LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

見栄と差別と、自尊心。

2020-02-10 12:35:57 | サイキックの眼
       
        
見栄と差別と、自尊心。
      
       
なにもかも、すべて…
みんな、自尊心の為に生きている。
その自尊心が通らないと、悩み苦しみが絶えず、
わけのわからない生き物と化してしまう。
そして、わけがわからなくなると、
わけもわからず差別し始め…
わけもわからず見栄をはりはじめる。
      
自尊心など誰も教えてはくれない。
なぜなら、みんな自尊心が怖いからだ。
なぜ怖いのか?
それは完璧なモノで…
と同時に、難しく、辛く、単純で、尊い。
       
見栄と差別は、ぼくは類義語だと思う。
それ以上に、見栄と差別は仲がいい。
なぜ仲がいいのか?
それは…
見栄にも、差別にも、自尊心がないから。
      
世界中、長い歴史の中の様々な問題、
ひとことでいうと“見栄と差別のぶつかり合い”。
どこまで行っても、自尊心にはたどり着いていない。
例えば、宗教だって見栄と差別の道具になっている。
宗教という道具でもって戦争をする…
そして見栄と差別の奪い合いをし…
自尊心になど到底たどり着くこともなく、
また新たな宗教の見栄の張り合いと差別のし合いを繰り返す。
現代ならば、ビジネスとマネーでもって、
見栄と差別の取引をし、勝ち組か?負け組か?を凌ぎ合う。
これらに自尊心は…ない。
      
つまり、いい換えれば…
見栄と差別を持たなければ、
この社会では生きては行けないのです。
自尊心では食べて生活していけない!!
それが…苦しみなんです。
だから、見栄を張れる社会人になること!
差別されず…差別する側の人間になれること!!
見栄と差別の引っ張り合い。
見栄と差別のピラミッド社会構造。
この構造には、自尊心の入る隙間など到底ないのです。
     
アフリカの部族同士の生き残りをかけた奪い合い
エジプト文明の栄光と存亡をかけた戦い
東西に分かれた宗教文化の発展と階級制度…
そして大きな世界大戦をへて、
見栄と差別の大戦争は滞って人と人との間をうねりあっている。
国と国、地域と地域、村と村、ご近所とご近所…
見栄と差別でもって…虚栄の奪い合い?
いや、角度を社会に合わせていうなら…
見栄と差別でもって、平穏を保っている。
現代でいえる分かりやすいのは、
高層マンションの上層階と低層階で、
自尊心のない、見栄と差別の象徴達が外からまる見えですものね。
   
と…前置きはここまで
本題へと入ります。
     
平穏が保てるなら…自尊心なんていらない。
自尊心なんてモノがあれば、平穏は保てない。
だが…
見栄と差別で保つ人生は、
争いと憎しみ合いが絶えない…
そして何も残らない。
見栄を張って保てるなら、
差別のひとつやふたつ平気でやる。
差別を受けずに済むのなら…
見栄張ってた方がマシ。
太古の古い文明時代なら、
王族のステイタスである見栄と差別があったろう。
もちろん日本にもあるし、
隣国の共産圏では、今も国レベルで見栄と差別が続行中だ。
だが現代の我々の時代に今…現役なのは、
家族内、家庭内にある、見栄と差別だ。
昔は高貴な王族のステイタスだった見栄と差別が、
今では、庶民レベルのステイタスになっている。
いつの時代でも、どのような進化の過程でも、
見栄と差別が欲しいようだ。
アメリカの繁栄時代でも、日本の高度成長期でも…
“見栄と差別を手に入れたい” ようだ。
それは、一族内や家庭内にも及んでいる。
見栄は、見栄を産み。
差別は、差別を産む。
      
家族内、夫婦間、親子、兄弟姉妹の間において…
“見栄と差別と、自尊心を考えていこう。”
そう唱えたならば、
!!!バタン!!!
と、自尊心のあるだろうココロの扉が、
あっちこっちで勢いよく閉まる音が聞こえてきそうだ。
見栄と差別の中で、平穏を保つ…
そのフリをしていた方がマシなのだ。
だがぼくは思う…
「フェイクでは…そう長くは続かない」
「嘘は必ず破綻する」
「見栄と嘘を維持するには相当な無駄な予算を要する」
「見栄と嘘を持続させるには相当な時間を無駄にする」
それでも、見栄と差別を維持しなければならない。
だから国家予算の赤字が爆発してゆく。
そしていづれ…すべてが破綻する。
いつの時代も高度に発展した文明も…最後はこうだ。
完璧な自尊心とは、宇宙のシステムそのものの姿だから、
みな、そこへ向かって進化を遂げようとしている。
ただそれだけだし、それしかないんよ。
それがあまりにも尊いことだし、
恐ろしいことでもある。
そう考えると、宗教の唱っていることは、すべてフェイクといえる。
“なら我々は、なぜ生きているのだ!!”
な~んて疑問にさいなまれ、パニックになり頭がおかしくなり、
怖くて怖くて…自尊心なんてどうでもよくなり…
“嘘でもいいから、生きていく指南が欲しい”
っていう日常にしがみつき…
見栄と差別にまみれて平穏を保つ…
そのフリを一生懸命努力に務めつつ、
心の奥にあるなにか?の…
そのわからないなにか?の…
あまりの尊さ怖さに…震えて過ごす。
そのなにか?が、自尊心なのですが…
毎朝、目の前にはだかっている現実は、見栄と差別。
親の顔、家族の顔を見ては、見栄と差別。
学校や仕事に行けば、見栄と差別。
そこから獲たモノも、見栄と差別。
そして社会でなにか問題が勃発すれば、
“自尊心を傷つけられた” といって誰かを訴えるフェイク。
虐めや虐待の問題でもそうだ。
見栄と差別から発生し、派生もして…
ウィルスのごとく伝染し蔓延していく。
     
つまり
見栄と差別の中で、“フェイク自尊心”の奪い合いをしている。
互いに馬鹿にしあったり、無視しあったり、差別しあったり…
嘘でも仲良くしあったり。
見栄の張り合い、差別のし合い。
つまり
これらのどこにも “ 自尊心 ” は存在しない。
あるのは、超高層マンションの最上階でも低層階でもない。
天竺でも桃源郷でも、パワースポットでもない。
高級住宅街でもスラム街でもない。
“ 自尊心 ” は、自分の中の奥底から続いている尊いものだ。
相当に奥深い、孤独の境地にまで続いている。
化学や数学も届かぬ深さだ 。。。…
     
自尊心から見れば、見栄と差別は同じ仲間だろう。
“差別をしてはいけない”といっては見栄を張り、
“見栄っ張り”といって見下しては差別する。
そして
“差別をされては”見栄を張り、
“見栄を張って”は見下して。
或いは
“見栄っ張りを称え” 持ち上げては貶(おとし)める、
“差別をなくそう” と運動しては差別し続けたい。
なんで ?笑
ぼくの答えはこうだ。
「見栄と差別には、進化と未来がない。」
「自尊心には、進化と未来がある。」
その証拠のひとつとして…
見栄で造られた街は破綻しゴーストタウンになる。
差別で造られた町も、事実上破綻しておりゴーストタウンと化してゆく。
未来へと進化し続け、存在し続けるものは…
人の中にある“自尊心”と、そこから生み出されたものだけなんです。
       
何度も、何度でも、何が自尊心なのか?を確かめられる自分自身を持ち続ける。
その繰り返しをまた、何度も、何度でも、自分と真剣に向き合って欲しい。
自分の人生の目の前にある恐怖を無視せず…
何が怖いのか?
それを見つめ続ける精神力…
まずはそれが “自尊心” のはじまりです。
見栄も差別も、遜(へりくだ)るも見下げるも…
ますます生きるのが辛く苦しく怖くなるのが増えるだけです。
いちばん怖いのは、そう感じるのは、自分の中にあるんだもの。
腹が立つ! 悔しい! 情けない…
そうのたうちまわるのも、自分の中にあるんだわ。
相手であって、相手ではない。
自分の問題! のみ。
それが “自尊心” そのものなんだからね。
     
ただ…
家庭内で、見栄と差別を強いられて育ってきた人は、
自尊心が持ちにくく、自尊心を全く理解しない人格が形成されています。
理由は、“見栄と差別” のみで形成された風習色強い生活文化が左右してます。
特別なことではありません…
なぜなら、日本の全域が “見栄と差別” で形成されていますもの。
言い出したらキリがない。
どこの国の問題も、中身の見つからぬ“見栄と差別”をこねくり回すのみ。
      
日本も、世界中もみんな…
“ 自尊心 ” が、どこにあるのか?
右往左往して、もがき合い、捜しまわって?
“見栄と差別” でもって脅迫しあっている。
     
でもぼくが一番に注視しているのは…
これが家族内で行われていることです。
見栄の奪い合い…
脅迫や差別のし合い…
“自尊心” からは、ほど遠い家庭環境が多いことです。
        
        
サイキックの眼  山本 コージ


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