SAKIMANIA~目指せ!?日本一のカオラー~

ゴスペラーズ、杉山清貴&オメガトライブ、杉山清貴氏、そしてまさかのSixTONES(笑)にドハマリ中のさっきーのブログ。

知らない事がまだまだあるなー

2024-06-24 21:05:13 | 杉山清貴&オメガトライブ

また新たに杉オメ関連のインタビュー記事が載ってましたのでご一読あれ。

杉山清貴「バンド解散の理由は〈一番いいときに〉。作詞作曲をプロに任せ〈売れなきゃ〉という必死さがなかったのが、成功した理由かも」

https://news.yahoo.co.jp/articles/89f61be7eb87e8853989f4a6b8629f940283a17e?source=sns&dv=pc&mid=other&date=20240624&ctg=ent&bt=tw_up
といっても大半は知っている話(何度も色んな所でインタビューに答えたのを読んでいるので)なので
今回知った事と、より深く知った事についてたらたらと。

 ◆キラキラしていた80年代。レコーディングはL.A.で
レコーディングと言えばほとんど海外。
別に贅沢をしていたわけじゃなく、単純に日本でやるより海外のほうが安かったんです。
たとえば日本のスタジオを1日中使うとなると、50~60万円ほどかかる。
レコーディングが長引くと1~2ヵ月費やすこともあるので、
アルバム一枚作るのに最低でも2000万円近くかかる計算になるわけです。
でも海外はスタジオ代が安いので、渡航費やホテル代を入れてもトントンになるんですね。
ならば海外でのんびり録ったほうが気分転換にもなっていいと、
ロンドンやL.A.などに行く人が多かった。ちなみに僕らはL.A.でした。
海外は日本より働く人の権利がしっかりしていて、
スタジオのスタッフは皆、朝10時に来て夜の7時には帰っちゃうんです。
家で家族と夕飯を食べるからと。
日本では朝の4時5時まで店屋物を取りながら頑張っていましたが、
冷静に考えたらそんな状況でいいものができるはずがないんですよね。
明け方なんて眠いし、耳もおかしくなってるし(笑)。
疲れない、健康的な環境でものづくりをするほうが絶対にいい。あれはまさにカルチャーショックでした。


去年だったかな、
ピアニスト清塚信也さんがMCの番組『Yogibo presents FREE STUDIO』で当時のレコーディング話をしていましたよね。
あの時はバブル時代凄かったという話で盛り上がっていて
てっきりそれに便乗して海外でレコーディングしていたのかと思ってましたが
スタジオ代が海外の方が安かったというのが大きかったんですね。
今のスタジオ事情はわかりませんが
&アルバム一枚作るのに最低でも2000万円近くかかるのかわかりませんが
それ聴いたら、アルバム買わんとなーって気にもなりますよね。

◆「杉山君は音楽に行ったほうがいいよ」
美大を受けようと、YMCAでデッサンの勉強をしていた高3の夏。
泊まりがけのスケッチ大会で、清里に行ったことがありました。
宿にはギターがあり、夜みんなでお茶を飲みつつ話している時に、
僕がそのギターを弾きながら歌ったりしていたのです。
すると帰りの電車で隣に座ったコーチが、
「杉山君は音楽に行ったほうがいいよ」と話しかけてきて。
そのコーチとはその日が初対面。
僕自身、音楽をやりたいと思いつつ、
非現実的だよなと自分の気持ちにフタをしてきたので、その言葉に背中を押されたような気がしました。
コーチにフタを開けてもらったことで覚悟が決まり、
当時通っていたライブハウスの店長に「ここで働かせてください」と直談判。
それを機に、本格的に音楽の道を目指すことになりました。
両親は「やりたいことをやりなさい。自活して頑張ってみなさい」という感じで、
特に反対というのはなかったです。

この話は初耳でした。
美大受ける話はチラッと聞いた気もしますが
YMCAでデッサンの勉強していた・・とかスケッチ大会で清里に入った話は初耳です。
漫画家志望だったこと、イラスト描くのが得意という事も知っているので
美術の道に進むか、音楽の道に進むか
で、もしかしたら進路迷っていた時期もあったのかな?
もしあの時、このコーチ(しかもこの時初対面)が清りんに声をかけなかったら
清りんが歌手になる事もなかったでしょうから
このコーチとの出会いが清りんの運命を変えたのかも。
もし会ってなかったら清りんは音楽の道に進まなかっただろうし
そうなると杉オメとしてデビューすることもなかったから
今こうして清りんの記事も読むことがなかったでしょうから
自分にとってもそのコーチは大恩人ですよ☆


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