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大井川の風

春夏秋冬、四季それぞれの風をお届けします。
富士山静岡空港をはじめ大井川流域のさまざまな
情報を掲載しています。

郵便車の消印・・・昭和の紙コレクションから

2010-07-29 23:45:00 | 昭和時代
今年の昭和の日にご紹介した「紙コレクション(・・・ゴミではありません)>>>こちら」。毎月29日頃にはご紹介すると書きましたが、すっかり忘れておりました。申し訳ございません。そこで今日はこの「紙コレ」の中から、鉄道郵便印をお届けします。

写真中央の切手に押された消印。局名が「大阪新潟間」となっています。下の切符に隠れていますが、「上・敦・直」という文字も見えます。これは鉄道で郵便輸送が行われていた頃、駅のポストに投函された郵便物に押されていた消印です。


ハガキの裏側を見ると能登半島の絵葉書でしたので、多分金沢駅あたりで投函されたものでしょうか。ハガキは郵便局を通ることなくそのまま荷物(郵便)列車に乗せられて、「上・敦・直」とあるように、上りの直江津と敦賀の間で消印と仕分けを行ったものと思われます。
鉄道で郵便物が運ばれたのは昭和61年まで。それ以前から少しずつトラックや航空機での輸送に切り替えが行われていました。それと同時に街中にあった郵便の集配局も、大きな道路に面した場所に移転をしていきます。島田局も以前は本通5丁目の駐車場ピーファイブの場所にありましたが、昭和45年頃でしょうか国道に近い場所に移転をしました(近所に住んでいた幼い私が、冷水機で水を飲みまくるので移転した訳ではありません)。現在、大きな街の郵便局が駅前にあるのは最後まで鉄道を利用していた名残でしょうか。


昔は結構、絵葉書やスタンプの押された暑中見舞いを受け取りました。約30年前に受け取ったこのハガキ、旅先の駅のスタンプが押されていました。調べましたらこの2つの駅は、すでに廃線となっていました。

※今週は陸の話題が多いですね。このまま週末まで引っ張ります。

京成スカイライナー試乗券と成田スカイアクセス

2010-07-15 23:45:00 | 昭和時代
久しぶりにカテゴリー「昭和時代」をお届けします。と言っても「空関連」ですが(笑)。
さて、こちらは成田空港と都心とを結ぶ京成電車のスカイライナー号試乗券です。この切符を入手したのは小学5年(昭和48年)のこと。その前年の昭和47年に購読していた毎日小学生新聞に、東京と成田空港を結ぶ新しい電車の愛称を募集する広告が出ていました。当時の表現は「ペットネーム」募集だったように記憶しています。ラジオのニッポン放送で流れていた「♪ぐんぐん京成~」の唄で始まる「京成お笑い10秒クイズ」という番組で、東京には京成という電車があることは知っていましたので、私も「青空」と「雲海」という2案を書いて応募しました。(・・・今考えると、習字のお題みたいですね)


その後「スカイライナー」という名称に決まり、習字のお題のような2案は採用されませんでしたが、抽選で何千人かにこの試乗券が配付され、私の手元にも写真の様に届いた次第。有効期間は1年間ありましたので、成田空港が開港したらぜひ乗ってみようと思っておりました。


ほぼ完成していた成田空港ですが、結局開港したのは切符を手にしてから5年後の昭和53年でした。すでに高校生になっていた私は、この切符のことなど全く忘れていました。最近の押入れの大掃除で発掘されたこの切符、そのスカイライナーも37年たって、17日からは新しい「成田スカイアクセス」に活躍の場を移します。


京成の駅では、スカイアクセス開通後の新しい路線図が掲示されています。


成田空港はその後何度か使ったのですが、電車は1度しか使いませんでした。もちろんネーミングに参加したスカイライナーも乗らずじまい。結局このまま「夢の中を走る電車」で終わってしまいそうです。

鉄道小荷物の荷札

2010-04-28 23:30:00 | 昭和時代
「昭和の日」を前に整理中の押入れから発見された大量の紙類。ある人はこれを「昭和の資源ごみ」と呼び、ある人は「紙のコレクション」と呼びます。この画面上の紙類は、ほんの一部。ひとつひとつご紹介していくとそれだけでブログ10年分にもなりそうなので、これから毎月29日頃に主な"昭和の紙コレ"を採り上げていきたいと思います。


さて今日の「紙コレ」はこちらの荷札。懐かしいと思われた方も多いのではないでしょうか。こちらは鉄道小荷物用の荷札です。荷物を出したのは島田駅、到着駅は山手線の渋谷駅です。もちろん私が出したものですが、帰省でGetした品々を下宿に送った時のものだと思います。段ボールを自転車に括りつけて島田駅に運び、体重計の何倍もあるような大きな秤がある手小荷物取扱窓口に出して、渋谷駅留め扱いにしておき、後日下宿から渋谷駅まで自転車で行き、窓口で荷物を受け取り、再び自転車に括りつけて運びました。米が入っている時は友人の車で運んでもらったこともありました。


そもそも昭和の頃に小口の荷物を送る場合は、小さいものは郵便小包、段ボール箱の様な大きさは国鉄の鉄道小荷物で送っていました。よく考えるとどちらも国のサービスです。
そんな時代に家まで荷物を取りに来て配達してくれる宅配便が生まれ、一気にその勢力が逆転しました。鉄道小荷物は私が静岡に戻った1986年に廃止され、駅の構内にあった荷物積み込み用のリヤカーも姿を消しました。

今は夕方に宅配便を依頼しても、翌日の午前中に東京まで荷物を送ることができます。時間帯が入っていないこの荷札を見たとき、「今は本当に便利な時代になったな」と感じました。

急行能登

2010-03-13 16:30:00 | 昭和時代
1通の残暑見舞。消印の日付は「57.8.17」。急行能登は学生時代によく利用した列車です。


もちろん今のような快適な電車ではありません。機関車が客車を引っ張る列車でした。4人掛けの硬いボックス席で冷房はなく扇風機がフル回転、暑さを凌ぐため開け放たれたデッキで寝たりしました(よく落ちなかったと思いますが)。


床で寝る人、座席のクッションを取り外してベッド代わりにする人、窓に並んだ酒やビール缶、タバコとスルメの臭い、トランプとマグネット将棋、およそ現代では再現できないような空間でした。


そのうち能登も冷房付きの快適な車輌になったのを記憶しています。それでもやはり夜汽車の雰囲気はしました。窓辺にカップ酒を置くとその頃の雰囲気がよみがえってきます。


本当は寝込んでしまえばよいのですが、降りる駅は決まっています。急行能登は
夜汽車の雰囲気を詰め込んで上野に向かって去っていくのでした。


この日、急行能登に乗っているのは比較的年配の方が多かったように思います。最近は夜行の高速バスという便利で快適な乗り物ができました。50度以上倒せるリクライニングシート、1人掛け席、走行中は照明も落とされます。夜汽車が走るような時代ではないのかもしれません。能登が金沢駅を出る頃、このバス乗り場には多くの若者が列を作っていました。

ボンネット特急(急行)のラストラン その2

2010-03-12 23:30:00 | 昭和時代
懐かしいですねドア付近のくずもの入れ。
電車内のマナーなど無頓着だった学生の頃は、満席の時に堂々とここに腰掛けて外を眺めたものです。ここに別の人が腰掛けている時は、写真の黄色のステッカーの部分(床)に新聞紙を敷いて、ステップに足を入れて座っていました。


「たばこのすいがらを入れないでください」と書かれたシール。今の常識では考えられないのですが、禁煙車などなかった時代には灰皿代わりにする人もいたのかもしれません。


今や自動ドアが主流になっている通路のドア。もちろんこちらは手動です。「おす PUSH」の部分、こんなスタイルの扉が喫茶店や街のあちこちにあったような気がします。


グリーン車の8Aの席に腰をかけます。この日はグリーン車も7割位埋まっていました。すわり心地は悪くありませんが、座席の背もたれが今の電車よりずいぶん低く、前席の人の頭が半分以上見えます。


肘掛のところからテーブルを引き出します。天板の柄が懐かしいですね。この車輌は昭和49年製造、今から36年前です。故にちょっとへたっていますので、カップ酒がつっ~っと端に移動してしまいます。


グリーン席には背面の折りたたみのテーブルはありません。昔は食堂車を連結していたでしょうから、それなりの身分の方は食堂車で御飯を食べたのかもしれません。ただよく乗った普通席の方には、お弁当を乗せられるちょっとしたテーブルがありました。

ゆったりとしたシートにもたれ、今日はちょっと昭和の重役になった気分です。
<つづく>

※富士山静岡空港情報 3月1日の空港時刻表で欄外に表示しておりました台湾復興航空のチャーター便の時刻が決まったようです。3月20日静岡着9:05、静岡発10:00、3月23日静岡着18:30、静岡発19:30です。機材はA321です。






ボンネット特急(急行)のラストラン

2010-03-11 23:30:00 | 昭和時代
夜の金沢駅、上野に向かう長距離電車の周りにはものすごい人が集まっています。著名人でもいるのかと思って尋ねると、急行能登がもうじき廃止されるとの事。特にこのカタチをした電車を「ボンネット特急」と言うそうで(写真は急行能登)、能登の廃止はもちろんこの型の電車も現役から引退するそうです。


電車の分類はいろいろとあるのでしょうが、私にとってこのスタイルは「こだま型」。「こだま」と言っても新幹線ではありません。私が生まれた頃、家の裏の東海道線を走っていた東京大阪間の特急「こだま」のことです。


戦争が終わってからわずか13年後に生まれたこのスタイル(デザイン)。当時は本当に斬新なものだったに違いありません。それから仕様の変更などはあったものの、50年もの間日本各地で活躍してきました。わたくしも「こだま」には乗れませんでしたが、北陸はもちろん甲信越や東北方面で「こだま」から派生した型の電車に何度も乗りました。


廃止と言う話を聞いて、長年駆けてきたボコボコの車体がなんともいとおしくなりました。次は特急で移動の予定でしたが、急遽変更してこちらに乗ってみることにしました。
<つづく>

こども遊園地

2010-02-19 22:30:00 | 昭和時代
曲がりくねったレールが続きます。何線の線路か?わかる方、その方には「仙人」の称号を与えましょう。
実はこちらは小田原城址公園内にある「こども遊園地」の豆列車。


ちゃんと踏切もあります。



箱のような客車をSLが引っ張っていきます。大人にとっては豆列車ですが、小さなこどもにはちょうどいいサイズなのかもしれません。


昭和の時代には全国至る所にこのような豆列車、豆新幹線がありました。少子化の影響もあるのでしょうが、遊園地が閉鎖されたり、デパートの屋上から遊具コーナーがなくなったりして、現存する豆列車の数はたいへん少なくなったと思います。

木漏れ日の中をゆっくり進むのどかな豆列車。次の世代までこのレールが引き継がれることを祈らずにはいられません。

1985年 ANA伊丹羽田30便 搭乗券

2009-07-10 22:30:00 | 昭和時代
もう黄色に変色したこちらの搭乗券、1985年3月13日私が初めて空を飛ぶ飛行機に乗ったときのものです。「6J」とありますが当時は普通席。確かB747だったと思います。

当時の飛行機は今と違ってちょっと敷居の高い乗り物でした。北海道や九州出身の友人の中には帰省の際に、運賃が大幅に割引になるスカイメイト(青少年割引)を使っている人もいましたが、私には縁の遠いものでした。

いまや、その航空運賃も多様化し予約日や出発時間などの条件があえば、普段の半額以下で乗ることが出来るようになり、ほんとうに身近な足になったと感じます。


裏側は今はパナソニックになったナショナルの旅行用ドライヤーの広告。今はビジネスホテルにもドライヤーは備え付けられています。私もいつの頃からかドライヤーを旅行カバンに入れなくなりました。一番下に「お求めは電気店、デパートで」とあります。デパートの家電売り場、こちらもほとんど見かけなくなりました。

さて、余談です。
この搭乗からちょうど3年後、1988年3月13日に私は「6J」の隣の「6K」に座った方と結婚するのでした。

では今日はこの辺で。

昭和の日 「駅の伝言板」

2009-04-29 23:30:00 | 昭和時代
今日は昭和の日。この名称になって3回目です。
どうも今までの感覚で「みどりの日」と勘違いしてしまいます。
さて昭和の日には、この日にふさわしい記事をということで、最近見掛けなくなったものをご紹介しましょう。

上の写真、駅の改札に掲げられた黒板。何のためのものかもうお分かりですね。かつてはどの駅にもあった伝言板です。いろいろなスタイルのものがありますが、縦書きで時間、用件と区切ってあるタイプが多かったでしょうか。「×時間経過したものは消去します」と注意書きもありました。

今と違って家を出ると直接連絡が取れなかっただけに、情報の伝達手段としてはたいへん重宝したものです。書き込まれるコメントは「先に行きます」「○○で待っています」などが多かったでしょうか。また、告白や仲間同士の暗号、さらには自己主張の場としてなど、本来の用途以外でも使れれていました。

平成になってからの伝言板は、皆さんご承知のとおり、ポケベル→携帯→メールの普及で見かけなくなりました。いや、最近も東京でこの「伝言板」を見かけましたので、普段「伝言板」の存在を気に留めなくなっただけかもしれません。

写真:富山地方鉄道中加積駅

富士・はやぶさ ラストラン その2

2009-03-10 23:30:00 | 昭和時代
ブルートレインに最初に乗ったのは「はやぶさ」でした。
ちょうど受験の時、当時は「新幹線の若返り工事」が時々行われていて、午前中は新幹線が全面運休。そこで静岡から東京までの間で、「はやぶさ」に乗車できるよう配慮されていました。もちろん座席の指定はありませんので、食堂車に居座った覚えがあります。

その後、学生時代は寝台車に乗れるだけの余裕もなく、急行列車の硬い座席に身を埋めての旅。社会人になってからは東名阪の移動が多く、これだけの列車がありながら、実際に乗車したのは家族旅行で小倉まで乗車した「さくら」と、結婚式に招待されて下関まで乗った「はやぶさ」の2回だけ。

そして、とうとう最後を迎えるこの「富士・はやぶさ」。高速バス・航空機・ビジネスホテルなど、後で生まれた多くのライバルを相手に、よくぞここまで健闘したと思います。車両の数も少なくなり、華だった食堂車もなく、ちょっと寂しい最後です。


3月14日「大分・熊本」にもシールが貼られる事でしょう。ホームから遠い地名が消えていきます。

富士・はやぶさ ラストラン その1

2009-03-09 23:55:00 | 昭和時代
島田駅午後8時54分。
西に向かう唯一のブルートレインが通り過ぎていきます。
この列車を見送るのもあと数日。昭和の時代から夢とロマンと運んできたブルートレインも、いよいよ東海道から姿を消します。

その昔私は東海道線の沿線に住んでいました。
午後7時台から深夜にかけて、東海道線はブルートレインのオンパレードでした。遠くから汽笛が聞こえると、「ゴー」という重量感のある音で列車が迫ってきます。それは電車とも貨物列車とも違う音で、はっきりブルートレインとわかるものでした。カーテンを下ろした車両が多い中で食堂車の明るさが目に焼き付いています。


7時20分に「さくら」、35分に「はやぶさ」、50分に「みずほ」、そして「富士」「出雲」「あさかぜ」「瀬戸」などと続きます。毎日時間通りに通りますので時計代わりでもありました。


※写真は静岡駅に残っている乗車位置の表示



雪見遠足

2009-01-25 20:52:41 | 昭和時代
この時期、大雪のニュースを見ると思い出すことがあります。
雪が積もっている地域の皆さまにはたいへん不謹慎ではありますが、当地静岡ならではの「雪見遠足」のお話です。

「雪見遠足」とはその名の通り、ソリ遊びや雪合戦など雪を見て体験する遠足で、小学校のある特定の学年になるとキャンプの様な野外行事と同格で行われるものです。目的地は富士山中腹のスキー場や公園。当時は「雪見」とういと遊びのように感じられるのか、「雪中訓練」などとも呼んでいました。

雪見遠足が行われるのは1月か2月。衣料品店やスポーツ用品店では「雪見用品」コーナーが登場、ウェアやシューズ、ソリが並びます。


今まで40年以上の人生で、この程度の雪が積もったのはほんの数回。
雪の怖さやたいへんさを知らないのも仕方がありません。雪が降れば授業を中止して「外で遊びましょう」となったこともありました。



雪に対してプラスのイメージを持っている人も多い当地ならではのこの行事、平成の今は小学校の行事から消えましたが、幼稚園・保育園で卒園旅行を兼ねて行われています。

消える漢字 「匁(もんめ)」 そして磁石につく硬貨

2008-12-22 23:58:53 | 昭和時代
常用漢字表から5文字が消える・・・最近そんなニュースがありました。
その中に尺貫法の重さの単位「匁(もんめ)」があります。
「匁」の由来などはインターネット上で検索していただくとして、尺貫法の単位として身近に使っているものといえば「坪」と「升」と「合」くらい?(升も合も酒の単位・・・笑) これも時代の流れかと思います。

1匁は3.75グラム。現在でも世界的に真珠の重さの単位として使われている匁(1mom)。ちょうど写真の5円玉1枚の重さが1匁です。これが1000枚で1貫(3.75Kg)です。

ちなみに現在の1円硬貨は1グラム、50円硬貨は4グラム、500円硬貨は7グラム、それぞれが秤の分銅のようです。


さて、こちらは懐かしい硬貨。大きい穴あき50円です。こちらはちょうど5グラム。左端の今の50円と比べるとその大きさがわかります。


この50円玉はニッケル100%、調子に乗ってこんな実験を。
「お金を粗末にしてはいけません」という声が聞こえてきそうですが、その昔は理科の実験(磁石)で「磁石にくっつく硬貨」として普通に行われていたものです。
※「懐かしい」と思った方・・・昭和30年代の生まれですね。

お賽銭箱に磁石を垂らして50円玉を盗る人が現れて今の50円玉ができたような噂を覚えていますが、本当の理由はわかりません。

通信簿から

2008-10-15 23:56:55 | 昭和時代
今から38年前の2学期、ちょうど今頃、私は2年3組の「掲示係」になりました。
掲示係とは、教室の壁に生徒の作品を飾ったり学級新聞やお便りを掲示板に画鋲でとめる係りです。3学期以降もこの「掲示係」は続きます。

そして2008年。私はインターネット上にお客さまの情報を掲示する仕事をしています。これは「掲示係」とつながる何かの縁でしょうか?

ちなみにこの1970年9-10月は「時計係」もやっています。時計係は教室の掛け時計のゼンマイを巻く係です。その後電気時計が入って時計係はなくなりました。


通信簿の裏側の出席状況。おかげ様で高校まで12年間無欠席でした。
その反動が大学時代に現れましたが(笑)。
なぜかどの学年も授業日数が248日です。法律で決まっていたのでしょうか?

※明日からは連載の「富士山静岡空港の今!」をお届けします。

FMエアチェックとオーディオタイマー

2008-09-30 23:59:42 | 昭和時代

昨日はラジカセをご紹介しましたが、今日はこれまた懐かしい「オーディオタイマー」をご紹介しましょう。

70年代、小遣い全額はたいてLPレコード買うかエアチェックで済ませるのか、レコード店の中でよく考えたものでした。このエアチェックとは、FM放送の番組をカセットに録音することです。FM雑誌を立ち読みして録りたい番組を確認。ところが録りたい番組は、部活中だったり深夜だったりでなんとも不便。

そこで、この「オーディオタイマー」(ナショナルTE-65)の登場です。余談ですがナショナルもついに明日から「Panasonic」、これもひとつの時代の終わりと始まりなのでしょうか。時代といえば何種類もあった週刊のFM雑誌、今やほとんどが廃刊になっているようです。

さて、仕組みをご紹介。

まずは、15分刻みになっている穴に(写真右下の)ピンを刺します。要領は黒ひげ危機一髪をイメージしていただければおわかりかと思います(但し爆発はしません)。
白ピンは「電源ON」、黒ピンは「OFF」。21時から22時の番組を録りたいときは白ピンを21、黒ピンを22の所に刺します。

ラジカセでFMの周波数を合わせ、マニュアルレバーを上げればピンを刺した時間まで電源が切れます。そして最後にカセットの録音ボタンを押しておけば、予定時刻に番組の録音が始まります。


最初は15分刻みでもよかったものの、10時5分から開始など細かい刻みに対応出来ないため、数年後に最新のデジタル式オーディオタイマー(ナショナルTE-97)にバトンタッチしました。