昭和15年
戦時色が強くなる中
甲子園に出場した日大三中は
大分商を3-1で下し甲子園初勝利を飾る
そして2回戦の高崎商も3-1で退け準決勝まで進出したのでした
準決勝では
松本商に3-7で敗れましたが
初のベスト8進出”を果たしたのです
翌16年12月、太平洋戦争に突入
戦時体制の強化と共に公式戦は中止され他校は廃部に至ったのです

(昭和18年 戦時下)
鎌田彦一先生の強い意志のもと東京都内で日大三中のみが18年の秋まで合宿練習を続けたのでした

(昭和18年 戦時下)
この大戦で多くの先輩達はボールを銃に変え、平和の到来を信じつつ戦場におもむかれたのです

(昭和18年 戦時下)
昭和18年
学徒出陣の足並みは陸へ海へ空へと続々として三中健児は戦場へと向かって行った
夏の雲ポッカリと浮く鹿児島は出水航空隊、学徒兵9人による野球試合が行われた
相手は如何なるメンバーでも全然かなわなかった・・・当たり前である
投手 緒方(早大)、捕手 近藤(早大)、一塁 本田(法大:日大三中)
三塁 奥田(立大)、遊撃 石丸(日大)
どの試合、どの相手でもタバコをくゆらせ座る私の外野には一球も飛んで来ることはなかった
昭和25年5月 鹿児島基地、明朝出撃特攻隊 石丸(日大)出撃の時
お守り代わりに貰ったニューボールで、石丸(日大-本田(法大:日大三中)の急増バッテリーが組まれ
涙のピッチングが開始された。その後、石丸(日大)は沖縄方面へ出撃のため、零戦に乗り、離陸の直前いったん閉じた風防を開け
日の丸を鉢巻に包んだボールを本田(法大:日大三中)の方へ投げ捨て、力強い爆音とともに南の空へ消えて行った
一方、ボールを受け取った本田(法大:日大三中)も、同じ5月14日午後5時過ぎ、鹿児島基地を離陸して行った
その直前に言い残した言葉は「夢に生きん」だった・・・
(夢に生きた本田耕一 一塁手/昭和14年度卒 丸尾先輩手記より抜粋)

後列左から2番目 本田耕一先輩
戦争と言う大きな波にのまれて行った多くの先輩方々・・・
母校野球部の先輩方々だけではなく野球界全体の先輩方々が戦場に行かれているのです
辛すぎます””
今、この記を書いていて涙が止まりません
今日、野球に携わることが出来る環境にある者
プレーする者、指導する者、運営する者、見る者は
野球を続けたくても続けらなかった多くの先輩の方々のお気持ちをもっと深く節に受け止めて
”野球”に接して行かなくてはいけないと痛感します

前列右端 本田耕一先輩
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甲子園に出場した日大三中は
大分商を3-1で下し甲子園初勝利を飾る
そして2回戦の高崎商も3-1で退け準決勝まで進出したのでした
準決勝では
松本商に3-7で敗れましたが
初のベスト8進出”を果たしたのです
翌16年12月、太平洋戦争に突入
戦時体制の強化と共に公式戦は中止され他校は廃部に至ったのです

(昭和18年 戦時下)
鎌田彦一先生の強い意志のもと東京都内で日大三中のみが18年の秋まで合宿練習を続けたのでした

(昭和18年 戦時下)
この大戦で多くの先輩達はボールを銃に変え、平和の到来を信じつつ戦場におもむかれたのです

(昭和18年 戦時下)
昭和18年
学徒出陣の足並みは陸へ海へ空へと続々として三中健児は戦場へと向かって行った
夏の雲ポッカリと浮く鹿児島は出水航空隊、学徒兵9人による野球試合が行われた
相手は如何なるメンバーでも全然かなわなかった・・・当たり前である
投手 緒方(早大)、捕手 近藤(早大)、一塁 本田(法大:日大三中)
三塁 奥田(立大)、遊撃 石丸(日大)
どの試合、どの相手でもタバコをくゆらせ座る私の外野には一球も飛んで来ることはなかった
昭和25年5月 鹿児島基地、明朝出撃特攻隊 石丸(日大)出撃の時
お守り代わりに貰ったニューボールで、石丸(日大-本田(法大:日大三中)の急増バッテリーが組まれ
涙のピッチングが開始された。その後、石丸(日大)は沖縄方面へ出撃のため、零戦に乗り、離陸の直前いったん閉じた風防を開け
日の丸を鉢巻に包んだボールを本田(法大:日大三中)の方へ投げ捨て、力強い爆音とともに南の空へ消えて行った
一方、ボールを受け取った本田(法大:日大三中)も、同じ5月14日午後5時過ぎ、鹿児島基地を離陸して行った
その直前に言い残した言葉は「夢に生きん」だった・・・
(夢に生きた本田耕一 一塁手/昭和14年度卒 丸尾先輩手記より抜粋)

後列左から2番目 本田耕一先輩
戦争と言う大きな波にのまれて行った多くの先輩方々・・・
母校野球部の先輩方々だけではなく野球界全体の先輩方々が戦場に行かれているのです
辛すぎます””
今、この記を書いていて涙が止まりません
今日、野球に携わることが出来る環境にある者
プレーする者、指導する者、運営する者、見る者は
野球を続けたくても続けらなかった多くの先輩の方々のお気持ちをもっと深く節に受け止めて
”野球”に接して行かなくてはいけないと痛感します

前列右端 本田耕一先輩
