Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

世の光

2008年01月19日 | Weblog
暗闇を呪うよりも、ロウソクに火を灯すがよい。


カール・セーガン 「人はなぜエセ科学に騙されるのか」より

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暴露することには価値がある。人々に危険を報せ、受けなくてもよい危難を受けないように、警告するのは立派な行為だと思います。

傷ついた気持ちを打ち明けあうことにも、価値がある、絶対に。ひとりじゃないことを知るのは大きな慰めだから。悔しい気持ちや、自分の惨めな感情に共感してくれる人がいるのは、ほんとうに「砂漠の中の水」のように感じる。これは傷をいやすためには必要で有用な過程です。

でも。

自分が幸せになるには、自分で動いて、自分の手でつかまなければならない。自分の幸せは他人に頼ることはできない。自分から動かないと、そこへはいけない。

ただ、幸せになれないのは、全部が全部、自分のせいじゃないこともある。

男と女の場合。女だけが一生懸命になっても、男のほうで女まかせにしていたり、女のパートナーを母親のように考えて、自分の世話をさせるような人なら、幸せにはなれない。

カルト宗教に捕まえられた場合。カルトを離れることは道徳的に悪だとか、カルトを離れると悪いことが起こるとか信じ込まされて、手も足も出ない。手も足も動かさないから、いえ、それ以前に、頭を働かせないから、精神的な「火の責め苦」に苛まれつづける。

相手への不満を愚痴るのはいいことだ。その関係に留まるしかないという、間違った思いこみに気づくならば。でも不満を愚痴ることが目的になってしまうと、人は不満な関係に順応してしまう。

流れない水がよどむように、解決を志向しない評論は、仲間への陰口へ、ついで子どもへのイジワルへというふうに、腐ってゆく。人前では「いい人」になっているけれど、ほんとうの気持ちは、他人の不幸を喜ぶほどまでに心が堕落してゆく。



自分を顧みて、人の不幸を期待してしまっていたり、子どもがうれしそうにすることに苛立ちを感じたりしているようなら、あきらかに自分は人間として堕落している、と断定していい。このような自分は、ただ単に不幸なだけでなく、不幸を愛し、楽しんでさえいるのです。



イエスは言いました、光を愛しているなら、光の下に自分をさらしなさい。そして自分の光によって世を照らしなさい、と。

暗闇で、解決の行動を志向しない評論にふけって意趣返しをするよりも、評論することによって自分が「暗闇」に慣れてしまったことに気づこう。「暗闇」にいることに安心してしまっていることに気づこう。「暗闇」の悪口を言うことを、生活の最大の楽しみになってしまっていることに気づこう。

そして、勇気を出して明かりを灯そう。たとえそれによって自分の貧弱な姿を目の当たりにすることになっても。太陽の下で活動するようになれば、やがてまもなく、「健康」を取り戻せるのだから。