もし、あなたが「裁判員」に選任されたら・・・
7月11日(火曜日)、特別日課のため担当授業がなかった。teacherは、7月から9月の3ヶ月間に3日間だけ取得できる特別休暇制度を利用して、裁判所の市民講座「裁判員体験」に出かけた。2009年5月には施行されようとしている「裁判員」制度。殺人、傷害致死などの重大犯罪について、職業裁判官以外の一般市民を裁判に立ち合わせて、裁判官と合議の上、有罪か無罪の評議をし、被告人の量刑を決める制度である。この制度の市民啓発という点から裁判所が開いている市民講座に応募したところ、幸運にも抽選で当たったのだ。
teacherも、模擬裁判をみた後に裁判員として評議するという体験をしたのだが、この制度がかなり問題を抱えた制度であって、もしかしたら公正な裁判を阻害する恐れもあることに気付き、いま慄然とした思いを拭えないでいる。
もし、裁判員に選任されたらどうしますか??そもそも、人が人を裁けるほど、人は全能で謙虚なのですか??
1つの社会制度に対する不安と、「裁く」という行為(しかも人為的な裁き)に対する宗教的問いを同時に感じないわけにはいかない。
模擬裁判は、被告人が殺人未遂で起訴されているという筋書きだったが、この「裁判員」制度は、殺人事件も扱う。刑法が定める殺人の最高刑は、死刑である。国家権力によって、人の命を奪うという行為であり、これも行為の態様は、「殺人」に他ならない。そうした重大事件に、職業裁判官だけではなく一般市民もその審理に加えていこうという裁判の公開性、市民性が保障されることは少なくとも好ましいことだ。
ただし、この制度の一番の問題点は、評議は、多数決によって決するということだ。死刑が適用されるかもしれない事例に、多数決などという「妥協」が入り込むことが許されるのであろうか。
多数決は、言うまでもなく、民主主義社会の意思決定手段の一つである。しかし、過去あまた事例をみてわかるとおり、人は誤りを犯す動物であり、多くの無実なる市民が、誤った裁判で人生を奪われ、命を奪われていったのだ。死刑適用までもが法律に用意されている重大な犯罪が、「多数決」という手段で裁かれるというのは、人間の究極のエゴイズムである。
実際の裁判は、3名の裁判官と6名の裁判員で評議するが、5対4で有罪死刑となる場合もあるのだ。そんなことができるほど、裁判官と裁判員は全知全能なのだろうか。全知全能なのは神だけである。
職業裁判官だけなら誤りを犯すからという背景から生まれた制度であることは認めても、多数決でひと一人の行く末が決まり、もしかしたら、「国家による合法的殺人」すなわち死刑に手を染めることになるかもしれないのだ。ただでさえ、重大事件については、マスメディアによる感情的報道が先行する時代にあって、一般市民に公正な裁判を委ねることは難しいし、今回のW杯でわかったように、日本人は「大本営発表」が好きな民族である。そもそも事件への先入観を持たない裁判員を選任することさえ困難なのではないか。無辜の人が壁の向こうに消えていくような事例が発生しないことを祈るばかりである。日本人には、英米で行われている陪審員制度を採れる市民性は育っていない。(陪審員制度は戦前日本にもあったのだが)teacherは、この制度の施行をたいへん危惧している。
<写真:札幌地裁・札幌高裁庁舎>
旧約聖書は、「殺人者」について、いくつかの定義をしています。また、殺人者を殺してもよいとさえ書く箇所もあります。(民数記35章を参照)しかし、teacherは社会制度としての「死刑」には断固反対です。それは国家権力による「殺人」に他ならないからです。
なんだか堅いカタイ話になってしまった・・・今夜も巨人負け!!どうなっているんだろう??言葉がない。
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明日は、この夏いちばんの暑さだとか??teacherは、明日で実質、夏休み前の授業は終わり。あとは、27日に参観日授業が1つあるだけ。学校祭準備で長い期間、<teacher>ではなくなり、単なる<準備屋さん>みたいな生活。