中国との戦争はいつまでも長びく。
たいていの人は、この戦争は無意味だと考えるようになった。
転換。
敵は米英ということになった。
2
ジリ貧という言葉を、大本営の将軍たちは、大まじめで教えていた。ユウモアのつもりでもないらしい。
しかし私はその言葉を、笑いを伴わずに言う事が出来なかった。
この一戦なにがなんでもやり抜くぞ、という歌を将軍たちは奨励したが、少しもはやらなかった。
さすがに民衆も、はずかしくて歌えなかったようである。
将軍たちはまた、鉄桶(てつとう)という言葉をやたらに新聞人たちに使用させた。
しかし、それは棺桶を聯想(れんそう=連想)させた。
転進という、何かころころ転げ廻るボールを聯想させるような言葉も発明された。敵わが腹中にはいる、と言ってにやりと気味わるく笑う将軍も出てきた。私たちなら蜂一匹だってだって、ふところへはいったら、七転八倒の大騒ぎを演ぜざるをえないのに、この将軍は、敵の大部分を全部ふところに入れて、これでよし、と言っている。もみつぶしてしまうつもりであったろうか。
天王山は諸所方々に移転した。何だってまた天王山を持ち出したのだろう。関ケ原だってよさそうなものだ。天王山を間違えたのかどうか、天目山などと言う将軍も出てきた。天目山なら話にならない。実にそれは不可解な譬え(たとえ)であった。
或る参謀将校は、この度のわが作戦は、敵の意表の外に出ず、と語った。それがそのまま新聞に出た。参謀も新聞社も、ユウモアのつもりではなかったようだ。大まじめであった。意表の外に出たなら、ころげ落ちるより他あるまい。あまりの飛躍である。
指導者は全部、無学であった。常識のレベルにさえ達していなかった。
しかし彼等は脅迫した。天皇の名を騙って(かたって=だまして、の意)脅迫した。
私は天皇を好きである。大好きである。
しかし、一夜ひそかにその天皇を、おうらみ申した事さえあった。
日本は無条件降伏した。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。
天皇の悪口を言うものが激増してきた。しかし、そうなってみると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。
私は、保守派を友人たちに宣言した。
十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。
そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。
まったく新しい思潮の擡頭(=台頭)を待望する。
それを言い出すには、まず、「勇気」を要する。
私のいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、
その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。
「苦悩の年鑑」/ 太宰治・作
(「新文芸」昭和21年3月号)
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