Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

子どもを怒鳴ればたたくのと同じ悪影響

2013年09月10日 | Weblog

 

 

 

 

 

 思春期の子どもが悪いことをしたとして親から怒鳴られると、抑うつ症状や攻撃的な行動のリスクが上昇するなど、たたかれたときと同じ問題が生じる可能性のあることが、新たな研究でわかった。


  母親や父親と温かく良好な関係を築いていていても、10代の子どもが親から怒鳴られたり、ののしられたり、「怠惰」だの「おろか」だのと侮辱されたりすれば、悪影響は免れない。ピッツバーグ大学とミシガン大学の研究者が行ったこの研究は、4日にチャイルド・デベロップメント誌のウェブサイトで発表された。


  米国ではおしりをたたくことがタブーになっている共同体が多い一方、怒鳴ることはそれほどには世間体が悪くない。実際、親たちは怒鳴れば子どもが言うことを聞き、行いを改めると考えることもある。だが、今回の研究ではその逆であることが示された。




  共同で研究を行ったピッツバーグ大学教育・心理学部のMing-Te Wang准教授は「怒鳴っても、子どもの問題行動を減らしたり直したりはできない」と指摘し、「逆に悪化させる」と述べた。


  ニューヨーク大学ランゴーン・メディカル・センターのティモシー・バーデュイン臨床学准教授によれば、親は、テレビなどを見る時間や車のキーといった特権を取り上げることで、子どもを十分に罰することができる


  ただ、「そうする際に、批判的、懲罰的、侮辱的な言葉を大量に使わないことだ」とバーデュイン氏は語った。「人は尊敬し称賛している人に言われたときのほうがずっと、自分の行動に責任を感じる。子どもをしかったり恥ずかしい目に合わせたりするようなことをすれば、親の持つ力が損なわれる」という。バーデュイン氏は今回の研究には参加していない。




  研究では、両親と13ないし14歳の子どものいる家庭976世帯を追跡した。子どもにさまざまな質問をし、問題ある行動、抑うつ症状、親との親密度を判断した。親には戒めとしてひどい言葉を発しているかどうかを調べる質問をした。


  子どもが13歳だったとき、母親の45%、父親の42%が、前年に子どもにひどい言葉を浴びせていた。13歳の時に親から特にひどい言葉を受けた子どもは、翌年に同年代の子どもとのケンカ、学校でのトラブル、親へのうそ、抑うつの兆候といった問題が増える度合いが高かった。


  親が戒めとしてひどい言葉を使った時と、たたくなどの体罰を与えた時では、問題が増加する度合いは似ていた。口論を除く親子の親密度が高くても、ひどい言葉の悪影響は変わらなかった。逆に、子どもの問題は親がひどい言葉による戒めを増やすことにつながり、悪循環がエスカレートをさせていた。


  10代が怒鳴られるとこれほど悪影響を受ける理由について、Wang氏は「思春期は(子どもが)自分のアイデンティティーを見極めようとする、非常に微妙な期間」であるためだと述べた。「親が怒鳴ると、子どもの自己像を傷つける。能力や価値がなく、無駄な存在だと感じさせる」のだという。

 

 

 

 

 


ウォール・ストリート・ジャーナル 9月9日(月)13時32分配信






監督やコーチの責任とは?

2013年04月07日 | Weblog






 

 最近、メルマガ読者の方から、次のような相談がありました。よく受ける質問ですので、皆さんにも紹介したいと思います。



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 4月で小5になる息子は、少年野球に入部しています。そこで、同級生にからかわれたり、けられたり、殴られたりしています。もちろん、大人のいない所で。主人や義父は「男なら、やられたらやり返せ」と言うのですが、息子は、「絶対に暴力はしたくない」と言います。理由は、兄弟ゲンカをした時、痛かったから(自分も相手も)。あと、またきっと倍返しで仕返しされるから、余計嫌だとのこと。


 多少のケンカは必要なのですか?
 やり返さない息子がいけないのですか?



 実際その場を見ていませんが、暴力を振るってくる子に、大人がきちんと注意すべきですか? もしくは見守るべきなのでしょうか?
 やられるたび毎回モヤモヤしています。



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 私は、まず子どもには、「暴力を振るいたくない、という気持ちは素晴らしいね。応援するよ。ただ、甘んじて暴力を受け続ける必要もない。『逃げる』という形で暴力を拒否することもできるんだよ。あるいは、大人に助けを求めるとか。それは決して弱いことでも、卑怯なことでもない。自分を守るために、大切なことなんだよ」と言えばどうかと思います。「やられたらやり返せ」という対応は、この子が言っているように、暴力の連鎖を生むだけで、私は間違っていると思います。



 あとは、大人の対応です。少年野球も、教育の一環としてやっているものだと思います。それなら、教育にふさわしい環境を整えるのが大人の責任だと思います。監督やコーチの責任は、ただチームを強くすればいい、技術を教えればいいというものではなく、その場が、教育にふさわしい環境になるように、配慮する。誰も傷つかず、子どもたちの自己肯定感を下げないように、安全を保障することが、大人の責任だと思います。




 暴力を振るうような子は、決して見逃さない。きちんと注意して、保護者にも伝える。そしてみんなで見守っていく。それが大人の役割だと思います。ですから、監督やコーチの体罰などもってのほかです。体罰は、暴力を振るってもいいことを、大人が体にかけて教えているようなものです。




 少年野球の監督(特に強いチームの監督)は、けっこう強い権力を持っていて、何か意見しようとしても、ほかの保護者から止められることもあったりしますが、同じ思いでいる保護者もいると思います。ぜひそういう人と手を取り合って、環境を改善していってもらいたいと思います。

 

 

 

 


明橋大二メルマガより




 





もし、新しい服を買った日に…

2013年04月06日 | Weblog






わたしの曾祖母は75歳を過ぎると、新しい服を買わなくなりました。


だれかが服をプレゼントしてくれると、

 「そんなことにムダなおカネを使うんじゃないよ。わたしはどのみち、そう長くないんだからね」

 …と言ったものです。




もし彼女が、

 「もし新しい服を買ったその日に死んだとしても、それでいいじゃないの。だって、新しい服を着るのって楽しいじゃない」

 …と考えることができたら、どんなにかすばらしかったことでしょう。






「私がわたしになれる本」/ テリー・コール・ウィッタカー・著




子どもの後追いにどうしよう?

2013年01月26日 | Weblog







Ques.

「10カ月の女の子です。後追いが激しく、姿が見えないと激しく泣きます。どう対応したらよいのでしょうか」。


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Ans.


 後追いは、人見知り(5、6カ月で始まる)に引き続いて、9カ月ごろから始まり、次第に激しくなって、2歳ごろまで続くこともあります。母親の後を追いかけて、姿が見えなくなると、泣き叫びます。ひどい場合は母親はトイレにも入れない、と嘆くことになります。


 しかし、これは、一言でいうと、子どもの心が成長してきた証拠です。母親と、他の人の区別がつき、「お母さんじゃなきゃだめ」と思うあまり、母親の姿を追いかけ、姿が見えなくなると、不安になるのです。それだけ、母親と子どもの心の絆がしっかりできてきた証拠です。


 子どもは、まだ、母親が見えなくなっても、すぐまた戻ってくると分からないので、不安になって泣くのです。母親の姿が見えないと、永遠にいなくなってしまったかのような不安を感じているのです。


 ですから、後追いがひどい時期は、なるべく、子どもと一緒にいてやりましょう。トイレも一緒に入るとか、ドアを開けたままにしておくとか。また子どもが泣いたら、子どもの元に戻って、抱っこしてやります。


 お母さんが離れても、自分が求めれば、すぐまた戻ってくれる、お母さんは自分をちゃんと見てくれている、という安心感が、その後の、自立の土台になっていくのです。


 どうしても離れなければならない時は、「ママ、シーシーしてくるからね、すぐまた来るからね」と声をかけて離れます。それでも泣きますが、何も言わずに離れるよりはよいのです。子どもに気づかれないように、黙っていなくなるのは、むしろ、逆効果だといわれています。









■プロフィール

明橋大二(あけはし だいじ) 子育てカウンセラー・心療内科医。




 


「罪悪感」という桎梏

2013年01月12日 | Weblog






相談

 自分かわいさについついいい顔をしてしまい、その結果最後には無責任にも相手をするのが嫌になり逃げてしまいます。今度こそはそんな無責任なことは絶対しないようにしよう、でも出来る自信がない…もう一人でいるしかない。そう極端な考えしか浮かびません。だからいつまでたってもコミュニケーションがヘタです。一人から逃げるということは、他の自分にとって大切な人との繋がりも諦めなければいけないと思います。自分が顔にも出さないでフラストレーションを溜めるので、自分の好きな相手も自分に対してそうかもしれないと思います。


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ご相談者の方は、《犠牲》というサイクルにはまりこみ、ご自分をちっぽけに扱ってしまっているようです。どんなに頑張っても価値や報酬を受け取ることのない日々の連続に、とてもお疲れのことと思います。


自分をちっぽけに扱わないこと

自分を罰することを辞めること


もし、この二つが完璧にできれば、私たちのネガティブな問題は全て解決したも同然でしょう。心の奥深いところを見てみると、私たち人間はみんな、この原始的な二つの心理的な《罠》に深く馴染んでしまっているようです。


お馴染みのあまり一種の人間臭さのシンボルのように思われがちなのですが、自分で自分の首を締め続けることは、やはりお勧めできません。《自己攻撃》は、世界への攻撃なのです。

 

 


 

■《罪悪感》と《無価値感》について


「投げたものが自分に返ってくる」とか「因果応報」という言葉があるように、私たちは、一度でも誰かや何かを(心の中でだけでも)攻撃した経験があると、自分を悪者扱いし、自分を攻撃したり、批判したり、自らを罰したい・罰せられたいというような破壊的な気持ちが生じるようです。


時にそれは、本人も想像を絶するような「ドラマ仕立て」で人生を破壊することもあります。


幼いころには親に対して、大人になってからは社会に対して、どうしようもないときには神などに対して、攻撃する気持ちを持つことは誰もが経験していることでしょう。


《罪悪感》とは、いまだに誰かや何か(あるいは自分自身)を責め続けていて、その攻撃性をまだ許すことが出来ずにいる結果、自分自身をもルールや役割といった不自由な檻の中に入れてしまっているということです。


日頃からネガティブな想いやストレスを自分に課している状態も、これにあたります。


また、自分には価値がなく、勇気や誠実さや愛がないと感じていることのすべて《無価値感》は他の人にもおのずと投影され、「自分を理解して許してくれる人などいない」「関係を継続すべき価値のある人間関係など存在しない」といった、心と心の繋がりのない、分離した孤独な世界に住んでしまいます。


どんな人間関係も長期的になってゆくにつれて変化することが必要ですが、これらの怖れがあると、次のステップへ進む意欲が失われていき、人間関係を継続できなくなってしまうのです。

 

 

 


■コントロールを手放しましょう


私たちに《罪悪感》があるとき、これも無意識的にやっていることですが、《罪悪感》を使って自分や他の人をコントロールしたり、またあるときは自分を有罪だと判断してくれる人を見つけてコントロールしてもらおうとしてしまいます。


例えば、「私が○○をしてあげたのだから、あなたは○○をするべきよ」などのルールや感情的脅迫を作ったり、「あの人に責められるから、僕はこうするしかないんだ」という被害者的立場をとったりします。


この《罪悪感》という気分の悪いものを用いてのコントロールは当然長持ちするはずもなく、いつかは逃げ切れなくなって、「消えてなくなりたい」「全て壊してしまいたい」などと思ってしまいます。

 

 

 


■新しいレベルの人間関係に進むことを強く望みましょう


《罪悪感》は次のステップ(成長)への怖れから自分を守るために使う幻想のようなものです。


《罪悪感》という思い込みを持っていると、間違いを訂正することに意識を向けられなくなり、ただ夢中で自分を罰し続けてしまうのです。


《罪悪感》はあなたを人生から引きこもらせ、状況から身動きできなくさせてしまいます。前に進もうとしても無駄だ…など、変化しないことへの言い訳を意識下に強力に作ってしまうのです。


自分を責めること以上に大切なことは、新しいステップを踏み出すこと。そして、新しいレベルの人間関係を、心から望むことです。


かつてあなたが批判してしまった人や状況を許し、解放するたびごとに、自分自身と世界との『無垢なつながり』を取り戻すことができます。


過去に切り離した繋がりを取り戻すことで、今現在あなたの関わる人たちとの間に新しいレベルの繋がりを感じられるようになります。


そうした繋がりのパイプがあってこそ、人間関係の醍醐味と充実感、そして『ご褒美』を心から味わえるのです。

 

 

 


■自分という存在を周りへの『贈り物』とみなしましょう


《罪悪感》は、あなたを「いい人」だと証明するためにあなたの本質を殺します。


《無価値感》は、あなたがいかに役に立つ人間であるかを証明するために孤独な重労働をさせます。それらの行為の全ては、一時的なごまかしに過ぎず、【本物の感じ】や【リアルさ】を受け取れないので、やがてはボロボロになって燃え尽きてしまいます。


それよりも、【本当のあなた自身】を周りの人たちに与えてください。あなた自身を隠さないで、どうか心を開いて、真実を分かち合ってください。それが、死んだような義務的な関係性に新しい生命を吹き込む、最も創造的な愛の行為なのです。


(完)


 

 


 

こちらより転載





親や祖母を叩く3歳児、どうしたらいい?

2012年12月22日 | Weblog







Ques.

 2人めを生んでから、3歳の息子が、親や祖母をたたくようになりました。また、とてもわがままです。なるべく上の子優先にしていますが、そうすると、下の子は泣かせてばかりになってしまうので、ストレスがたまります。どう接すればよいでしょうか。 





Ans.

 親や祖母をたたくなんて、なんと乱暴な、と普通は思いますね。わがままというのも、このまま大きくなったらどんな自己中心的な子になるんだろう、と心配されているのだと思います。

 しかし、3歳児は、まだ、自己中心的な世界に生きています。まだ他人のことを考えることはできません。他人のことを考えて自分の行動をコントロールできるようになるのは、もう少し後です。ですから、3歳児は、自己主張が激しいですし、自分の思うようにならない時に、怒ったりたたいたりします。

 ですから、お尋ねのお子さんの様子は、決して、しつけがなされていないとか、攻撃的な性格とか、そういうことではなくて、普通の子どもの成長のプロセスなのです。

 この時期に大切なことは、自分の気持ちを表現することです。自己主張することです。そのうえで、他の人と関わると、自己主張のぶつかりあいになります。そこで、少しずつ、他人の気持ち、事情を知るようになっていくのです。

 自己主張ができないまま大きくなると、表面的には、手のかからないいい子で、ルールを守っているように見えますが、それは、単に自分の気持ちに気づいていない、表現ができないだけで、激しい感情が、その底に閉じこめられていることがあります。


 大切なことは、自分の気持ちを、ただ抑えることではなく、自分の気持ちを言葉にして、適切に表現できることなのです。

 ですから、このお子さんの場合は、たたきたくなる時の気持ちを酌んで、それを言葉にして返してみてください。
「○○は、こういう気持ちだったんだねー。だけど、だからといって、たたいちゃだめだよ」と繰り返し教えていくことで、少しずつ、他人にも配慮できるようになってくると思います。





明橋大二メルマガより

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■プロフィール

明橋大二(あけはし だいじ) 子育てカウンセラー・心療内科医。
著書『輝ける子』『子育てハッピーアドバイス』

『子育てハッピーアドバイス 大好き!が伝わる ほめ方・叱り方』など
 http://www.happyadvice.jp/?mm=a205





叱ってもへらへらしている子の心のうち

2012年12月06日 | Weblog






 お母さんに叱られて、少しもこたえていない子はいません。


 どれだけ叱っても、まるでこたえていないように見える子がいます。親は、まだ腹が立っているのに、ヘラヘラとふざけたような態度を見ると、「泣くまで許せない!」と、しつこく怒ってしまう、という話も、時々聞きます。

 お母さんがイライラしてしまう気持ちもよくわかりますが、叱られて、ヘラヘラしたりふざけたりしているのは、必ずしも、本当にこたえていないわけではないかもしれません。

 子どもは、強いダメージを受けると、自分の心を守るために、あえて聞き流そう、忘れてしまおう、とすることがあります。これは、自分の心をガードするためです。その結果、表面上ではこたえていないように見えます。

 しかし、ガードするのは、ガードしないといけないぐらい、傷ついているということです。「絞首台の笑い」という言葉があります。これから絞首台に上がろうとする人は、皆がみな、泣いたり暗い顔をしたりしているわけではありません。中には笑い出す人もあるのです。人間は、本当に絶望し切った時や、悲しみに沈み切った時、「笑う」という形でしか表現できないこともあります。

 お母さんに叱られて、少しもこたえていない子はいないと思います。本当は、とても悲しくて、不安な気持ちになっているのかもしれません。敏感な子ほど、そんな心を守るために、よけいにガードを固くし、ふざけたり、悪さをしたりする場合があります。一発、ガツンと言うのもいいですが、傷ついている心を、さらに踏み荒らすようなことにだけはならないようにと思います。

 「泣くまで許せない」と思ってしまうのは、結局、泣いたら少しは手ごたえがあったと思って、スッキリできるからではないでしょうか。子どものためというよりは、母親自身のストレス解消の手段になっているのかもしれません。

 どうしても感情を抑えられない時は、別の形でストレスを発散するとか、時にはゆっくり休むことも必要です。お母さんが楽になれば、子どもも楽になります。そうすると、子どもの態度も自然と変わってくるのではないでしょうか。

 親としては何とか改めさせようと必死になってしまいますが、少し立ち止まって考えてみましょう。それは今すぐ改めないと、命に関わるような問題でしょうか? もしそうでないなら、今は少し後回しにしてはどうでしょうか。

 実は、子どもの問題、と見えることも、実際には時間が解決することがほとんどだと言っていいのです。おむつがはずれない、指しゃぶりをする、から始まって、子どもの成長とともに、別に叱らなくても自然に解決することも少なくありません。それまで少し待ってみる、というのも一つの手、ではないでしょうか。





明橋 大二メルマガ2012年12月6日号より


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【このテキストの目立った点】



1.
  へらへらしているのは子どもが自分を見下しているのでなければ挑発しているのでもない。

  子どもがいちばん受け入れてほしがっている親から怒りという形で拒絶されていて、
  そのためショックを受けているから。

2.
  覚えておきたい用語 「死刑台の笑い」。

  心の中で生じた、絶望感、悲嘆といった感情が強すぎると、ひとは笑いという反応を示すことがある。
  このことは個人的にも経験した覚えがある。

  応用例:
  死刑が言い渡されそうな裁判で、被告人がふてくされた態度や笑いというような態度を見せた場合、
  それをもって「反省の態度がない」、「不敵な笑い」、「冷酷、したがって更生不可能」などの判断を性急に示してはならないのではないか、と思った。
  とくに、裁判員に徴用された場合、この点は覚えておこうと思う。公正な判断を示すためにも重要だと思うから。


3.
  へらへらした態度などの表面的な態度を改めさせようとするのは、ほんとうの意味で子どものためにはならない。
  むしろ子どもは、親はほんとうの自分をわかってくれない、という感じを抱き、親への信頼を冷めさせてゆく可能性大。
  将来の親子断絶、コミュニケーション途絶の原因となっているのではないか。


  また、表面的な態度を変えさせようとするのは、親の思い込みを押しつけようとしているのが実態。
 それは子どもへの愛ではなく、自分のうっ憤晴らし、あるいは自分への愛、つまり子どもが表面的に見せている態度に親が傷ついていて、
  傷ついた親が威信を回復しようとして子どもに力を加えている。親が心理的自己防衛にまわっている。


4.
 子どもの成長は千差万別。親の思うとおりに行かないからといって焦ってはならない。
 時間がたてば子どもは変わっていく。
 成長する力を信じて、子どもの側に立ったサポートをしてゆくのが、ふさわしい種類の愛(つまり子どもを尊重する視点に立っているから)。





明橋大二先生の 親子でホッとする子育て教室 

2012年11月25日 | Weblog







 【第197号】  平成24年10月18日発行




子育て相談室Q&A       

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 Q.小学生の子どもが、何に対しても意欲がなく、毎日ゲームばかりして
   います。どうしたら、この子を変えることができるでしょうか。
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(答え)


 このままでは、この子はどうなるのだろうか、と将来を心配しておられる親御さんの気持ちはよく分かります。そして、親がどのように接したら、この子を、もっと意欲のある子に変えられるのだろうか、と悩んでおられるのだと思います。


 実は、「この子を何とか変えたい」という気持ちは、親としては、子どもを心配する愛情から出ているのですが、子どもには、必ずしもそのように伝わっていないことがあります。


 つまり、「変えたい」ということは、「今のおまえはダメだ」という否定のメッセージになっているのです。「ダメだから、変えなきゃならないんだ」と反論されるでしょうが、あまりにも、「おまえはダメだ」というメッセージが本人に伝わりすぎると、本人の自己評価を下げ、変わろうとする意欲まで、なくさせてしまうことがあります。


 実際、かなり意欲が低下している人を見ると、最初から意欲がなかったわけではなくて、ある時期までは、周りに無理に合わせてやっていた、ところが、ある時から、それに疲れてできなくなった、それを、「怠けだ」「やる気がない」と叱られているうちに、ますます疲れがひどくなって、意欲を失った、という人が少なくありません。


 何に対しても意欲がない、と言われますが、生活している限りは、全く意欲がない、ということはないはずです。ゲームをする、というのも、1つの意欲です(「こんな意欲、あっても意味ない!」と言われるかもしれませんが、医学的には、立派な意欲です)。


 それ以外にも、生活の中で、本人なりに「やろう」と思っていることもあるはずです。それを見つけて、認めていく。やらないことを責めるのではなくて現在、やっていることを見つけて認めていく。そして「よくやってくれたね」「ありがとう」という言葉をかけていく。「ありがとう」と言って、やったことの10に1つくらいは、続けてやってくれるかもしれない。


 そうなってきたら、こちらからも「どうして○○しないんだ」と責めるのではなくて、「今度、○○してくれると、助かるんだけどな」と頼んでみます。それで、やってくれたら、こちらも大いに喜んで「助かったー! ありがとう!」と感謝の気持ちを伝えていく。


 こういうことの繰り返しで、少しずつ元気になってくる人が多いです。親が、「変えよう、変えよう」と思っている間は、子どもはなかなか変わりません。逆に、「変わらなくてもいい。今のままでも、けっこうこの子なりにやっているんだから」と本当に思えた時、初めて子どもが変わり始める、ということが、案外あるように思います。






■プロフィール

明橋大二(あけはし だいじ)
 子育てカウンセラー・心療内科医。

著書『輝ける子』『子育てハッピーアドバイス』
  『子育てハッピーアドバイス 大好き!が伝わる ほめ方・叱り方』など










自分も相手も大切にした話しかたの具体例

2011年08月15日 | Weblog





相談:


中学生のころからつきあっている友だちがいます。


最近、その友だちと話していると、カチンとくることが多いんですね。以前はそうでもなかったんですが、きっとわたしが変わってきたのだと思います。


この前も、気に入って買ったバッグのことを、色が悪い、デザインが地味すぎる、値段が高い割には質が悪いとなどと、けなされました。


「でも、お店の人も、わたしの雰囲気に合っているって言ってくれたよ」とわたしが言うと、「そんなの、買わせるためのお世辞に決まってるじゃない。あなたって、ほんとうにお世辞に弱いのねえ」と言われてしまいました。


わたしはそのバッグがとても気に入っていたので、彼女の言うことには納得できませんでした。でも、反論して争いになるのが嫌だったので、「そういうところ、あるのかなあ」などと同調して、その場をつくろったんですが、あとになって、彼女のことばを思い出すと、悔しくてたまりません。


こんな調子で彼女はいつも、わたしの話に「ああ言えば、こう言う」で否定してきます。


これからも友だちでいたいのですが、ずっとこんな関係なのも嫌で悩んでいます。

 

 





カウンセラーの回答:

 



あなたの場合、相手のことばは、あまりアテにならないと考えてください。彼女のことばには実際、そんなに深い意味はありません。対立している場合はなおさらです。


彼女は、あなたに反対したり、あなたを否定したりすることで、あなたより優位に立とうとしています。「勝ち負け」を争う人であればあるほど、負けたくないと思ってくるでしょう。「勝つ」を得るために、あらゆることばを駆使して「勝つ」を目指します。


しかも多くの場合、このタイプの人が「戦っている」相手の人に向けていうことばは、実は「自分のこと」を言っているのです。


この例でいえば、「お世辞に弱い」のは、あなたのことではなくて、彼女自身が気にしていることである可能性が高いのです。つまり、彼女自身が「わたし、お世辞に弱くて…」と告白しているようなものである可能性が高い。


だからあなたが、彼女のことばに振り回されて、彼女に「わたしのことを理解してもらおう、認めてもらおう」としても、疲れるだけです。


それよりも、「相手の意見は、相手の意見」という見方をしましょう。そのまえに、「わたしがどんな考え方をしようが、どんな感じ方、どんな意見を持っていようが、それはわたしの自由だ」とつぶやいてみてください。「わたしの意見や感想はわたしの自由。だから相手の意見や感想も、相手の自由」なのです。


このように「お互いの自由」を認めると、相手に対しての見方も変わってきます。相手のことばを気にするよりも、脳の回路が、「わたしはこう思う。わたしはこうしたい。わたしはこうする」となってきます。


そんな、「わたしを認める、だから相手をも認める」意識が育ってくると、こんな言いかたに変わってくるでしょう。
「あなたが心配になるのはわかるし、心配してくれることにはうれしい。でもわたしはもう決めたから」。
「わたしは、いろいろ試してみたいの。でも、あなたの好意には感謝します」。
「いろいろ不満はあると思う。でも、まだじっくりと考えて、自分で決めたいんだ」。


先の例ではこういう言いかたになるでしょう。

「そうかあ。あなたはそう思うんだ。もしかしたらあなたの言うとおり、かもね。あなたのことばは頭のスミに置いとくね。
 でもわたしは、いまのところ、これがとても気に入ってるんだ。もうあのとき、買うつもりでいたから、お店の人にも『似あう』って言われてうれしかった。いまも買ってよかったと思ってる。使い勝手もいいし、すっごく満足してるよ」。

 

 




こんなふうに、わたしたちの想い=マインドのなかには、相手を思う気持ち、相手に同意する気持ち、感謝する気持ちや反発する気持ちもあります。もちろん、自分のなかにも、もろもろの思いや矛盾する思いが内在しています。


だからこそ、できるだけ、そんなもろもろの思いを、ことばにして意識し、ことばにして表現したほうが、あなた自身がスッキリして、心が解放されるでしょう。と同時に、そんな「自分表現」のほうが、相手の心にもずしんと届くのです。

 

 

 

「もっとあなたが話したくなる話し方」/ 石原加受子・著 より


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インターネットでは特にそうだけど、エホバの証人のつきあいでは、けっこう、「勝ち負け」の次元で接してくる人が多かったように、今ふりかえってみて思う。

特に長老といった人たちは、自分の影響力を顕示したいのか、個人的なことにも口を出してくる人がいた。髪のスタイルとか、服装とか、アクセサリーとかに、ね。



そんなときには、不承々々、相手のよけいなお世話を不満に思いながらも言うとおりに従う、よりも、上記転載文のように、「自分表現」術で、はっきり自分の気持ちや意図、決意を述べるほうがメンタルヘルスに絶対いいと思います。どんなふうにいいかというと、自分に自信が持てるようになります。

たとえば長老なら、「そんな髪型、服装ではつまづく人がでてくるかもしれませんねえ」とTVドラマの「相棒」のキャラである杉下右京みたいな話しかたでかかってくるかもしれませんが、そんなときには、「そうでしょうか。兄弟が心配することも可能性があるかもしれませんね。でも、わたしはこれが気に入ってますし、このスタイルだからってエホバに対して不敬を示しているつもりもありません。もし、つまづくという方がいらっしゃっているんなら、それは他人を自分の思いどおりにコントロールしようとしていらっしゃるからじゃありませんか。でも信仰は自分と神との個人的な問題ですから、他人がどうこうよりも、ご自分が納得のゆくようになさったらよいと思います。わたしは、これでしばらくやってみたいとおもいます」と言える。

こういうことって重要ですよね。自分を大切にしてゆく過程で、やがてエホバの証人という宗教が、神を崇める宗教じゃなく人間を支配したい人の集団であることに気づき、離れる決意を持てるようになるかもしれません。宗教に従うかどうかは個人的な決定の問題ですから、自分を大切にし、自分の気持ちをはっきり主張する習慣ができていれば、まわりの信者たちからどう思われるか、というしがらみに引きずられることもなくなるだろうから。

実際、信仰っていうのはそういう個人的なもので、プライベートを長老がいじくってはいけないはずですから。

 


いま現在を生きるということ

2011年04月24日 | Weblog

 
 

 

 


たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきは、なんぴとも現在生きている人生の時間以外のなにものをも失うことはないということ、またなんぴともいま失おうとしている人生の時間以外のなにものをも生きることはない、ということである。

したがって、もっとも長い一生も、もっとも短い一生も同じことになる。なぜなら現在は万人にとって同じものであり、したがって我々の失うものも同じである。ゆえに失われる「時」は瞬時にすぎぬように見える。

なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして失うことがありえようか。

であるから、次の二つのことをおぼえていなくてはならない。

第一に、万物は永遠の昔からおなじ形をなし、同じ周期を反復している、したがって、これを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたってみていようと、何の違いもないということ。

第二に、もっとも長命の者も、もっとも早死にする者も、失うものは同じであるということ。なぜなら、人が失いうるものは現在だけなのである。というのは人が持っているのはこれ(=現在)のみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないのである。(第2巻14節)

 

 


「自省録」/ マルクス・アウレーリウス


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泣いても叫んでも、流されてしまった過去の暮らしは、もう二度ともとにはもどらない。それは流され、破壊されたのだ。もう個人の、家族の「所有」ではなくなってしまったのだ。失われたものは、つまり所有できなくなったものだ。


わたしも阪神大震災をすみっこで経験したが、その経験から言えることがひとつある。


失われたものはもとには戻らない。それは失われたのだ。わたしたちにできることは、「もとどおり」にすることではない、それは不可能なのだ、とくに家族の成員すら失われたのであれば。


わたしたちにできることは、新しく創ってゆくことだけだ。新しい生活を創ってゆくことだけなのだ。創る、というのは「はじめる」とも読むことができる。クリエイトする、というのは「新しく作りはじめる」ということだ。もちろん、そのためには政府に要求するべきことは政府に要求してゆかなければならない。被災者の痛みに鈍感な官僚と交渉するということは、それ自体、心の傷をえぐられる思いを経験することだろう。だがそれは行ってゆかなければならない。


被災者たち、勇気を出せるものはいるか。その者は、泣くだけ泣いたら、悲しむだけ悲しんだら、立ち上がれ。以前と同じ村の同志で暮らすことはもう不可能だと理解せよ。それは流されたのだ。もとと同じものを取り戻すことはできない。あなたたちにできることは、新しく創ってゆくことだけなのだ。新しい生活を創ってゆくことだけしかわれわれ人間にはできないのだ。そして場合によっては、それは思いやりを育まなかった人間たちとの闘いを意味することもある。それでも、生きよう、とわたしは言います。どんなに屈辱にまみれても、どんなに仲間はずれの仕打ちを受けても。生きよう、ただ、生きること、それが人間として生まれてきたわたしたちの仕事なのだ。

 

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人は子どもの身を守ることばかりを考えているが、それでは十分ではない。大人になったとき、自分の身を守ることを、運命の打撃に耐え、富も貧困も意に介せず、必要とあればアイスランドの氷の中でも、マルタ島のやけつく岩の上でも生活することを学ばせなければならない。


あなたがたは子どもが死ぬことがないようにと用心するが、それはムダだ。そんなことをしても子どもはいずれ死ぬことになる。そして、たとえその死があなたがたの用心の結果ではないにしても、そういう用心をするのはまずいやりかただ。


死を防ぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。わたしたちの器官、感覚、能力を、わたしたちに存在感を与える身体のあらゆる部分を用いることだ。もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ。

百歳で葬られる人が、生まれてすぐ死んだのと(実質は)同じ、というようなこともある。そんな人は、若いうちに墓場に行ったとしても人生の内容は同じなのだ。

 

 


「エミール」/ ジャン=ジャック・ルソー・著


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死なないようにすること、困難に遭わないようにすること、失敗しないようにすること、が目的なら、家にこもって何もしなければいいし、宗教組織にこもって、定式化された生活様式を、点線をたどって美しい字を書くときのように、機械的に繰り返していればいい。


だがそれを「生きている」ということができるか。ルソーの言うとおり、「生きること、それは呼吸することではない、活動することだ」。失敗を重ね、自分の望むことを達成することなのだ。


わたしたち日本人は、高い地位の、見かけの安定に就くよう育てられてきた。だが「生きる」ように育てられたと言えないだろう、ルソーの前提に立てば。災害がもたらした逆境、困難では、高い地位を象徴する椅子は海の水に流された。いまを生き抜く人は、「~であるよう」育てられた人間ではない、そういう人間は別の「~である」ありようでは生きていけない。ルソーの文章によれば、貴族であるよう育てられた人間は、革命によってその身分が奪われたとき、別の身分では生きていくことができないだろう、ということだ。


わたしたちはどうか。雇用が不安定で、削減されつつあるこの逆境では生きてゆくことができないだろう、エホバの証人のようなカルト宗教のなかの、高い地位に座って、「下」の信者どもの無料労働に依存して生きてきたおまえたちは。


被災した方がたも、実は同じなのだ。いまこそ「アイスランドの氷の中でも、マルタ島の灼熱の岩の上でも」生きてゆくことが求められている。そういう訓練を受けてこなかったわたしたちは、いま、それを学ばなければならない。何をすればいいのだろう、それを学ぶということは。まず、序列意識を棄てることだ。「あなたとわたし、どっちが上?」という協議をしないことだ、つまり「あなたは何歳?」とまず最初に訊ねたりはしないことだ。


こういう逆境では、身近にいるちがう町村の気心の知れない人たちと連帯する必要がでてくる。同志として人間を捉えることからはじめよう。でなければ連帯はできないのだ。連帯ができなければ、これから新しく人生と生活を創ってゆくことはできないのだ、つまり生きるということができなくなるのだ。

 

 

 


以下は、毎日新聞一面のコラム「余録」からの転載。


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阪神大震災で被災者のケアにあたった精神科医は、地震の40~50日後に人々の間のある変化に気づく。ふだんより元気になった人と、ひきこもってしまう人の違いが目につく。その差がまるで開いたはさみの刃のように広がっていくのだ。


① 柔軟に新発想を出す人と考えられないほど頑固になる人、
② 酒を飲まなくなった人とアルコールにのめり込む人、
③ 仲がよくなった夫婦とヒビの入った夫婦
 --最初のわずかな差が日を追ってどんどん開いていく。医師はそれを経済用語を借りて「鋏状較差(きょうじょうかくさ)」と呼んだ。


貧富の差もはさみ状の広がりを見せる。経済力や社会的人脈、地縁をもつ人々と孤立した人々の境遇の違いが拡大した。人々の生死を分けた震災は、その後も人々の幸不幸を切り分けた(中井久夫編著「昨日のごとく」)。


当時よりも長引く避難所生活のストレスだ。そして大津波から40日以上を経た今も行方の知れぬ子や親、兄弟を捜し続ける人々がいる。悲しみが癒えるどころか、積もり重なるこの震災である。復興に向かう周囲のムードと、取り残されるような孤立感に苦しむ人々の落差の広がりも未曽有の様相を見せている。


長い「被災」を生きる人を孤立させないさまざまな取り組みが必要な今後の復興だ。国が仮設住宅に配置する高齢者や障害者の介護の拠点もその一つだろう。自治体の判断で生活相談やボランティアの拠点にも使えるこうしたスペースをより有効に活用できればいい。


震災との闘いで一つになった人々の心も、復興へそれぞれの挑戦を始めていく今だ。「較差」のはさみが人同士のいたわり合いまで断ち切るのは防ぎたい。

 

 

毎日新聞 2011年4月22日 東京朝刊

 



新聞記事のスクラップ: ボランティアでは被災者にどう接すればいい?

2011年04月14日 | Weblog





■Ques. ボランティアでは被災者にどう接すればいい?
  Ans.  個々の思いに耳を傾けて

 

 1995年1月の阪神大震災被災者や2005年4月のJR福知山線脱線事故、交通犯罪の遺族らの心のケアを続けるカウンセラー、吉備素子さん(68)に聞きました。

 




 被災地に入って最初のうちは、どんな物資が要るかなど生活面で何ができるか尋ねるといいでしょう。



 「つらいでしょう」という言葉を先にかけてしまうと、被災者の気持ちを逆なでしてしまったり、「被災者らしくしなければいけない。笑ってもいけない」と誤解させてしまう恐れがあります。そうすると被災者を傷つけてしまいます。思い込みを押し付けないように気をつけましょう。




 気持ちを打ち明けられるまでそばで待っていてください。

 その時に、相手が落ち込んでいるようなら一緒に落ち込み
 怒っていれば一緒に怒ってください。
そうすると、被災者に「あなたは一人でない」と伝わります。




 避難所では、家族ごとの生活空間を段ボール箱などで区切るなどすれば、少しでもプライバシーが守れます。そうすると気持ちの負担も軽減されます。



 ボランティアにも厳しい現場だと思います。自分がしんどいと余計なことを言ってしまいがちです。気持ちや体力にゆとりがない時は、しっかり休んでください。【林田七恵】

 

 


毎日新聞 2011年4月14日 東京朝刊

 


悲しむ人を思いやるスキル

2011年04月07日 | Weblog

 

 


わたしがこれまで見てきた限り、日本人は個人の気持ちというのを大切にしません。制度・体制・因習・習慣・しきたり、あるいは建て前…と呼ばれてきたものを優先して立てようとします。それは、ルース・ベネディクトが「菊と刀」で指摘したとおり、「あるべき所」が重要な日本人の特性が関係してきたのでしょう。


わたしたちの伝統では、個人の資質や能力を発揮することはむしろ嫌われます。品がないとか傲慢だとか、厚かましいとか。これは、年齢序列や家父長支配制度によって権威づけられている「立場」「地位」は、個人の能力によって選ばれるのではなかったからなのでしょう。「菊と刀」の感想文はまた近いうちに「Life is Beautiful 」のほうで書いてみたいと思います。


日本人は、「体制」や「体裁」を大事にして、年齢や性別で自動的に「長」に任じられた、実際にはなんにも実践的な訓練のできていない人びとの、問題対処能力の欠如という無能力を隠すために、個人の気持ちというのを、「甘えるな、みんなは耐え忍んでいる」に類するせりふで一蹴します。


だから子どもたちは親を信頼できず、自分の本当の気持ちを否定されてきたために、自己評価が成長せず、自分がつまらない者であると自覚する一方、他者も自分と同様大切じゃない、という感覚を抱くようになってしまいます。自己評価の低い人間は自分の命の値段が安く値切られてきたと感じています。だから怒りとねたみのために、自分と同様の無名な他者の、命や尊厳にも価値を値引きするのです。有名な人なら逆にこびへつらいます。


こんなイヤな人間性は改善したいですよね。だったら、思いやりをどのように示したらいいか、そのスキルを学ぶようにしてください。こちらから先に敬意と思いやりを与えてゆけば、きっと心ある人に当たり、その人から敬意と思いやりを受け取ることができるようになるでしょう。そのとき、わたしたちは、自分が認められた、という妙なる喜びを獲得し、その積み重ねが高い自己評価を形成してゆくのです。高い自己評価とはつまり、内心の自信が形成されるということです。


では、悲しんでいる人にどう接したらいいか、この記事を参考にしてください。まちがっても、「前向きに生きろ」だの、「自分は前向きに生きるようにしているのに」だのと説教して、相手を否定してはならないのです。むしろ、悲しむべきときには悲しみ、へこたれ、うなだれるべきなのです。悲しみの感情を表現し、それに承認が与えられる=共感を受けるときに、徐々に徐々に気持ちが癒されてゆくのです。



心が癒される、とは、愛する人を失ったことと、愛する人との生活はもう二度と返らないという現実を受け入れることができるようになるということ、その冷厳な現実を受け入れることに、自分で納得すること、です。そしてそうなるには、「前向きになれ」、「ポジティブになれ」と説教するのは何の役にも立たないばかりか、逆効果でさえあるということです。それはむしろ、思いやりのある他者から、悲しみ、苦しみに共感されることによってのみ、達成される、ということですね。これが人間の精神のしくみなのです。

 


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■東日本大震災 Q&A 家族を失った人にどう接したらいいですか?
 

 

Ques. 家族を失った人にどう接したらいいですか?

Ans.  言葉は不要、そっと寄り添って
 

 


 日航機墜落事故(85年)の遺族でカウンセラーの吉備素子さん(68)と、阪神大震災(95年)の被災者で、避難所で心のケアにあたった高木慶子(よしこ)・上智大グリーフケア研究所長(74)に聞きました。

 

 気持ちを尋ねるより、
 「寒いけど眠れていますか?」
 「ご飯は食べられましたか?」
…など生活上の困り事について尋ねる方が、遺族には答えやすいです。

 

 避難所で食料を一緒に受け取り、
 暖かい場所へ誘導するのも助けになります。心痛を体の冷えや痛みとして感じることもあるからです。

 

 手をつないだり肩に触れたりしてぬくもりを伝えるのも大事です。

 

 

 「家族が被災した場所に行きたい」と頼まれた場合、悲しみが募るのではと心配になるかもしれません。しかし、近くまで同伴するなど安全な範囲で対応することが、不安や悲しみを和らげることにつながります。

 

 大事なのは、遺族一人で行かせないこと。家族を失った悲しみが身に染みるのはこれから。その時一緒にいてあげるのが大切です。

 

 

 家族が行方不明の子どもへの説明も難しいです。
 子どもは大人の不安や恐怖に敏感。助かった可能性が低い時は、それを隠すよりも「天国に行ったんだよ」と伝えたほうがいいと思います。この時も、抱きしめてあげて、一人でないと伝えることが大事です。【林田七恵】
 
 
 

 

 


毎日新聞 2011年3月30日 東京朝刊

 


3.11の災厄を銘記する~「日本沈没」より

2011年03月13日 | Weblog

 

 

 

 

われわれの直面する未来には、過去の歴史の延長からある程度類推できる部分もかなりある。

 しかし、未来の歴史の中には、単なる過去の歴史の延長によっては、

 決して類推できない未知の、暗黒の部分もあるのだ。

 過去において、そんなことが一度も起らなかったからといって、

 それが未来にも決して起こらないとは、誰が言いえよう!

 

 

 

 まして、わずか数万年の現生人類の中で、

 われわれがどれほどの”過去”を体験してきたというのか?

 わずか2世紀足らずの近代科学の探求の中で、

 われわれがどれほど〝人類以前の過去〟の歴史について知りえたか?

 

 

 

地球史を区切るといわれるいくつもの大造山運動についても、

 われわれ哺乳類の時代の新生代中新世

 ~つい2500万年前に起こったグリーンタフ造山運動についてすら、

 われわれは、その地下に残る痕跡から、その変動の激しさをおぼろげに描き出すことができるのみであり、

 その最もはげしい時期に、どんなことが起こったか、直接体験したわけではない。

 〝過去の地殻大変動〟といっても、われわれは変動の死骸を見るのみで、

 それが生きて、雄たけびをあげ、この地上を荒れ狂っていた様子を知っているわけではないのだ。

 

 

 

現代の災厄においてすらそうではないか?

 地震による大被害、台風洪水による被害についても、

 それが起こってしまってから、はじめてわれわれは災厄のすさまじさを知らされる。

 

このとおりなのだ、諸君。

 

 

 

 

 

「日本沈没」/ 小松左京・作

 

 

 

 

 

 

 


数歩退いて、やがて盛りかえす姿勢

2010年09月01日 | Weblog





わたしの教え子のうちの4名が奈良にハンセン病回復者の家を建てた。学生がわたし自身より優れていると感じることはしばしばだ。この学生たちは40年余り、わたしをひっぱった。


柴地則之は、古神道の教団から土地を借りて、家を建てるワーク・キャンプの工事を起こした。


近所から反対が出て、工事の現場を囲まれた。すると(彼は)、「皆さんの同意を得なければ、この宿舎の建設はしません」と言って、途中まで積んであったブロックを、みんなの目の前でくずした。

あきらめたわけではなく、夏休みごとに男女数人でつれだって、反対派の家々に、ハンセン病は新薬プロミンで完治するようになったので、この人びとから伝染することはない、という西占貢(にしうらみつぐ;京大医学部教授)の証明を見せて、説得を続けた。

(やがて)もはや反対がなくなったと見えて、彼らは一挙に家を建てた。


このように、数歩退いて、やがて盛りかえす姿勢がこの学生たちにはあった。




那須正尚は、ハンセン病療養所にいる全盲の藤本としの聞き書きをつくった。この記録(『地面の底が抜けたんです』思想の科学社、1974年)は30年を経て、当時の学生だった木村聖哉が、落語研究家、麻生芳伸の助力を得て、記録をもとにした結純子のひとり芝居にした。今もさまざまな土地でこの上演を続けている。


ハンセン病が治るようになってからも、患者が故郷に受け入れられない年月が続く今、この興行は、日本の現代と取り組む前衛の運動である。






(「思い出袋」/ 鶴見俊介・著)