GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

旅行の思ひ出 栗原正敏 1928年6月

2009年09月24日 | 栗原正敏(日記、作文)
   旅行の思ひ出   昭和3年(1928)6月16日
             第3学年乙組18番 栗原正敏
 私は今、韮山城址に立って韮山中学の国語の先生の指さす方向を見てゐる私自身を見出します。私は会い変ずぱかんとしてをります。私の目のとどく所には箱根山があります。電車が走ってをります。目の下には韮山中学の小さな校舎があります。
 生徒が運動場でリレーをやっております。あ、一人ころびました。丈の高いのが抜きました。埼師の生徒が「速い、速い」などとはやしたててをります。私はぽかんとしたかほつきでいろいろと見入ってをります。私の目には見るもの聞くもの、皆めづらしく見えます。終業のラッパの音があたりの静かさを破ってなりひびきます。生徒がどやどやと運動場に出てまいりました。体操は終へました。鉄棒にぶらさがるものもあります。キャッチボールをやるものもあります。おや、一人の生徒がボールをにがして追ひかけてゐきます。やがて私等は城址ををりて校庭で辨当をひろげてをります。辨当のうまさはかくべつです。私には次々といろいろなことが想ひ出されます。あたかも走馬燈のやうに。私の目には何十里はなれた韮山中学の様子が目にうかびます。私は辨当の包んであった紙を捨てました。考へて見ると私は今松山にゐるのか、韮山中学校庭にゐるのか分らなくなってしまひます。然し教壇に山本先生がゐるからには松山に相違ありません。今春の旅行は終りました。そして、もはや思ひ出になりました。あゝ来年の旅行が待ちどほしい。

ある朝 栗原正敏 1928年4月

2009年09月23日 | 栗原正敏(日記、作文)
   或る朝  昭和3年(1928)4月3日
         M・K
 春のまだ浅い春の朝。或貧乏な家にさはがしい音がする。三吉は学校に行くとかばんを肩にかけた。然し弁当を持たない。「おっかあ弁当は何持ってゐぐんだ」といふ。彼の母は「別に何にもない。割飯でももっていげ」といふ。「割飯じゃ、いやだい。丸山の武ちゃんは毎日白いまんまに卵焼きだい」「そんなこといったって丸山の家は大身。家なんか学校にやるのがやっとだ。じゃ、さつまのやいたのでももっていけ」まだ物分らぬ三吉「いやだ、いやだ」といふ。之を寝床で聞いた彼の父、起き出で「何、割飯がいやだ。そんなら学校へ行くな」まだ三吉は泣きじゃくってゐる。「野郎なぐるぞ」と父は息巻く。然し三吉はまだ家を出ようともしない。彼の父の怒はばく発した。いきなりかけより泣きじゃくる三吉をつかまひ、ところきらはず打った。然しどうしても三吉は家を出ようともしない。ますます父は怒り、荒縄でしばり打った。母は止めようとおろおろごえで「父っやかんべんしてやらしゃあ」といえども、■■のことと止める能はず。三吉終に泣き声で「何もいはねいからかんべんしろ」といふ。「きっとか、きっとか?」と父はいふ。そして縄をほどいた。するとばらばらかけだし「馬鹿野郎、馬鹿野郎」といって逃げる。父は「何だ、やらう」と後を追ふ。手には金火箸を持って。どんなに逃げても、大の男にはかなはない。「野郎待て。今日は助けないぞ」とやがて追ひつく。母は近所の人を呼ぶ。だんだんにその声を聞きつけて走りつけた人々は、またその後を追ふ。「何だか知らないが狂人じみたことはよせ」と人々はさけぶ。三吉の父、いっかなきかず、泣きわめくを捕らひ、さんざんに打つ。火箸はまがる。その中に丸山の旦那かけつけ「何するだ。見っともない。よせ」としかる。地主の■■■にきいたか、三吉の父は「どうもすみません」とわびる。
 「分ったらよい。三吉もよく言ふことをきいて学校にいけ」といふ。三吉「あい」と答へる。彼の父はまだ身体の怒がおさまらないらしく、手足をぶるぶるさす。三吉はしくりしくりと泣きながら、その場をさる。人々は思い思いに元来た方に去る。
 三吉の父はいつまでも首をうなだれてゐる。丸山の旦那も去る。彼の父はきっと此の時、いつもより以上に貧乏の悲哀を■じ得たであらう。どこかでそんなことにはとんちゃくなく、はとの声がする。 終り

元旦日記 栗原正敏 1928年1月

2009年09月22日 | 栗原正敏(日記、作文)

   元旦日記
         二乙・栗原正敏*
 ココケーコウといふにはとりの鳴声があたりの静けさを破って聞えた。
 にはとりまで昭和三年になったと思って、いやに大きい声をする。
 僕も飛び起きた。起きて見ると天気は清恵、風和なようだ。けれども相変らず寒い。顔を洗ってしまうと縁先にお早うと郵便屋さんの声がした。行って見ると年始状を一たばほほりこんで行ってしまった。
 およそ五十枚ばかりだ。大抵は父の名あてだ。僕のは五、六枚きり無かった。僕はほっとした。何故といふのに返事をたくさん書く必要がなくなったと。
 朝飯はお雑煮であった。僕は一ぱい食べた。諸君僕のような鎌足公の後エイ【後裔】がたった一ぱい切りかと思って心配するには及ばない。実は腹一ぱい食べたのだ。何でも回を重ぬること五、六回だったろう。次に便所に行った。お正月でも便所は例年の通りくさかった。
 それから学校の四方拝の式に行った。友達は皆楽しさうな顔をしてゐた。
 中には私は雑煮を食って来ましたとわざわざ御ていねいに口のまはりにのりをつけて来たものもあった。僕はあまり楽しかったので、式のときに豆フ【豆腐】の始は豆であるを思はず歌ってしまった。又校歌を二番と三番をとり違へて歌ってしまった。然し校長先生のお話は例年の通りあまりに面白い話ではなかった。
 式を終へて家に帰る時に、私は何かお忘れものはないかと思った。何故かといふと一月元旦の四方拝にもちなり、みかんなりをくれると思ってゐたのに、何もくれなかったからである。帰る途に小学生がみかんをむきむき帰るのを見ると小学生がうらやましくなった。僕なんぞ中学校に入学せず、小学校の高等二年に行っていれば、うんといばれておまけに、式の時なぞは残ったみかんはたらふく食ふことが出来たものをと。
 午後は風が少し吹いてたこ上げにはもってこいだ。僕は近所の子供を引きつれ、田んぼにたこ上げに行った。初めはたこは宙返りばかりしてゐて、うまく上らなかったが、だんだんにあがりはじめた。
 上がると面白くなって来て、たこ糸を子供にもたせてをいて自分は糸買いに行くさはぎだった。面白い、面白い。上る、上ると思ってゐる中にとうとう糸代金五銭也を不意にしてしまった。といふのは、時に強い風が吹いて来て、たこ糸もろとも天高く上げてしまった。大方今頃は浅間山のフン火口【噴火口】にでも入って鉄道自殺より首かかりよりもっと面白い死に方でもしてゐるだらう。
 何にしても一月元旦は面白い日であった。此の分なら今年は余程面白い年だらう。
 然し心配なのは一月一日は此の様に日記には書ききれず、他の紙にまで書いたわけだが、これが十二月三十一日まで続くか否かだ。
 去年も一月一日は書ききれなかった。二月一日頃は約半分きり書けなかった。三月の終り頃は何を書いたのか、ただ白い、そしてすぢのある日記帳が机のすみにほほり込んであっただけである。  終り

*1913年(大正2)7月、七郷村(現・嵐山町)広野に生まれる。1926年(大正15)3月七郷尋常高等小学校卒業、同年4月埼玉県立松山中学校(現・埼玉県立松山高等学校)へ入学。二年乙組在学中の作文である。


見たまま 栗原正敏 1928年3月

2009年09月21日 | 栗原正敏(日記、作文)
   見たまま  昭和3年(1928)3月1日
                 第二学年乙組 栗原正敏
 ぶうんぶうんといふ飛行機の音と同時に始業のラッパがなりひびいた。皆窓の方に走りよった。先生の来られたのも知らずに。
 然し級長は目のきいたものだ。先生がくるとすぐに起立をした。皆元の場にもどって礼をした。その時に誰かがとっぴな声でまたまたとさけんだ。先生も笑った。生徒も笑った。僕も笑った。然し礼はしてしまっても生徒の心は飛行機に向いてゐた。その中にがたがたといふ音が学校の屋根の方にひびいた。皆ずいぶん下りたものだと考へた。まだ授業は始めなかった。すると突然何ともいひない大きな音がした。下りた、落ちたと南の側のものはさけんだ。それといふと窓より飛び下りるものもあり、ドアを開けるにいそがしいものもあった。僕も皆の後につづいた。現状に到着するとはいふものの、現状はここから百米もはなれてゐない。柵は倒されてあり、飛行機は「しゃちほこだちでござい」そっくりだった。
 僕等は一様に飛行士はどうしたと声を発せずにはいられなかった。すると飛行機の下からもくもくとはひ出たものがあった。我が松中のほこり(ほまれ及びほこり(砂ぼこり))をあびて。それは飛行士であった。皆自分のことかのように無事でよかったといひ合した。このやうに飛行機といふものは危険なものだ。それを何んとも思はず、いな一命をなげうって、国のためにつくすために練習していられる飛行士に対して、私はなんともいはれない畏敬の念がおこった。

米集め 栗原正敏 1928年3月

2009年09月20日 | 栗原正敏(日記、作文)
   [米集め]  昭和3年(1928)3月13日
           [二乙 栗原正敏]
 今日はと戸をあけると、ああお坊ちゃんですか、米集めですって、路の悪いに御苦労さんです。まあお上りなさいと下にもおかぬ鄭重(ていちょう)ぶりだ。私は言はれるままに上に上った。
 さあとお菓子を出す。お茶を出す。お茶はきらいですといふと砂糖湯をこしらへてくれる。私は思ふ。人といふものはまったく親切をしておくにかぎると。今も私は父が親切に家に使ってくれた人の家で鄭重にあつかはれた。また思ふ。人といふものはいつどうなるか分らないものであると。私の家も田も五、六町もあって、作男の五人もゐた当時を思い出して、今の身にくらべて、栄ふれば必ずおとろうの話のうそではないことを知る。しばらくしてここを去る。
 次の家に入るとここの家では私をじろりと見て、いやな顔つきで出してくれた。なんでもこの家では他日の衆議院の総選挙に私の父と反対の候補者をたてたところから、折り合いがよくないそうな。この家を出るともう袋は重くてたへられなくなった。まだ集める家は十軒位あるが、一先づ家に帰った。家の門の前で南京袋に米を入れたのを背おったいらいかっこうで、余りものを下さいと物貰ひのまねをすると、おばあさんが妹に米を出してやりなといったので、私は思はずふき出すと、また例のいたづらかと笑った。

春 栗原正敏 1928年3月

2009年09月19日 | 栗原正敏(日記、作文)
     昭和3年(1928)3月12日
       第2学年B組 栗原正敏
 ああ待ちに待った春はおとづれた。庭の梅も今満開だ。
 春は我々人間にたとひて見れば丁度十五、六の将に青年期に達せんとする少年である。彼の少年は人々のすくようなきれいな衣装を身にまとって、さもじまんげにこれ見よがしにやってくる。木々の芽は生えはじめた。
 谷川の水もさらさらと流れ出した。地上のあらゆるものは皆春の着物を着つつある。小鳥は谷川の水にのどをるほし、さもたのしげに歌ってゐる。人々の口びるにはかすかなうごめきがある。空はよく晴れてゐる。
 私は用事があって外に出た。風もさほどつめたくはない。子供らはきゃきゃとあそび、たはむれてゐる。私の眼中にはそれれの子供が尊い神の童でもあるが如くに見えた。
 私はこれらの少年の如く思ふままに無邪気に遊んだ五、六才の頃が眼に見えるやうな気がする。母もゐる。私はやんかんでさんざん母を手古(てこ)ずらした。母は病身であっただけに又それだけ私を愛した。私が六つの時にあのやさしい母は、私等兄妹を残してあの世に旅立った。私の眼には当時がまざまざと浮んだ。どこやらでほうほけいきょとうぐへすの声がした。私にはうぐえすの声があのやさしい母が私をよんだ最後の時の声のやうな気がする。またうぐえすはなく。

紅葉散る 栗原正敏 1928年10月

2009年09月18日 | 栗原正敏(日記、作文)
   紅葉散る  昭和3年(1928)10月20日
        第3学年乙組18番 栗原正敏
 秋となった。木葉はだんだん紅葉した。妙にさびしいやうな気持がする。私は秋の紅葉を思ふと母を想ふ。たそがれ近き日、私は庭の紅葉を拾ひ集めてゐた。近所の子供等と共に。紅葉はちらちらと散る。私等は無心に紅葉をひろひあつめて客遊びなどをしてゐた。
 庭先に人力車が着いた。私は妙な気をもちながら見守った。中から出て来たのは私の家に度々くる医者であった。
 此のとき幼なごころにも胸のどよめきはあった。私の目は医者のあわてた如き様を見逃しはしなかった。
 母は病気で長く床についてゐる。一日をき二日をきには医者が来てくれたが、いつも今日のやうにあわてた様子をしてゐたことはない。突然家の中から「早く早く」とあわてふためいた父の言葉がする。医者は急いで病室に入った。
 「正敏も正敏も」といふ父の言葉。私は夢中で病室にかけ入った。医者は母のやせおとろひた手をにぎってゐる。私等は皆病床近くをとりまいた。皆すすりないてゐる。私も泣いた。
 医者は「残念ですがだめです」とおごそかな口調で云った。母に対する死の宣告である。母は目を開いた。そして私の手をにぎった。口を開くことすら出来ない。私は声を上げて泣いてしまった。母はしづかに目を閉ぢた。水は人毎に母の口に注がれた。飲み込むことは出来ない。私の手をにぎったまま、母は静かに永遠のねむりについたのだ。庭の紅葉は風もないのにちらちらと散った。