(2007年9月29日朝刊)
体験を記憶のふちに沈め
座間味島出身の宮城恒彦さん(73)は毎年一冊ずつ、慰霊の日にあわせて沖縄戦体験をつづった小冊子を発行している。一九八九年に第一号を出版して以来、一度も欠かしたことがない。
八八年に母ウタさんが九十一歳で亡くなったことがきっかけだった。
「母は娘のことを生涯悔やんで嘆いてましたから。なんか書き残さなくてはと思ったんです」
座間味島の内川の壕で起きた「集団自決(強制集団死)」は一発の手りゅう弾から始まっている。二十人前後の住民が身を潜めていたらしい。
宮城さん一家はウタさんと恒彦さんら子ども五人の計六人が行動をともにしていた。当時十九歳の姉は腹部をざっくりえぐり取られた。
手りゅう弾で死ねなかった人たちが何人もいた。学校の校長はカミソリで妻を手にかけ、この後自分の首の動脈を一振りした。妻はかろうじて生き残ったが、夫はその場で息絶えた。
瀕死の重症を負い、もだえ苦しむ娘を壕の中に置き去りにして死なせたことが戦後、ウタさんを苦しめる。
「集団自決」は、渡嘉敷・座間味・慶留間などの慶良間諸島だけでなく、伊江村、読谷村、糸満市など県内各地で発生している。
生き残った者はせい惨な体験を記憶のふちに沈め、戦後、悲しみに耐えて生きてきた。だが、内面の傷は癒えることがない。座間味島生まれの女性史研究家宮城晴美さんが祖父母の体験をつづっている。
ある日、学校からの帰り祖父母の家に寄った。家の裏庭にあるヤギ小屋で不気味な鳴き声がするので物陰からのぞいたら、祖父がヤギを宙づりにしてほふっていた。
祖母は晴美さんに向かって、祖父に聞こえるような声で「この人は首切り専門だから」と、いてつくような言葉を投げたという。
米軍上陸後、祖父は妻と子どもたちの首をカミソリで切って「自決」を試みた。息子が即死し、祖母ものどに深い傷を負った。
祖父は祖母に何を言われても反論せず、時々、夜のとばりが下りるころ、サンシンを持ち出して護岸で静かに民謡を歌っていたという(『母の遺したもの』)。
住民保護の視点を欠く
「集団自決」はなぜ起きたのか。
私たちはこの問いが、今を生きるウチナーンチュに突きつけられた逃れられない問いだと思っている。
過去に向き合い、歴史体験から学ぶ姿勢がなければ、現在の風向きを知ることはできない。
沖縄戦で多発した「集団自決」は基本的に旧日本軍の強制と誘導によって起こったもので、県議会の意見書が指摘するように「日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実」である。
米軍が上陸したとき、住民をどう保護すべきか。残念ながら旧軍は住民保護の視点を欠いた軍隊だった。
本土決戦の時間稼ぎと位置づけられていた沖縄戦で重視されたのは、人と食糧を現地調達し軍官民共生共死の態勢を築くことだった。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という軍人勅諭。投降や降伏を否定する軍の論理は住民に対しても求められ、指導層に浸透していった。
米軍上陸後の住民対策は、司令官訓示や軍会報、「上陸防御教令(案)」、「島嶼守備隊戦闘教令(案)」、「国土決戦令」などに示されている。
防諜に厳に注意すべし。沖縄語をもって談話しあるものは間諜として処分す。不逞の分子に対しては断固たる処置を講ぜよ。
渡嘉敷島や座間味島は、特攻艇を秘匿した秘密基地だった。秘密保持が優先され一部住民には玉砕を想定してあらかじめ手りゅう弾が手渡されていた。そのような状況の中で米軍に包囲され、猛攻撃を受けたのである。
揺らぐ教科書への信頼
日本軍の関与を示す記述を削除した文部科学省の教科書検定は、歴史的事実の核心部分を故意に無視したものと言わざるを得ない。
文部科学省の教科書調査官が示した検定意見の原案に対し、審議会は、実質的な審議も具体的な議論もしないまま通してしまったという。
調査官は、係争中の訴訟の一方の当事者の意見だけを取り入れて教科書に反映させようとしたことも明らかになっている。教科書への信頼さえ揺らぎかねないずさんな検定である。
「見たくないものは見えない」という言葉がある。見たくないものを見ようとする意思がなければ、沖縄の民意を理解することはできない。
沖縄タイムス
体験を記憶のふちに沈め
座間味島出身の宮城恒彦さん(73)は毎年一冊ずつ、慰霊の日にあわせて沖縄戦体験をつづった小冊子を発行している。一九八九年に第一号を出版して以来、一度も欠かしたことがない。
八八年に母ウタさんが九十一歳で亡くなったことがきっかけだった。
「母は娘のことを生涯悔やんで嘆いてましたから。なんか書き残さなくてはと思ったんです」
座間味島の内川の壕で起きた「集団自決(強制集団死)」は一発の手りゅう弾から始まっている。二十人前後の住民が身を潜めていたらしい。
宮城さん一家はウタさんと恒彦さんら子ども五人の計六人が行動をともにしていた。当時十九歳の姉は腹部をざっくりえぐり取られた。
手りゅう弾で死ねなかった人たちが何人もいた。学校の校長はカミソリで妻を手にかけ、この後自分の首の動脈を一振りした。妻はかろうじて生き残ったが、夫はその場で息絶えた。
瀕死の重症を負い、もだえ苦しむ娘を壕の中に置き去りにして死なせたことが戦後、ウタさんを苦しめる。
「集団自決」は、渡嘉敷・座間味・慶留間などの慶良間諸島だけでなく、伊江村、読谷村、糸満市など県内各地で発生している。
生き残った者はせい惨な体験を記憶のふちに沈め、戦後、悲しみに耐えて生きてきた。だが、内面の傷は癒えることがない。座間味島生まれの女性史研究家宮城晴美さんが祖父母の体験をつづっている。
ある日、学校からの帰り祖父母の家に寄った。家の裏庭にあるヤギ小屋で不気味な鳴き声がするので物陰からのぞいたら、祖父がヤギを宙づりにしてほふっていた。
祖母は晴美さんに向かって、祖父に聞こえるような声で「この人は首切り専門だから」と、いてつくような言葉を投げたという。
米軍上陸後、祖父は妻と子どもたちの首をカミソリで切って「自決」を試みた。息子が即死し、祖母ものどに深い傷を負った。
祖父は祖母に何を言われても反論せず、時々、夜のとばりが下りるころ、サンシンを持ち出して護岸で静かに民謡を歌っていたという(『母の遺したもの』)。
住民保護の視点を欠く
「集団自決」はなぜ起きたのか。
私たちはこの問いが、今を生きるウチナーンチュに突きつけられた逃れられない問いだと思っている。
過去に向き合い、歴史体験から学ぶ姿勢がなければ、現在の風向きを知ることはできない。
沖縄戦で多発した「集団自決」は基本的に旧日本軍の強制と誘導によって起こったもので、県議会の意見書が指摘するように「日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実」である。
米軍が上陸したとき、住民をどう保護すべきか。残念ながら旧軍は住民保護の視点を欠いた軍隊だった。
本土決戦の時間稼ぎと位置づけられていた沖縄戦で重視されたのは、人と食糧を現地調達し軍官民共生共死の態勢を築くことだった。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という軍人勅諭。投降や降伏を否定する軍の論理は住民に対しても求められ、指導層に浸透していった。
米軍上陸後の住民対策は、司令官訓示や軍会報、「上陸防御教令(案)」、「島嶼守備隊戦闘教令(案)」、「国土決戦令」などに示されている。
防諜に厳に注意すべし。沖縄語をもって談話しあるものは間諜として処分す。不逞の分子に対しては断固たる処置を講ぜよ。
渡嘉敷島や座間味島は、特攻艇を秘匿した秘密基地だった。秘密保持が優先され一部住民には玉砕を想定してあらかじめ手りゅう弾が手渡されていた。そのような状況の中で米軍に包囲され、猛攻撃を受けたのである。
揺らぐ教科書への信頼
日本軍の関与を示す記述を削除した文部科学省の教科書検定は、歴史的事実の核心部分を故意に無視したものと言わざるを得ない。
文部科学省の教科書調査官が示した検定意見の原案に対し、審議会は、実質的な審議も具体的な議論もしないまま通してしまったという。
調査官は、係争中の訴訟の一方の当事者の意見だけを取り入れて教科書に反映させようとしたことも明らかになっている。教科書への信頼さえ揺らぎかねないずさんな検定である。
「見たくないものは見えない」という言葉がある。見たくないものを見ようとする意思がなければ、沖縄の民意を理解することはできない。
沖縄タイムス
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