元旦日記
二乙・栗原正敏*
ココケーコウといふにはとりの鳴声があたりの静けさを破って聞えた。
にはとりまで昭和三年になったと思って、いやに大きい声をする。
僕も飛び起きた。起きて見ると天気は清恵、風和なようだ。けれども相変らず寒い。顔を洗ってしまうと縁先にお早うと郵便屋さんの声がした。行って見ると年始状を一たばほほりこんで行ってしまった。
およそ五十枚ばかりだ。大抵は父の名あてだ。僕のは五、六枚きり無かった。僕はほっとした。何故といふのに返事をたくさん書く必要がなくなったと。
朝飯はお雑煮であった。僕は一ぱい食べた。諸君僕のような鎌足公の後エイ【後裔】がたった一ぱい切りかと思って心配するには及ばない。実は腹一ぱい食べたのだ。何でも回を重ぬること五、六回だったろう。次に便所に行った。お正月でも便所は例年の通りくさかった。
それから学校の四方拝の式に行った。友達は皆楽しさうな顔をしてゐた。
中には私は雑煮を食って来ましたとわざわざ御ていねいに口のまはりにのりをつけて来たものもあった。僕はあまり楽しかったので、式のときに豆フ【豆腐】の始は豆であるを思はず歌ってしまった。又校歌を二番と三番をとり違へて歌ってしまった。然し校長先生のお話は例年の通りあまりに面白い話ではなかった。
式を終へて家に帰る時に、私は何かお忘れものはないかと思った。何故かといふと一月元旦の四方拝にもちなり、みかんなりをくれると思ってゐたのに、何もくれなかったからである。帰る途に小学生がみかんをむきむき帰るのを見ると小学生がうらやましくなった。僕なんぞ中学校に入学せず、小学校の高等二年に行っていれば、うんといばれておまけに、式の時なぞは残ったみかんはたらふく食ふことが出来たものをと。
午後は風が少し吹いてたこ上げにはもってこいだ。僕は近所の子供を引きつれ、田んぼにたこ上げに行った。初めはたこは宙返りばかりしてゐて、うまく上らなかったが、だんだんにあがりはじめた。
上がると面白くなって来て、たこ糸を子供にもたせてをいて自分は糸買いに行くさはぎだった。面白い、面白い。上る、上ると思ってゐる中にとうとう糸代金五銭也を不意にしてしまった。といふのは、時に強い風が吹いて来て、たこ糸もろとも天高く上げてしまった。大方今頃は浅間山のフン火口【噴火口】にでも入って鉄道自殺より首かかりよりもっと面白い死に方でもしてゐるだらう。
何にしても一月元旦は面白い日であった。此の分なら今年は余程面白い年だらう。
然し心配なのは一月一日は此の様に日記には書ききれず、他の紙にまで書いたわけだが、これが十二月三十一日まで続くか否かだ。
去年も一月一日は書ききれなかった。二月一日頃は約半分きり書けなかった。三月の終り頃は何を書いたのか、ただ白い、そしてすぢのある日記帳が机のすみにほほり込んであっただけである。 終り
*1913年(大正2)7月、七郷村(現・嵐山町)広野に生まれる。1926年(大正15)3月七郷尋常高等小学校卒業、同年4月埼玉県立松山中学校(現・埼玉県立松山高等学校)へ入学。二年乙組在学中の作文である。