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大井川の風

春夏秋冬、四季それぞれの風をお届けします。
富士山静岡空港をはじめ大井川流域のさまざまな
情報を掲載しています。

風の郷と海軍金谷送信所 8月15日

2011-08-20 23:00:00 | 郷土研究
本日は8月15日に掲載予定だった記事をアップします。

毎年この頃には、大井川周辺における戦争関連の記事をお届けしていますが、今年はこの場所…仮称「風の郷」からです。>>>場所こちら
「風の郷」とは、空港ティーガーデンシティー構想に基づき設定された"富士山静岡空港をめぐる4つの道"のうち、島田市と牧之原市に点在する「風の道」の中のポイントです。


私の世代だと旧金谷中学校跡の方がわかりやすいでしょうか。今の金谷中学校に統合移転する直前に、このグラウンドで試合をしたことを覚えています。


戦中、この場所は海軍の金谷送信所が置かれていました。どのような施設だったのかは詳しいことはわかりません。近くに高射砲陣地もあったとのことです。(写真下中央=1946年米軍撮影=国土地理院国土変遷アーカイブ=8/21は午後にメンテナンスがあり、リンクできない場合があります。)
その後新しい教育制度のもとで金谷中学校になるのですが、払い下げにあたっては当時の金谷町の方々が、資金の裏付けに必要な郵便貯金をするなど、様々な苦労があったと聞いています。
夏草に囲まれているのは昭和20年代に卒業された方の記念園と刻まれた石碑。何か花壇や植物園があったのでしょうか。


金谷中学校が、当時同じ町にあった五和中学校と統合されて、この場所から離れたのは1977年。その後最近までこの場所は農林水産省の管轄を経て独立行政法人種苗センター金谷農場となりましたが、その種苗センターも岡山県にある西日本センターに統合され、今は島田市の管理になっています。


そして、今度は「風の郷」に生まれ変わろうとしていますが、そんな昔があったことを残しておくことも大切ではないかと思いました。


写真を写したのは、ちょうどスタンプラリーの最中でした。(先着順に商品がもらえるパーフェクト賞コースは終了しています。抽選コースは応募可能のようですので、空港公式サイトをご確認下さい。)

坂本龍馬を斬った男 今井信郎屋敷跡

2010-12-04 23:45:00 | 郷土研究
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」がついに終了。クライマックスとなる最終回では、諸説ある近江屋事件について「京都見廻組 今井信郎説」を採っていましたね。

さて、今井信郎の名が刻まれているこの石碑。こちらは静岡空港に近い島田市初倉地区にある今井信郎屋敷跡にひっそりと建っています。場所>>>こちら


屋敷跡に行く途中にある案内板。屋敷跡に車で乗り入れることはちょっと難しいと思いますので、徒歩で向かいます。色尾交差点からは15分ほど歩くと屋敷跡に着きます。


今井信郎と島田市初倉地区との関係は、上とさらにその上の2つの写真の経歴からご理解いただけると思います。放免後は教育や産業振興に尽力し、この地に住んでからは旧幕臣とともに牧之原開拓を行い、最後には榛原郡初倉村長も勤めました。


現在は石垣しか残っていませんが、周囲に経歴を刻んだ石碑や句碑が並んでいます。


三方を山に囲まれた静かな谷あいに今井邸はありました。一説によれば刺客の目を逃れるためとのことだそうです。

海軍技術研究所 島田実験所 8月15日

2010-08-15 21:30:00 | 郷土研究
昨年一昨年のこの時期はに65年以上の月日を経て今も残る戦争の遺構をご紹介しましたが、今回は遺構がないためストーリーを採り上げます。

さて、タイトルにある海軍技術研究所島田実験所ですが「第二海軍技術廠」としている資料もあります。いずれにしても戦前戦中に日本の理系エリートたちを集めて、航空機や電波を用いた波動兵器の研究開発を行っていた組織です。

特に島田実験所は、マグネトロンを使って強力なマイクロ波を発生させ、敵機に照射して電気系統をマヒさせてエンジンを停止させる電波兵器の研究(いわゆるZ研究)が行われていました。高出力のマイクロ波を出す実験では大量の電力を消費するため、電源開発が進んだ大井川流域にこの実験所が設置されたのです。

島田実験所は、当時別の研究を行っていた東海紙料・東海事業(現在の東海パルプ島田工場)内にあった大倉鉱業実験所が使われました。そして市内には日本有数の科学者が分泊し、3,000人もの人が働いていたとも言われてています。中には後にノーベル賞を受賞する朝永博士もいました。

ちょうどこちらの米軍が撮影した写真の左端中央、東海道線がカーブを始める上(北側)辺り、斜めになった正方形の建物があるあたりの広大な敷地が、島田実験所(撮影時は跡)です。・・・大きく見たい方は200dpiのボタンを押してください・・・


戦況が厳しくなる中で行われていた実験も、実際にマイクロ波を遠い場所に向かって放出すると空中で分散してしまって、期待された成果が得られませんでした。その中で日本本土が空襲にさらされるようになると、実験所を金谷地区の牛尾山(中央にある工事中の新東名が貫いている丘)に地下壕を堀り移転させる工事が行われました。

島田にも艦載機の襲撃やパンプキン爆弾の投下が行われた昭和20年夏に終戦。その後実験所があった場所は、市立島田一中に生まれ変わります。そして昭和30年代に島田一中が今の場所に移転し、もとの東海パルプの工場敷地に戻りました。
またたくさんの研究員は大学や企業に戻る中で、地元に残り会社を創設して高周波機器の開発を行う人たちもいました。残念ながらこの会社は昨年創業の地を離れましたが、この実験所で行われたマイクロ波の研究は、電子レンジに代表される生活や産業の様々な分野に活かされました。


「戦争が技術を進化させる」といいます。確かに先の大戦で生まれたもの、そしてその技術を応用したものは数限りないでしょう。しかし過去65年を見ると平和な時代であっても着実に技術は進歩しています。消費者の眼が厳しくなれば、さらに技術は進歩するでしょう。産業用・民生用の需要で技術が進歩する時代、こんな時代が長続きすることを祈りたいと思います。

新幹線を生んだまち 藤枝市郷土博物館

2010-07-30 23:45:00 | 郷土研究
「藤枝市史」を買うために、久しぶりに藤枝市郷土博物館に行きました。
ちょうど企画展示されていたのは「新幹線を生んだまち」。今から51年前の1959年7月、新幹線の開発を進める中で、電車のスピードの限界に挑戦するテストが東海道線の金谷-藤枝間で行われていました。

このことは、以前読んだ「ビジネス特急<こだま>を走らせた男たち」というであらましは知っていましたが、その際作成された映画の上映や、地元新聞記事、他にも当時のおもちゃなどが展示されていて、鉄道に詳しくない私でも興味深く見ることができました。

この「こだま」は"長距離=列車、短距離=電車"という当時の常識を、実証で覆したという点で、技術論的に定石を転換したすばらしい製品(機械)で、その論理に説得力があったからこそ、新幹線の計画がスムーズに進んだのだと、この本から知りました。ただ世間では新幹線に日が当たり、「こだま」は月見草のような存在で、ちょっと残念に思います。


在来線の線路の幅(3フィート6インチ)における、当時の高速度記録163km/hは、東京駅から202km地点、写真の瀬戸踏切のあたりで達成されたとのことです。いつも利用する踏切ですが、そんな歴史があったとは思いもしませんでした。


東西の貨物輸送ではまだまだ大動脈の東海道線。普通電車も10分毎に走っています。ちょっと気づいたのですが、電柱がほとんどコンクリート製になっています。夏になるとコールタールの臭いがする木製電柱はいつ頃なくなったのでしょうか?

※さて、明日からは空の話題をお届けします。



戦跡 牧之原台地の8月15日 大井海軍航空隊 その2

2009-08-15 18:30:00 | 郷土研究
茶畑の中にひっそりと建つのは大井航空隊の電探講堂。電探とは電波探知・・・いわゆるレーダーのことです。レーダーは当時の最先端技術。開発では欧米に遅れをとったものの、戦争末期には日本でも使用されるようになりました。


電探講堂は60数年を経て現存している地上で唯一の建物。現在は独立行政法人種苗管理センターが所有する建物になっています。
あえて「地上」と書いたのは、この台地に地下には無数のトンネル(地下壕)が掘られているからです。万一地上の建物が損傷しても地下で指揮が取れるようにと掘削が進められていました。


こちらは朝礼台とも号令台ともいわれるコンクリート塊。


以前はこのような待避壕を見かけましたが、最近では数が少なくなっているのでしょうか?
戦争末期になると普段の偵察や機上訓練だけでなく特攻訓練も行われるようになり、訓練を終えたたくさん隊員が南の前線基地に赴きました。そして終戦、大井航空隊の跡地は再び茶畑や工場そして住宅に変わっていくのですが、その中でも様々な問題が起きたようです。それを思うと戦争というのは後々の世までいろいろな影響を与えるものだと感じます。これからも平和な時代が続くよう願うのは、私だけではないと思います。


太平洋戦争当時静岡県内には陸軍の浜松飛行場(今の浜松基地)、袖浦飛行場(磐田市)、田子の浦飛行場(富士市)、海軍の藤枝飛行場(今の静浜基地)とこの大井飛行場、そして第2大井飛行場(掛川市)の6つの飛行場がありました。

写真は大井航空隊の敷地付近の茶畑から見た静岡空港。もうこの空港は機銃掃射や爆撃を受けることはありません。

戦跡 牧之原台地の8月15日 大井海軍航空隊 その1

2009-08-14 23:00:00 | 郷土研究
昨年同様8月14、15日は60年以上の月日を経て今も残る戦跡をご紹介します。昨年は掛川市(旧大東町)の陸軍遠州射場跡をご紹介しましたが、今回は海軍の飛行場です。

今年6月4日、牧之原台地の上に静岡空港が開港しました。華やかな式典の後一番機が福岡に向けて飛びたったのですが、この牧之原台地から飛行機が飛び立つのはこれがはじめてではありませんでした。


今から69年前の1940(昭和15)年、今の牧之原市と菊川市にまたがる牧之原台地300町歩に海軍の飛行場が作られることになりました。当時この付近には小学校や民家そして広大な茶園がありましたが、すべて立ち退くことになりました。結果、命令とはいえ多くの農家が貴重な茶畑を手放すことになったのです。
(1946年に米軍が撮影した航空写真。すでに滑走路や設備は爆破解体されていますが写真からはその大きさがわかります。>>>こちら )


その後、海軍の飛行場建設は住民も協力して進められ、1942(昭和17)年に完成。
最大5人乗りの機上作業練習機「白菊」が配備され、最大で3000名の隊員が主に偵察や機上作業の訓練を行っていました。
(写真は当時作られたと思われる航空隊敷地内のレンガ塀)


一番上の写真、隊門の記念碑がある付近。少し先に「空港」の標識が見えます。静岡空港までは5km位でしょうか。

大井川橋 80周年 その3

2008-09-11 23:58:55 | 郷土研究
静岡県歴史的土木遺産データベースより
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大井川橋 延長1026m 幅員8.3m 1928年
天竜川橋 延長919m  幅員7.4m 1933年 
安倍川橋 延長490m  幅員7.0m 1923年
富士川橋 延長399m  幅員7.3m 1924年
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上は旧国道1号線に架けられた橋。この数字だけでも大井川橋がいかに巨大な橋であったかがわかります。戦前のプラットトラス橋の中では最長の橋でした。


開通後から本体部分は余り変わっていません。
南側に歩道がつき、灯火が橋の外に向けられました。


かつて橋のたもとにあった大きな柱。
国道の整備事業で今は別の看板を背負っています。


こちらは県立金谷高校の校門。
対になっているこの柱は大井川橋から移設したものです。

大井川橋 80周年 その2

2008-09-10 23:55:55 | 郷土研究
橋の両側に銘板が取り付けられています。

「横濱船渠株式會社製作」・・・横浜船渠は今の横浜みなとみらい21地区にあった造船会社。氷川丸など大型の船舶を建造し、その後に三菱重工業横浜造船所になった会社です。

造船会社が作ったからではないでしょうが、ひとつひとつのパーツを見ていると、橋というより巨大戦艦のように見えます。


トラスの接合部には、東京側より「1」から「17」までの番号が付けられています。


拡大するとご覧の通り。渋滞しているときにこのトラス番号を見ると、橋のどの位置にいるのかがわかります。



大井川橋の鋼材は、当時まだ官営であった八幡製鉄所が作りました。
トラスの接合部の鉄骨には「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印があります。

大井川橋 80周年 その1

2008-09-09 23:59:24 | 郷土研究
旧国道1号線の大井川橋。今年は架橋80周年です。

富士川、安倍川、大井川、天竜川と静岡県には大きな川が流れていますが、大正から昭和にかけてこれらの川に鋼鉄製の橋が架けられました。このうち富士川と安倍川は一部が車線拡幅のため架け替えをしましたが、大井川と天竜川の橋は開通当時のままの姿で、今も多くの人や車を渡しています。



大正13(1924)年から4年の歳月をかけ、当時の技術力を結集して架けられました。今でいえば本州と四国の間に橋を架けるようなものでしょうか。
長さは1026m。橋の入り口からは出口がよく見えません。

今日から3日間はこの大井川橋を特集します。

戦跡 浜野海岸の8月15日 その2

2008-08-15 21:43:34 | 郷土研究
昨日に引き続き掛川市(旧小笠郡大東町)浜野の海岸。

海岸の駐車場のあたりには高射砲を据え付けたと思われる台座が、ポツンと残されています。その駐車場から海に向かう途中に、このトンネルがあります。

このトンネル、山を貫いているわけではありません。どちらかと言えばコンクリート製のガードです。試射の時に火薬をしまっておく場所なのか?それとも艦載機の襲撃を受けたときの退避施設なのか?今の私には想像がつきません。


戦後、遠江射場は農地になりました。またこの施設で砲弾や火薬などの運搬をしていた軍用軌道は、改修され軽便鉄道の静鉄駿遠線になりました。
写真は浜野から東に行った駿遠線の千浜駅跡です。その駿遠線もこの区間は昭和39年に廃止になり、今はその上を国道150号線がまっすぐに通っています。

2日間お届けした8月15日企画。また来年も今に残る遺構を紹介します。
なお、明日からは再び「富士山静岡空港の今!」をお届けします。


戦跡 浜野海岸の8月15日 その1

2008-08-14 23:52:05 | 郷土研究
川がゆったりと蛇行しながら海に流れていきます。
静かな時が過ぎていく掛川市(旧小笠郡大東町)浜野の海岸。
70年前、この美しい海岸には立ち入り出来なかったようです。

当時、海岸付近に陸軍東京第一造兵廠遠江射場が置かれました。
「射場」とは大砲や高射砲などのテストを行う施設です。さまざまな兵器と弾薬、火薬が持ち込まれ、ここから浜岡砂丘の方角に向けて試射を行っていました。


畑の真ん中に残るコンクリート製の観測施設。スリット状ののぞき窓が見えます。


一般の建物と明らかに違う厚いコンクリート。その近くに残る施設です。

今日、明日は重いテーマですが、先の大戦当時の遺構を紹介しております。

梅雨から夏へ・・・その5 大井神社みそぎの祓いの夜

2008-06-30 23:57:13 | 郷土研究
みそぎの祓い(6月30日)当日、授与所にミニ茅の輪(ちのわ)が並びます。
「蘇民将来子孫(そみんしょうらい)子孫」の伝説に基づいて、大井川の河原から刈り取った茅(ち)がやの葉で作られた災難疫病除けの御守りです。

蘇民将来子孫の伝説は備後風土記に元となるお話があり、各地方によって若干脚色されていますが、貧乏な兄「蘇民将来」と裕福な弟「巨旦将来(こたんしょうらい)」にまつわる説話です。

※詳しくは検索サイトで「蘇民将来」と入力してください。



夜は小雨にもかかわらず多くの人が詰めかけて、たいへんにぎやかな境内でした。

ひだるの神

2008-05-11 22:12:10 | 郷土研究
昨日のブログで「ひだるの神」の話から民俗学に興味を持ったお話しましたので、今日はその「ひだるの神」についてお話しましょう。

「ひだるの神」は山道や峠道などで旅人に取り憑き、空腹感や疲労感を与える妖怪とされています。山道を長時間歩いていると急に足が動かないほどの疲労感に襲われたり、異常な喉の乾きや空腹感を覚えたりすると、昔の人は「ひだる神に憑かれた」と考えていました。そのままにしておくと死に至ることもあるので、非常に恐れられていました。

このような状態になった時には、水や食べ物を口にすると「ひだるの神」から逃れられるとされていて、昔の旅人は山道や峠道を歩くときには十分な食べ物を持ち、もし途中でそれを食べることがあっても、「ひだるの神」を祓うために必ず一口分は残しておくようになったといわれています。

現代の科学において「ひだるの神」は、山道を登ることによる急激な血糖値の低下で起こる障害ではないかとされていますが、そのような科学的な根拠のない時代に、人々がそれを妖怪の仕業と考えることは当然のことかもしれません。
ところが、その妖怪を追い払うための方法を編み出し、その方法が現代の科学的な原因と対策に沿っているところが昔の人々のすごいところです。

この「ひだるの神」の話で「昔の人々の知恵」をもっと知りたいと思ったことから、私は民俗学に惹かれるようになり、教科書に出てくるような貴族とか武将のことはあまり興味がわかなくなりました。

今日の写真は東海道金谷坂。「ひだるの神」とは関係ありません。
3日間続けた「郷土研究」のカテゴリー。ひとまずこれで終えて、また機会をみてお話しましょう。

恩師との再会

2008-05-10 23:01:59 | 郷土研究
昨日追加した新カテゴリー「郷土研究」。
私自身は大学を出てからは、仕事が忙しく関わることはほとんどありませんでした。ところが、今年になって仕事がらみの用事で牧之原市役所に出かけたとき、偶然にも高校時代の恩師で部活動の顧問であった先生が、文化センター主催の歴史関係のセミナーをしていることを知りました。

聞けば昨年退職されたとのこと。なぜか急に高校時代の部活動を思い出し、セミナー受講の申し込みをしました。恩師は日本史の先生で、日本史の授業よりもそこから飛び出す「歴史の裏」の話や「民俗学」の話が面白く、6時間の授業が全部「日本史」であったらと思うほどでした。

一般的に歴史系の学問は、簡単に史実の研究する「歴史学」、遺跡を発掘する「考古学」、生活や風習、民話、信仰などの民間伝承を研究する「民俗学」に分かれています。

私は、この先生から聞いた「ひだるの神」の話から、民俗学にたいへん興味を持ち、大学4年の時に「研究室に残る」かどうかまで、はまってしまったのですが、結局のところ民間企業に就職しました。

ま、そういう心残りがあったかもしれませんが、「郷土研究」のカテゴリーでは、セミナーで学んだことや今までに得たものを小出しにしていきたいと考えています。

さて、今日の写真は島田市金谷の茶畑にぽつんとある道標(みちしるべ)。
この近くには3箇所くらいこのような道標があります。1604年に大井川の洪水で島田宿が流され、復興するまでの11年間、東海道が別の場所に移った際の道沿いにあることから、その時の物かもしれません。何かが彫ってありますが、一目ではわかりません。そこでパソコンの出番。コントラストを低めにして文字をペイントすると下の様になりました。「これより○日坂 右 左」と読めます。○の時は「字」「宇」「○丁」のように見えますがこれ以上はわかりません。右・左の字の下ににも何かあったのでしょうが、風化して欠けていて残念です。



新カテゴリー「郷土研究」のご案内

2008-05-09 23:59:17 | 郷土研究
新しいカテゴリー「郷土研究」を追加しました。内容の硬軟から言えば「硬++」かもしれませんが、お付き合いください。

さて私、小学校時代の課内活動は「郷土研究クラブ」、高校の部活動は「郷土史研究部」そして大学のサークルは「郷土研究会」、計9年間の間「郷土研究」の活動をしてきました。

これら所属したクラブの名前はほぼ同じですが、やっていたことはすべて異なります。小学校はどちらかと言えば史実に基づいた郷土の歴史についてと考古学。高校は郷土の産業と結びついた実証研究(たとえば炭焼き、機織など)、そして大学は民俗学です。

もともと社会科は苦手ではありませんでしたが、小学校時代に司馬遼太郎の大河ドラマ「国盗り物語」を見てから歴史に惹かれるようになりました。
ただ、このカテゴリーで紹介するのはそのような武士や貴族などのことではなく、その時代に生きていた一般の人々の暮らしと、大井川周辺の出来事。焦らず急がずぼちぼち掲載してまいります。

写真は中條金之助景昭の像。島田市初倉地区谷口原に建っています。中條景昭は徳川の旗本で明治になってから、痩せ地であった牧之原に入植し開墾を指導した人物の一人です。詳しくは画像をご覧ください。