『吉野弘詩集』

社会のあり様や働き人の暮らし、家族の営みや自然の移り変わりを、日々を生きる者の飾らない眼差しでとらえ、深く柔らかくそしてユーモラスに練り上げた言葉でうたう詩人・吉野弘。名詩「I was born」や「祝婚歌」など、やさしく誠実な者たちの魂の重力を探った戦後五十年にわたる詩群のなかから代表作品を選び、季節・生活・言葉遊びなどテーマごとに配置する。
出版社：角川春樹事務所（ハルキ文庫）




たいていの人は、吉野弘の詩を一度くらいは読んだことがあるだろう。
実際、国語の教科書には、『夕焼け』や『虹の足』、『I was born』など多くの詩が掲載されていた。それは僕の時代だけでなく、今もそうにちがいない。

そんな風に教科書でやたら人気があるのは、言葉が平易で、詩の世界が優しさに満ち溢れており、日常の視点から深いことを語っているからではないか、と思う。


『奈々子に』なんかは典型的だ。
自らの長女に語りかける詩には、深い親の愛情がうかがえる。

「お父さんは　お前に／多くを期待しないだろう」というところが特に良い。
ただ「健康と／自分を愛する心」を求め、「自分があるとき／他人があり／世界がある。」というある種の謙虚さを身につけてほしいと願うだけで、それ以上のことは望まない。

親として、人としての優しさだけを持ってくれればいい、という思いが伝わってきて、しんと胸に響いてならない。
これを読むだけで、この人がいい父親だったのだろうことがうかがえる。


『雪の日に』は優しい言葉でつづられながらも、鋭く胸を突くイメージにあふれている。

「雪がはげしく ふりつづける/うわべの白さで　輝きながら/うわべの白さを　こらえながら」っていうところが個人的に好きだ。

そんな雪はいつまでも白いままでいられず、どうしても汚れてしまう。
「雪の汚れを　かくすため」、「みずからの手に負えなくなってしまったかのように」「たとえようもない　重さで」雪ははげしく降り続き、雪の汚れがかくされていく。

そこからは嘘や罪をかくしている人の姿が仄見えるかのようだ。
そんなメタファーの味わいがすてきで、忘れがたいものがある。


そのほかにも、『みずすまし』、『愛そして風』、『はじめての児に』、『I was born』、『父』、『早春のバスの中で』、『夕焼け』、『虹の足』、『祝婚歌』、『某日』、『豊かに』、『山が』、『ある高さ』、『四つ葉のクローバー』などなどいい詩は多い。


そんな中で、個人的に一番のお気に入りは『生命は』である。
最後にこの詩を引用して感想を終える。
この詩の感想については書かない。読めばそれでわかるからである。

『生命は』

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和

しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ？

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も　あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも　あるとき
私のための風だったのかもしれない

評価：★★★★★（満点は★★★★★）