激動と・・・
感動の・・・
2009年を終え・・・
2010年を迎える・・・
インドネシアの野球を考えれば考える程・・・
様々な思いが頭の中を駆け巡る・・・
この2009年末から・・・
2010年早々にかけて・・・
1つの疑問が・・・
自分の中に芽生える・・・
確かに・・・
国を代表するナショナルチームを・・・
国際レベルの舞台に引き上げることは・・・
インドネシア野球の向上にとって・・・
極めて重要なことなのだ・・・
だが・・・
インドネシア野球全体を見た場合・・・
その実態はどうなのだろうか・・・?
具体的に言うと・・・
「ナショナルチームの選手編成における出身地域の偏り」
「全体的に見た場合の有望な選手の年齢における層」
「野球の基本動作を取得させる為に適合する年齢の強化」
このような疑問にぶつかる・・・
選手構成における出身地域は・・・
ジャカルタとバンドゥンが大半を占める・・・
その他の地域からは数名しか居ない・・・
年齢における有望な選手層も・・・
現在のナショナルチームのメンバーの・・
下に位置する年齢層の選手層が大きく凹む・・・
野球の基本動作を習得させる年齢は・・・
残念ながら現在のシニアクラスの・・・・
ナショナルチームのメンバーでは無い・・・
この動作の矯正は最も危険な冒険になる・・・
「地方州の底上げ」「ジュニアクラスの選手育成」
これが・・・
現状のインドネシアみら野球界にとって・・・
最も重要かつ、必要とされている部分であり・・・
真のインドネシア野球の向上なのだ・・・
一度、ナショナルチームの監督を辞任して・・・
トータル的に地方州の底上げをしなければならない・・・
1つの実績とモデルケースを構築出来れば・・・
他の地方州へも転火する・・・
この様な想いが浮上していた・・・
2010年5月
ジャカルタ、スラバヤ、バリ
三都市対抗スポーツ親善大会・・・
山崎JJC理事長(当時)、雨笠JJC運動部長に・・・
昨年のアジア選手権大会出場の記念バットと写真パネルを贈呈・・・
2010年
世界リトルリーグ アジア太平洋大会・・・
インドネシア代表シニアリーグ&ビッグリーグの・・・
テクニカルアドバイザーに就任・・・
我がレッドソックスからも3人の選手を輩出・・・
しかし・・・
総合的な選手構成の主役は・・・
やはりジャカルタからが圧倒的になり・・・
ジャカルタに良い選手が居なければ・・・
インドネシア代表ナショナルチームだけではなく・・・
この年代に適合するチームの編成も不可能なの状況だ・・・
2010年9月
国内クラブチーム大会に・・・
レッドソックスを引いて参戦・・・
この大会中
やはり地方州の底上げを目的とし・・・
野球教室を開催・・・
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考えに・・・
考え抜いた結果・・
「インドネシア代表ナショナルチームの監督職を辞任」
「地方州の底上げに挑戦・・・!」
そして・・・
地方州底上げの成果を・・・
証明させるべく・・・
標的と定める大会は・・・
各州の代表チームで競われる・・・
インドネシア国民体育大会しかない・・・!
※インドネシア国民体育大会は予選大会と決勝大会の2大会で構成されている
2011年3月
東ジャワ州代表チーム監督に就任・・・
7月のインドネシア国民体育大会 予選大会に向け・・・
スラバヤにて強化練習に突入したのだった・・・
2007年6月
東ジャワ州代表チームを率いて・・・
ジャカルタへトライアウトへ・・・
2011年11月の・・・
東南アジア競技大会へ参戦する・・・
インドネシア代表ナショナルチームとも・・・
スパーリング試合を行う・・・
2011年7月
インドネシア国民体育大会・・・
予選大会がジャカルタで開催・・・
東ジャワ州野球史上初の準優勝を獲得・・・
2011年
6年目を迎えた・・・
日イ友好国際親善・・・
国際武道大学野球部を招聘しての・・・
レッドソックスカップをバリ島で開催・・・
国際武道大学野球部・・・
初のスラバヤ遠征をも実施し・・・
国内への野球普及に拍車をかける・・・
2012年3月
9月に開催される・・・
インドネシア国民体育大会・・・
決勝大会へ向けた強化練習をスラバヤで開始・・・
在スラバヤ日本総領事館 野村総領事を表敬訪問
2012年6月6日
インドネシア国民体育大会・・・
決勝大会を3ヵ月後に控え・・・
51歳の誕生日を迎えた・・・
外国人監督・・・
半世紀の反省と感謝 Vol 8 最終編にて・・・
50年間の半世紀と・・・
次への半世紀への想いを記してみたいと思います・・・
( 外国人監督・・・半世紀の反省と感謝 Vol 8最終 へ)
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