岸・小沢幸子 1958年

2009年06月25日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 都幾川の清流にのぞみ和やかな村落、ここに根岸支部がある。前方は山、その間に黄金の波を打って稲が実っている。東西にのびる一筋の道は朝夕交通の激しい重要な県道である。
 根岸喜会長を指導者と仰ぎ乍ら、一善会と名づけ現在に至っている。会合の度に知識を広め、気を新にする楽しい集であるので、忙しい時など会合がなく、淋しい物足りなさを感ずる。
 去年のスローガンは「人の悪口は云はぬ事」であった。女はとかく口が煩(わずらわし)く思はぬ禍(わざわい)を招く事が多い。『口は禍の元』を念頭に一年間全員の一致協力の成果はすばらしい。
 今年のスローガンは『自主性をもつ』ということである。日常生活に於ても女は昔の習慣から人ばかりを頼りにして、自分を生かす事をしない。何かというと人の顔色を気にする。善いと思うことでも人がしなければ仲々進んでやれない。長い間の封建性が女を自主性のない者にしてしまった。何事も自分で自分の生きる道は開拓してゆかなければならないと思う。現在の根岸支部はそうした方面から着々と発展しつつある。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

隣組の生活改善 千手堂・吉野ナヲ 1958年

2009年06月23日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 生活改善は色々の方面から叫ばれて居りますが、食生活改善、住宅改善、衛生的生活改善、色々並べる事が出来ますが、私達農村ではなかなか、食生活や、住宅改善は経済的な色々の理由が御座居まして思う様には出来ないのではないでしょうか。
 私の隣組では納税を完納致しまして、沢山の奨励金を戴いて居ります。いつか此のお金を何かに利用したいとの御話合から、しばしば話が出ましたが、なかなか話がまとまりませんでした。此の夏、集会が私の家に有りまして色々意見が出ました。最後に農家には夏になると非常に蠅(はえ)が出るのでこまると話の糸口が出ました。蠅を駆除する一方、食物に蠅をよせない様にしたらどうでしょう。それには一器づつ大きなハイチョウを備えたら衛生的に宜しかろうと全員賛成となり、ハイチョウを購入致しました。ハイチョウの表面には、納税完納記念と書き入れ、各家庭に立派に備へ付けてあります。実に良い記念品を求めて戴きました。便利で有り、生活改善を一歩ふみ出した事を心から喜んで居ります。
 いつも皆さんのハイチョウの中には、何にやら御馳走が入って居りまして、気持よく清潔の品が戴けます。
 これからも納税は是非共、我先にと完納し、此れ以上のお台所に役立つ物を求めて戴き度と念願する次第で御座居ます。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月