樽見京一郎は京都の僻村に生まれた。父と早く死に別れて母と二人、貧困のどん底であえぎながら必死で這い上がってきた男だ。その彼が、食品会社の社長となり、教育委員まで務める社会的名士に成り上がるためには、いくつかの残虐な殺人を犯さねばならなかった……。そして、巧なり名を遂げたとき、殺人犯犬飼多吉の時代に馴染んだ酌婦、杉戸八重との運命的な出会いが待っていた……。
出版社:新潮社(新潮文庫)
『飢餓海峡』はジャンル的にはミステリということになるのだろう。
しかしミステリという観点から見ると、いくらか不満な点も残る。
たとえば、刑事たちが事件の輪郭像を描き、それを状況証拠だけで決めつけて行動するところ。
その予想はおおむね事実で、意外性がないところ。
これだけの証拠を見せれば、相手も自白するだろうと当て推量で刑事たちが言うところ。
そういった部分は幾分不満で、馴染めなかった点は告白せねばなるまい。
だがそれら細部はともかく、物語の中身そのものはおもしろい。
それもこれも、作者が自負する通り、本作が人間小説となりえているからだろう。
この作品には何人もの人物が登場する。
岩幌の殺害事件を追う田島、海難事故の身元不明遺体の謎を追う弓坂、舞鶴の心中事件の疑惑を追う味村などの刑事は代表格だ。
彼らは刑事らしく,事件の謎とその裏に隠された真実と犯人を求めて、執念深く事件を追っている。
その求道的なまでの情熱はすばらしく、おもしろく、実に読み応えがある。
もちろん一般人の側の視点もおもしろい。
特に光り輝いていたのは八重だ。
八重は犬飼という大男と出会い、そこから運が開けていく。東京に出て警察を避け、人生を切り開いていく様は読んでいるだけで心に届く。
人生をひたすらに生きている女性の姿を、追体験できるからそう思うのだろう。
黒人のオンリーとして生きた時子を含め、この時代を生きた女性の強さと悲しさが、彼女の生き方からは感じられるのだ。
それだけに上巻のラストには衝撃を受けてしまった。
本作の犯人が、犬飼こと樽見京一郎であることは自明である。
その人物像に迫っていくのが、この小説のだいご味でもある。
彼の行なった(と思われる)犯罪はどれも非情で残酷なものと言わざるを得ない。
けれどそんな男もラストが近付くにつれ、人情味あふれる側面を表していく。
彼が告白した真実にも、一人の人間の理由と苦悩がある。
善悪はともかく、そこには樽見京一郎という男のつらい記憶と、優しさがうかがえる。その展開はなかなか良い。
そのようにあらゆる人間たちの思いを、本作は存分に描き切っている。
小説のおもしろさを堪能できる一品であった。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
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