platea/プラテア

『ゲキxシネ五右衛門ロック』『The Musical AIDA』など、ミュージカルの話題作に出演の青山航士さんについて。

あゆあゆさんから『グランドホテル』(06)詳細レポ頂きました・その2

2007-01-08 | グランドホテル ザ ミュージカル
 クリスマスレビューショーでの青山さんの白燕尾服姿を見てしまったら、誰だって『グランドホテル』の舞台を思い出さずにいられません。一年たった今でも印象に残る、本当に魅力的な作品でした。ブロードウェイ版、宝塚版とそれぞれにファンの方がおられるのにも納得です。
 さて! どこよりも詳しい東京/グレン・ウォルフォード版のレポの続きをあゆあゆさんから頂きましたので、皆でゆっくり想い出に浸りましょう~。こちらのコメント欄をクリックしてください 心を波のように包んでくれるあの音楽、思い出します。 

The Grand Charleston

2007-01-07 | グランドホテル ザ ミュージカル
 ・・・ぼのさんが管理されている神崎順さんの公式サイトで青山航士さんの写真をたくさん見て、ついに発作が起きました。久しぶりでお絵かきです。
 なんで今頃昨年の『グランドホテル』? と思われる方も多いと思いますが、先日の旅行中、偶然目にした野生の鹿の美しさに感動し、その動きを見て、この曲の青山さんの出のジャンプを思い出しました。そこにあの白の燕尾服姿の写真、もう脳内では燕尾服で踊る青山さんがエンドレス再生です。おかげで豪華ホテルというより森のなかのような絵に・・・。実際には客席に背を向けていたところですが、こちらを向いていただきました。

あゆあゆさんから『グランドホテル』詳細レポいただきました

2006-07-04 | グランドホテル ザ ミュージカル
 速読術なんていうものまであるくらいで、時間をおしんでどんどん新しいものを取り込むのも素晴らしいですが、たまにはこう、ゆったりお気に入りの映画とか舞台の話をしたいなと思います。2月13日付の「あゆあゆさんの『グランドホテル』詳細レポ」のコメント欄に続きの原稿をいただきました。大変な労作です、ぜひ皆さんご一読を~。
 今年初め、国際フォーラムで上演された『グランドホテル』は、とても二時間ほどの舞台とは思えないほど、たくさんの人生の交錯する作品でした。時代はこのあいだ話題にした映画『雨に唄えば』とほぼ同時期の1928年。活力に溢れた若い国アメリカのエンターティンメントがトーキーの登場によって大きく動き出し、現在のように映画が世界に誇る一大産業となっていく出発点となった頃、敗戦国のドイツでは、オッテルンシュラーグやオットーのように戦争の傷をかかえて年老いていく人たちや、あてもなく浮遊するような貴族の末裔を描かずにはいられない時間が流れていたのでしょうね。ユダヤ教的、なのかもしれませんが、この極東の島国の一観客は「生老病死」が描かれているせいか、ストーリーが妙に感覚的にフィットするような気がしました。皆さんいかがでしたか。
 あゆあゆさんのレポをゆっくり読んで、ああそうだったな、あそこは・・・と想いをめぐらせていると「・・・これも再演しないかな」とつい欲がでます。「トミー・チューン版以上にダンスがいっぱい」なんてどうでしょう
 後になってしまいましたがいつも投稿有難うございます。本当にこんなに詳しいものはどこにもないですよ! 次のことはさておいて、ちょっと乾杯しましょう
 

あゆあゆさんの『グランドホテル』詳細レポ

2006-02-13 | グランドホテル ザ ミュージカル

あゆあゆさんから、観に行けなかった方も想像をゆったりと膨らませていただける、
詳細な観劇レポートを頂きました。追体験組の私も嬉しいです♪ 


『グランドホテル』詳細レポ Ⅰ 

The Grand Parade--- Some Have, Some Have Not--- As It Should Be

開演15分ぐらい前になると、羽をつけた帽子に、20年代の直線的シルエットのド
レス姿の女性、あるいはタキシード姿の男性、つまりオーケストラの方々が、チュー
ニングのために舞台上部のスペースに集まり始めます。当時のホテルで実際に演奏し
ていたバンドという趣です。そして、開演時間・・・。

階上のオーケストラ指揮者と一礼を交わし、ステッキを突きながら、階段を下りてく
るドクター・オッテルンシュラーグ。フロントのベルの音とともに、ホテルで働く従
業員たちの様々な声が飛び交います。青山さんの声は、「ルームサービス、朝食を二
人分お願い・・・」でした。冒頭のドラマティックなオケの音に合わせて、舞台左手
でドクターがカバンからモルヒネの注射を取り出し、その注射を腕に突き刺すことに
より、このストーリーは始まります。同時に、かすかなスモークが漂い、青系と黄色
系の照明がオケの音楽に合わせて劇的に変わるという幻想的なムードのなか、ジゴロ
と伯爵夫人が現れ、踊ります。再びドクターは、階段を上り、踊り場で宙を見つめ、
恍惚の表情を浮かべながら、豪華ホテルの光景を歌います。「クリスタル、ビロー
ド、香水の芳香、シャンデリアのきらめき・・・(歌詞はこんな感じでした)」いよ
いよ観客は「古きベルリン、グランドホテル」の世界へといざなわれてゆくのです。
そしてジゴロと伯爵夫人も、何かに引き離されるかのように、舞台両端へとそれぞれ
が消えてゆきます。


ドクターが歌う「人は来て、人は去る(People come, people go)・・・」のところ
で、ステージのあちらこちらからベルボーイなど、ホテルの従業員たちが登場してき
ます。青山さん演ずるベルボーイは回転扉の右横の扉からの御登場です。このときの
アンサンブルの動きは、普通の日常生活の動きからは何段階かスピードを落としたよ
うなスローなマイムです。しかし「マイム」とは言っても、その動きは、「パントマ
イム」という言葉からイメージするようなオーバーアクションな、ぎこちなさとつぎ
はぎ感のあるものではありません。青山さん演ずるベルボーイは、回転扉のそばで、
実際のゲストもいないし、カバンもないのだけれど、マイムの動きでベルボーイとし
ての仕事をこなしてゆきます。笑顔を浮かべながら、そこにいるはずのないゲストに
一礼し、あるはずのないカバンを持ち、ロビーを歩く・・・。どれも日常生活であり
ふれた動きのはずですが、ひとつの動作からもうひとつの動作に移るときの「継ぎ目
のなさ」、そしてそのような動きが流れるようにスローなスピードで展開されること
によって、非常に現実感のない、幻想的な空気感が漂うのです。「ドクターが打つモ
ルヒネ」と「アンサンブルのマイムな動き」は、この作品では連動しているようで、
ウォルフォードさんがパンフレットで述べている、「イリュージョン」な空気感が舞
台を包み込みます。(後半I Waltz Aloneでも「モルヒネ」と「マイムな動き」が連
動しています。)ドクターのどこか「死にかけている」存在感とともに、マイムな動
きによって醸し出される、アンサンブルたちの眼の前に生きている人間でないような
透明感と浮揚感に満ちた非現実的な存在感が、現代からは遠く時間を隔てて存在する
「古きベルリン・グランドホテル」のセピアな色彩と薫りを醸し出すのです。

ちなみに、Grand Parade/Some Have, Some Have Not/As It Should Beが絡み合う
ようにして展開される、冒頭のこのシーンの途中では、グルーシンスカヤが回転扉を
通って、ロビーに登場してくるという場面が挿入されますが、この場面に移るときの
質感の変化はたとえて言うなら「セピア色の写真」から「カラーの動画」といった感
じです。シーン自体がパッと急に色づく感じで、登場人物に生気が入り、観客が場面
に対して抱く現実感もいきなり増します。舞台の幻想的な雰囲気に包まれ、記憶の彼
方にまどろむような感覚が消え、観客の中では、舞台での出来事に対する同時代感が
一気に高まるという感覚が湧き起こるのです。確かに照明も変わるのですが、青山さ
んたちアンサンブルの動きの質、あるいは存在感、舞台上でのあり方の変化というこ
とが、観客のなかに起こる変化の一番大きな要因だったような気がします。またグ
ルーシンスカヤと男爵がすれ違う、ドラマティックな二人の出逢いも、アンサンブル
の動きがフリーズすることによって、このシーンだけ切り取られたように観客のなか
に印象付けられ、これからこの二人に起こる出来事がほのめかされていました。


前述の「スローなマイム」の後まもなく、右手の階段中段に上った青山さん@ベル
ボーイは、「ようこそ、古きベルリン、ようこそ、グランドホテル」と歌いながら、
客席正面と左手客席に向かって、ゆっくりと一礼をしてゆきます。ここで客席に座る
観客のひとりひとりも、まるでこの豪華ホテルをゲストとして訪れているかのような
錯覚を抱くのです。青山さんは、濃赤色のベルボーイキャップに、所々が金モールで
縁取りされた同色の上着、白シャツに折り目正しくネクタイを締め、茶色のズボンと
いうお衣裳。ベルボーイとしての青山さんは、格式高いヨーロッパの高級ホテルの玄
関で、一番にお客様をお迎えするという役割にふさわしく、背筋がピンと伸び、歩き
方をはじめ、身のこなしも優雅でありながら、機敏で端正、その存在感に圧倒されま
す。回転扉の傍らでたたずむ、荷物を持つためにかがむ、そして歩く・・・、完成さ
れた何気ない動作のひとつひとつに、この作品を舞台の上に乗せることに向けて青山
さんのなかで醸成されていった時間というものを感じました。くるりと向きを変え、
階段を上ってゆく後姿などでは、上半身が微動だにせず、カバンを持つ腕、肩と背中
から脚にかけてのラインが、一筆で描かれた完璧な一本の描線を辿るようでした。青
山さんがベルボーイとして舞台の上にいるその仕方、存在感といえば、とにかくそれ
は完成された圧倒的なものでした。


「人生の華やかさを極めつつも、時間のない」ゲストたち、登場人物のひとりひとり
がドクターの言葉で紹介されながら、回転扉を通って登場してきます。このときベル
ボーイたちはひとりひとりのゲストたちに深々と最敬礼をするのですが、ミニスカー
トの裾を翻して脚を高く上げポーズをとるフレムシェン御登場のときだけは、右手階
段中段に位置する青山さんと高山さん@二人のベルボーイは、「この美しい女性は
誰?」とばかりに、横から覗き込むようなしぐさをします。このときも、なんとなく
普通よりはスローな動きですが、覗き込む動作に入るときの機敏さが、「思わず、不
覚にもベルボーイである立場を忘れてしまった」気持ちを表現しているようでした。
また、高山さんから青山さんという動きの流れのなかにある「間」のとり方が絶妙
で、そのユーモアが漂う動きが、フレムシェンの向こう見ずな若さの輝きに重なっ
て、とても印象的でした。貧しいアパート住まいに辟易し、何とか現状を変えたいと
思っている若きフレムシェンとホテルで働く従業員たちの立場には、近いものがある
のかもしれません。後に続くジミーズとフレムシェンのダンスナンバー、Maybe My Baby Loves Meでも、最高にカッコイイ青山さん@ジミーズのひとりは、フレムシェ
ンとの駆け引きを楽しんでいるように見えて、そんな細かいキャラクター設定も、フ
レムシェンの人物像の輪郭というものを描き出しているようでした。


「金のない貴族ほど役に立たない者はない」というドクターによる男爵への注釈がつ
くと同時に、客席の前方端から「洗い場の労働者たち」が舞台へと飛び出してきま
す。(この作品では、「金」ということに話題が及ぶと、この「洗い場の労働者た
ち」が登場してくるようでした。例えば、プライジングの商談や男爵の駆け引きなど
の場面の周辺で。)労働者たちは、迫力のある歌声と、金物を入れた金属製の籠をゆ
すりながらの激しい動きによって、いくら働いても恵まれないという生活に押し潰さ
れそうな、フラストレーション爆発寸前の心情を、ホテルのゲストたちの豪勢な暮ら
しぶりと対比しながら吐露してゆきます。「籠のゆすり方、取り扱い方」という細か
いことを取ってみても、労働者たちひとりひとりの個性が感じられて、彼らが自分の
人生で抱えているものが見えるようでした。

そんな彼らとは対照的に、同じ労働者階級でも、ベルボーイたちは抑制した動きでそ
の心情を表現してゆきます。笑顔と誠意でゲストをお迎えすることが仕事である彼ら
の、もう一つの側面です。冒頭のこの場面では、男爵が歌うAs It Should Beと絡ま
りあいながら、このSome Have, Some Have Notは何度か歌われますが、青山さん演ず
るベルボーイの抑えの効いた動きには、観ているこちらが客席の背もたれに押し付け
られてしまうような「凄み」のようなものがありました。自分の気持ちのやり場のな
さを、階段中段のひとつの段で、右に左に数歩ずつ行ったり戻ったりする、またはそ
の場で動かず、「1日100万マルク使える」ゲストたちに対する不公平感を、上半
身、腕や掌の動きだけで歌いながら表現する・・・。あるいは舞台前方に出て、その
場で身体と顔の向きの角度を曲のフレーズとともに微妙に変化させる・・・。ただそ
れだけの、「ダンス」とは言えない、非常に動きの少ない振りなのですが、青山さん
の動きを観ているだけで、その心の内に渦巻く張り詰めた緊迫感のようなものが押し
寄せてくるかのようでしたし、抑えた動きを行う端正な身体/外面と、抑圧された不
満が渦巻く激しい内面とのコントラストが逆に、恐ろしいぐらいに印象的でした。同
時にステージの全体像として、それぞれのキャラクターが豊かな個性をぶつからせ
て、心情を吐露してゆくこの場面は、あの時代のドイツにあった空気を伝えるものと
してリアリティーがあったし、非常に迫力がありました。


Grand Paradeの後半、フレムシェン、ラファエラ、プライジング、オットー、男爵が
舞台のあちらこちらで電話で話す場面があります。その内容から観客は登場人物の置
かれた状況を察することができるのですが、ハーモニーを奏でながら、重層的に重
なっていく彼らの声が印象的な場面でした。これに続いて全てのキャストが勢ぞろい
して、Grand Paradeのラストを歌い上げるこの作品の「見せ場」とも言うべき場面
は、作品冒頭から観客が大きな感動に包まれる圧巻の素晴らしいものでした。『グラ
ンドホテル』冒頭のこのシーンを、ベルボーイは右手を胸の前に置き、礼をするとい
うポーズでしめくくります。


ベルボーイが着ていたのは、制服、ユニフォーム(uniform)でしたが、この言葉は
元来「一つのかたち」という意味です。彼らの存在意義ともいえる共通の目的、すな
わち「高級ホテルを訪れるゲストのおもてなしをする」、この目的の下に、彼らは
「お揃いの一つの」衣裳を身につける・・・。そんな彼らは、舞台上で場面転換する
ことなくそこにあり続けた、あの古きベルリンの高級ホテルのたたずまいさながら
に、「来たりては、去る」人々の織り成すドラマを見続けます。しかし、そのユニ
フォームが、単なる「お揃いの一つのかたち」から、研ぎ澄まされた末に完成された
スタイルを持つ「一つのかたち」となるとき、そしてさらにそこに豊かな表情と重層
的な意味が生起するとき、観客は演出家の意図した「イリュージョン」というものが
読み取れる気がしました。

あの「制服/ユニフォーム」を着て、ベルボーイとして舞台にいる限りは最初から最
後まで、身体の隅から隅までに全神経がはりめぐらされたような、一部の隙もない存
在感と集中力。「じっと立つ」という「動かない」動き(矛盾しているようだけれ
ど)というものから、「歩く」「かがむ」「階段を上る」というありふれた日常動作
に至るまでのひとつひとつの表現が、一貫して「ベルボーイ」としての身体秩序に
則って行われているかのようでした。青山さんの身体の表面を覆っていたあの服だけ
ではなく、あの青山さんの動き自体が「制服/ユニフォーム」だったと言っても過言
ではなかったのかもしれません。そんな確かな存在感の表と裏で、場面ごとに動きの
モードが変化することによって加えられる豊かな表情と、それにより観客のなかに連
鎖してゆくイメージ、与えられる意味の数々・・・、それらの間隙を彷徨っている
と、観客は固定されたセットのなかで展開されるストーリーでありながら、時折押し
寄せる「イリュージョン/幻」の波にたゆたうことができるような気がしたのです。
ユニフォームに生じるイリュージョンの力、それは間違いなく青山さんの卓越した秘
法といってもよい「マイムの錬金術」によって牽引されていたように思います。


A Table with Reviews

2006-01-28 | グランドホテル ザ ミュージカル

ゲストの方からお寄せいただいた『グランドホテル』観劇コメントをこちらに集めました。

ご投稿、本当に有難うございました。また、"Guest Room of GRAND HOTEL"に頂いたコメントも記事としてアップし直しております。まだご覧になっておられない方は是非覗いてみてください。

これからも観劇レポートはお待ちしております。一言でも感想をお寄せくださると嬉しいです。



myさん:2006/1/26 02:06

千秋楽おめでとうございます。
一番最初に「グランドホテル」上演を知ったのがへーまさんのブログでした。
なんだかずっと先のことだと思っていたのに、
とうとう終わってしまいとても寂しいです。
千秋楽前夜の逮捕劇も、
公式サイトが跡形もなく消えてしまったのも、
「グランドホテル」形式の演出のようで
私の中では、グランドホテルは存在し続けているようです。

青山さんの存在をはっきり印象付けられた公演でもありました。
へーまさんのブログで予習復習していたことで、
青山さんを一層身近に感じたのかもしれません。

青山さんは「グランドホテル」の余韻に浸る間もなく、
次の公演のお稽古なのですね。
「ザ・ビューティフル・ゲーム」
是非見に行きたいと思います。
これからもどうぞよろしく。




あゆあゆさん: 2006/1/25 02:27

『グランドホテル』楽日の公演、行って参りました!今日は2時開演でしたから、終演からもうかなり時間が経過しているはずなのですが、いまだに劇場に広がっていたあの興奮と感動の只中に漂っている・・・、そんな感じです。なんだかこうやって今キーボードを打っている自分の身体に現実感がありません。今もBW版のCDを最初から最後まで聴いて、舞台のシーンを脳内再生しておりました・・・。本当に素晴らしい作品でしたね。観るたびごとに全く新しい発見と感動がある作品で、劇場に通うのが、本当に楽しみでした。ベルリンのホテルで繰り広げられたドラマのごとく、演者と観客の出会い方によって、無数の可能性が生まれていく、そんな作品であるという印象を強く持ちました。ウォルフォードさんが常に携帯していたというバウムの『グランドホテル』初版本、常にその原典のテクストに立ち戻るということをされていたようですが、そのように演出家が繰り返していた丁寧な作業が、さらにキャストの皆さんのなかで醸成されていき、それぞれのキャストの方の完成されたひとつのかたちが絡まりあい、絶妙なハーモニーを奏でる・・・、そんな今回の作品のあり方にとても心を打たれました。正直なところ、楽日を迎えてもなお、まだまだ劇場通いしたくなる作品です。映画版、トミー・チューン版という偉大なる古典がありながら、それらとは異なる新たな作品を創り出すことへの情熱が伝わってくる作品でしたし、そんなキャストの皆さんの潔さと気概が本当に心地よかったです。

じゅんじゅんママさんがレポートしてくださったとおり、今日のホールCの熱気と興奮には、ただならぬものがありましたね。そしてキャストの皆さんのエネルギーがギュッと詰まった作品の完成度、素晴らしかったです。冒頭のグランドパレードからラストのグランドワルツまで、もう感動が怒涛のように押し寄せ、涙がにじみ、鳥肌が立つことの、果てしない繰り返しでした。そして、楽日ならではのカーテンコールも、カンパニーの一体感、充実感が伝わってきて、感動でしたね!観客も鳴りやまぬ拍手と客席総立ちのスタンディング・オヴェイションでいつまでも応えていたい・・・、そんな熱気が充満していました。

ユーモアに溢れた小堺さんのお話も楽しかったです。そのお言葉によれば、既にイギリスに帰国されたウォルフォードさんからメッセージが届いて、楽日の公演時間には、今日のこの公演のことをイギリスから想っている、とのことでした。小堺さん、すかさず「多分寝ていて考えていないと思いますけど・・・」という内容のツッコミを入れて、会場の笑いを誘っていました。ウォルフォードさんはイギリスからということなのでしょうが、開演時間の間近になって、1階席の音響さんのすぐ後ろ、つまり最後列の席には、菅野こうめいさんがいらして、カンパニーを見守っておられました。カーテンコールの最後には、メインキャストの方々は、オーケストラのところまで駆け上がって、指揮者の方、オーケストラの方々と握手されたりしていました。20年代ファッションに身を包み、ドラマのなかにも登場されていたオーケストラの方々、視覚的にも素敵でしたが、上演中ほとんど鳴りやむことのなかった音楽、本当に素晴らしかったですね。

今回の青山さん、私としたら、もう素晴らしすぎて、どのように言葉で形容したらいいのか、まだわかりません。初見のときからずっと、ダンサーとしては勿論、表現者としての存在感に圧倒されています。「惚れ直す」のではなく、完璧に「一目惚れ」です。ちょっと今日は簡単に言葉にできそうにないので、一晩漂って戻ってきたいと思います。戻ってこられるか、かなり不安です。言いたいことがいっぱいありすぎて、ちょっとそう簡単にまとまりそうにはない、というのが正直なところです。じゅんじゅんママさんと同じく、私も無意識にトレー持って、踊っているかもしれません・・・。『グランドホテル』の台詞にもたくさん出てきたけれど、「踊る」って、素晴らしいわ、本当に!今回の青山さんを観ていると、乾杯したくなってしまいますね!!




じゅんじゅんママさん:2006/1/24 20:19

ヘーまさん、みなさん、こんにちは。今日、午後から会社をお休みし、グランドホテルの千秋楽に行ってまいりました。ミュージカルの千秋楽は平日が多いので、今回初!千秋楽観劇でしたが、すごい!独特の感動(興奮?)のムードが開演前から漂い、始まる前からワクワクでした。キャストの方からみなぎる気合も違うように思えました。途中、クリンゲラインのズボンがなかなか落ちず、「あれ、あれ。。。」と笑いながら必死に落としたり、とリピーターにしか分からない場面もありましたが、カーテンコールも3回あり、最後は思わず涙がにじみました。青山さんはお休みもなく、明日から「ザ・ビューティフル・ゲーム」のお稽古が始まるそうですが、今度はどんな青山さんを見せてくださるのか。。。。。(私事ですが)今年は本厄なのですが、楽しい舞台三昧の一年になるようで楽しみです。でも、あのチャールストンが見られないかと思うと、寂しいですね。あの青山さんのステップを思い出し、トレーを持って踊ってみたりするのは私だけではないですよね。。。



あゆあゆさん 2006/1/20 02:06

「もう一度みたい!」と私も8日以来ずっと思っていました~。大澄さんの男爵をもう一度観たい!そして岡さんの男爵を少しでも早く観たい!そしてそして、青山さんのチャールストンとあのお姿を~~~、と思いながら、何度「当日券に並んでしまえっ!」の誘惑の声に悩まされたことでしょうか。へーまさんの記事がアップされて、ますます気持ちが高まるなか、やっと本日19日木曜日のソワレに、あらかじめ取ってあったチケットを握り締め、行って参りました!

とにかく感動でした!!!毎回思うことですが、舞台というものは、本当に「一期一会」の場ですね。前回の観劇のときからさらに、カンパニー全体としてものすごく密度が高くなっている印象を受けました。勿論岡さんの男爵も、大澄さんの雰囲気とはまた違った感じです。とっても無責任発言ですが、へーまさん、是非是非もう一度ご覧になってください!!(ホント無責任だな、私って・・・、ごめんなさい。でも、ホントにもう一度観ていただきたいのです~~~。)

そして今日の青山さんですが、もう「最高」です。(舞台での青山さんは、ひとつの作品でも、観るたびごとに「最高」が更新されてゆく感じです。)まず、チャールストンのダンスシーン、私などが言うのはおかしいというのはわかっているのですが、「非の打ち所がない」とはこういうことですね~、「完璧」です!!!月並みな言葉しか出てこなくて、申し訳ないのですが、何度観てもカッコイイんです。これだけです。ファンモード全開にさせていただきますが、どうしてあんなダンスをしてしまうのでしょうか~~~、はあっ~~~、カッコイイですね~~~。「ダンスを多用していないミュージカル」なんて、前回のコメントで書いちゃったのですが、そんなことを言うことがナンセンスに思えてくるぐらい、あのダンスを観ているだけで、もう十分すぎるぐらいにシアワセになってしまいますね~♪青山さんのチャールストンを観ている間は、はっきり言って何も言葉が浮かびません。心の中は、ただひたすら「!(エクスクラメーションマーク)」です。

そして、へーまさんも書かれているとおり、あの「姿勢のよさ、歩き方」、何度観ても本当に説得力があります。青山さんは舞台の上で座ることはないのですが、舞台という台の上に居る、存在している、そのあり方という意味で、はじめからおわりまで「ベルボーイ」としての、あの「居ずまい」みたいなものが、圧巻ですね。(あまりにも上半身、特に背中のラインが美しくて、説得力があるので、上半身を意識して「居ずまい」と言いたくなってしまいます。「たたずまい」という言葉では、あの青山さんを表現しきれない気がするんです。)ああいう青山さんの姿を観ていると、単に「パントマイム」という意味での「マイム」ということだけではなくて、「マイム」という言葉のもともと意味するところが何なのか、そんなところにまで思いが及んでしまいます。

パンフレットのウォルフォードさんの言葉によれば、ヴィッキー・バウムの小説こそが、このミュージカルのエネルギーの源になっているんだと確信した、ということだそうです。「ロンドンの古い図書館の地下で」見つけたというこの小説から、ウォルフォードさんが感じたものはどのようなものだったのか、それがキャストの皆さんの身体を通してどのように見えてくるのか、毎回劇場に行くたびにとても楽しみです。青山さんがこのミュージカルに出演されると知ってまもなく、某ネット書店で、バウムによるこの小説を注文していたのですが、在庫切れとかで、いまだ私の手元にこの小説は届いていません。初見前までは、舞台を観る前に一読しておきたいと思っていたのですが、今はそのようには思っていません。楽日を含めたあと数回の観劇を通して、紙の上に書かれた言葉ではなく、青山さんは勿論、キャストの皆さんが紡ぎだす有形無形の言葉を、観る側としても身体で聴いて、感じてきたいと思っています。

platea(平土間席)より

2006-01-26 | グランドホテル ザ ミュージカル
>myさん

コメント有難うございます。ありのままの、不完全な人間同士が出逢い、空間をわけあい、言葉をかわす『グランドホテル』、どうしてもまた見たくなります。myさんは宝塚版もご覧になっているのですよね、羨ましいです。

 藤木孝さんの、「台詞」であることすら意識させない、憑かれるままに湧き出るかのような演技のせいか、あの回転ドアが、大恐慌前夜、そしてナチスの影がひろがっていく時代を生きたいくつもの魂を呼びさます魔方陣の中心のようにも見えました。その魔が現実に降り立った、観客の一人一人がそんな風に感じていると思います。現代の時間をも吸い込むようにして消えてしまい、私にとっても特別な作品になりました。

 この作品がビジネスとしてどうとらえられているのか、私には想像つきません。でも、観客のこの作品への想いは、ネットの海の1ページにしか過ぎないけれど、少しでも多く記録し、一人でも多くの方の目に触れるよう、残しておきたいと思います。「本当にいいもの、心に響くものが見たい」という見る側の要求って、なんとなく制作側は小さく見積もっておられるような気がして。興行が奇麗事ですまないのはもちろんでしょうが、観客と演者の対話は、私利私欲と離れて、この世を慰める「きれいごと」であってほしいです。皆さんのコメント、無期限でお待ちしていますので、どうぞ宜しくお願いします。

『グランドホテル』千秋楽

2006-01-24 | グランドホテル ザ ミュージカル
千秋楽、おめでとうございます。

 この二時間に満たない作品に、出演者の方々の魅力がぎっしりと詰め込まれていました。それほど多人数でなかったせいもあるとは思いますが、ミュージカルですべての出演者の顔を上演中に覚えてしまったのは私は今回が初めてです。それぐらいに、ひとりひとりのキャラクターに存在感がありました。ウォルフォードさんのワークショップが実際にどのようなものだったのか、一観客には想像もつきませんが、「演劇してます!」というオーラに萎えやすい私にとっては、居心地のいい台詞回しが多かったです。「ミュージカル」というより「芝居」を見た感触ととても似ていて、それがミュージカルファンの方には不満の残るところなのかもしれませんね。

 紫吹さんのフレムシェンは、普通の女優さんが演じたらベチャベチャした感じが出てしまう役を、可愛い鹿のように無邪気に演じて、19才の命が輝くようでした。死を迎えつつあるクリンゲラインが「ついてきてくれ」と頼む気持ちもよくわかるし、魅力的な人はどこか中性的、という言葉を思い出します。また、小堺さんの役者であることをいったんどこかに置いたような、目の力みの抜けた表情で歌う"Table with a view"は、もうすぐ自分のいなくなる世界を抱きしめるような切なさがあって、セットにはないホテルの庭や花々が見えるようでした。

 パンフレットでモーリー・イェストンも語っているように、この後"Some have, some have not"で怒り・不満をぶつける労働者達がナチスに傾倒し、ドイツは闇の時代へとはいっていくことになります。現代に生きているものは、大戦終結の年の荒れ果てたグランドホテル=Hotel Adlon(「グランドホテルの1945年」をご参照ください)も、それがふたたびブランデンブルク門のそばに美しい姿でよみがえったことも知っていますが、その間このホテルが見つめた幾多のドラマも、あの舞台の上に蜃気楼のように浮かび上がっているように思います。それとも、もうこんな時間ですから、セットはすっかり解体されて、また呼び活けられる日まで霧散した後でしょうか。タキシード姿で美しい女性とダンスを楽しんでいた男性も、チャールストンを軽やかに踊っていた青年も、いつかまた「1928年」の空間に姿を現すような気がします。

 公式ブログも消えてしまったようですが、このブログでも何度か紹介させていただき、いつも楽しく拝見していました。最後のバックステージツアーも普段絶対に覗けないところが伺えて、とても嬉しかったです。作成してくださった方々、本当に有難うございました。

I Waltz Alone

2006-01-21 | グランドホテル ザ ミュージカル
小堺一機さん演じるユダヤ人・クリンゲラインを見ていると、ユダヤ教に天国や極楽という「彼岸」がないということがよくわかります。働いて働いて、不治の病におかされてしまった境遇にあってなお、「よりよく生きるため」(がユダヤ教の特色らしいのです)行動をおこす、たとえ最初はお金の力に任せたものであっても、その気持ちに共感し涙するひとは多いでしょう。そして病院を飛び出してきた彼と最初に言葉をかわす元軍医のオッテルンシュラーグ(藤木孝さん)は、彼と対をなすように、モルヒネを打ちながら、少しずつ死んでいるような存在で、メイクもデスマスクのようでした。自殺を禁じられているキリスト教徒という設定なのかもしれませんが、もう一晩、と毎夜滞在をのばし人々を眺めているのは、どこかに「生」への断ち切れない思いがあるからでしょうか。

 幾人もの兵士が、また市民が亡くなるのを目にしてきた医師と、医療による延命を拒否してあらわれる一人の男性。クリンゲラインが可愛いフレムシェンと踊り、男爵と杯をくみかわす一方で、当時飛躍的に進歩をとげ、医療の発達と大量殺戮の手段を同時に生んだ「科学」の担い手である医師は、一個人としての幸せとは隔絶したような時間の中で"I Waltz Alone"を歌います。舞台の上を漂うように緩やかなステップを踏む姿を見ていると、この人の目に焼きついた悲惨な光景が、薄暗い照明の中に映し出されるようでした。

 この痛切な歌の間、舞台上手では事業に行き詰ったプライジングがフレムシェンに服を脱ぐように強要し、下手では男爵が運転手に盗みを命じられ・・・そして青山さんたちアンサンブルは、ほの暗い照明の下、マリオネットの動きを静かに続けるのですが、想うままにならない、自由になれない一人一人にとっての「自分」と、操り糸に吊るされて自分を動かす力を持っていない人形の空っぽな体が幾重にも重なり、この後におきる悲劇の序曲を視覚的に奏でるようでした。すき間風やなにかの振動で人形がわずかに動くような、「動」のとても少ない振りですが、時間と空気の質感まで変えてしまう、「動き」を突き詰めたもので目が離せませんでした。「静止する」ことがここでは「動くこと」と等しく語りかけてきて、その哀感は、いまも鮮明な画像となって記憶に残っています。

 ベルボーイたちが最高の敬意を払ってクリンゲラインを送り出すのは、彼がマリオネットの糸を切り、自分で「よりよく生きて」いこうと歩き出し、若い母親と新しい命を見守る人となったからでしょう。その旅立ちを見つめ、「もう一晩泊ることにした」オッテルンシュラーグの孤独な時間がそれで終わったわけではないでしょうが、彼が亡くなるときには、クリンゲラインのことを思い出し、二人でゆったりとワルツに身を任せたかもしれません。

Maybe My Baby Loves Me

2006-01-20 | グランドホテル ザ ミュージカル
アメリカを代表する芸術大学であるジュリアードでダンスを学んだ青山さんがジャズを踊る、これを見ないで「日本のダンサーがジャズを踊ると・・・」なんて語ることはできません。「狭いスペースでジミーズとしての演技を交えて」なので、ご本人としては技術的に必ずしも「全開」モードではなかったと思いますが、あの「ノリ」をこの目で見られて本当に嬉しかったです。「音楽に乗る」といいますが、この曲での青山さんの足はフロアを蹴っているというより、まるで音の上を戯れながら渡っているようで、この言葉によって「意味されるもの」を目にしてしまいました♪

 そしてまた『ウエストサイドストーリー』ではジェローム・ロビンズの要求どおりであろう、クラシックバレエの特徴である外股=アンドゥオールを駆使しながらジャズを見せてくれた(「WSS-Koji Aoyama Plays it Cool」を読んでいただけたら幸いです)青山さんですが、爪先を内側に向けてのステップ(は"The Grand Charleston"の特徴でもあります)も自由自在でした。この人の関節の可動域の広さは天賦のものとしか言いようがありません。おどろんぱでいうなら「はしれ!」や「ジャンプしてキャッチ」の開脚ジャンプで強くしなる脚、「ことばでアクション」では肩を叩きそうな足先、またグレイウォーターズ役で見せてくれたうねるような腕の動き、・・・関節の形状、靭帯の強さ、筋肉の質・・・などもろもろの条件がすべて揃っているんだろうな、としみじみ思います。ジュリアードの入学試験はその時点の実力に加えて、その後どれだけ伸びる人材かを重視する、とききます。なるほどですよね。

 もちろんご本人のダンスへの想いと努力も大きいとは思うのですが、これだけ恵まれた身体条件に、あの音楽性の豊かさを兼ね備えているのですから、「天はニ物を与えず」の愛すべき例外、ということなんでしょう。今はさらに歌、演技とますます表現者としての幅を広げておられますが、たぶんダンスの女神も音楽の女神も貴方を愛してる、その愛情が変わることはない、と思わずにはいられない"Maybe My Baby Loves Me"でした。これからも三物、四物と、詩神たちと相思相愛のところを見せてくれるに違いありません。

大澄男爵 千秋楽

2006-01-19 | グランドホテル ザ ミュージカル
ラフレシアのような赤い薔薇の作り物に眼を奪われないようにしながら、大澄さんの笑顔の魅力を存分に見せていただきました。ダンサーとしてずっとキャリアを積んでこられた大澄さんにとって、一番得意なものを封印しての舞台ですが、私の目にはとても魅力的に見えました。男性ダンサーは、一流スターであっても「パートナー(女性ダンサー)のために踊っている」と明言する方もいるくらいで根っからの紳士が多く、大澄さんもそんなジェントルマンぶりがにじみ出ていたように思います。

 男爵とはいっても、ドイツでは1919年のワイマール憲章ですべての特権が廃止されたため、彼は「名前だけ」の貴族であったことになります。また、戦場では弾にあたらなかった、という歌詞が出てきますが、1928年、といわれている作品の設定からすると、「29才と29か月」ならば、20才前後の青年期を戦時下ですごしているので、子どものときはいざ知らず、優雅で安楽な時間とあまり縁のない人生を送ってきた「男爵」のようです。そう思うと、グルーシンスカヤの舞台の想い出を熱く語り、自分の能力で生きてきた彼女の内面に魅かれるというストーリーにも説得力を感じますし、よからぬ輩にいいように遣われている寄る辺なさも理解できます。

 この作品に初めて接して、最初に感じたのは敷き詰められた絨毯のように「説得力」が物語を支えていることです。たとえば青山さんのベルボーイも、あの姿勢のよさ、歩く姿で「ああ、ここは世界でも有数の一流ホテルなんだな」と視覚的に分りますよね。ウォルフォードさんの演出については賛否両論のようですが、たとえば「三忍者」で青山さんが自由に踊っている(もう本当にカッコよくって素敵なんですけど~)のとはまた違う魅力が見えてきたのも事実です。大澄さんのファンの方もそうなのではないでしょうか。演じる方たちが、それぞれの個性と共に、絶対に自分からは見えない面を無意識に輝かせているような感じのする舞台でした。そしてそれがウォルフォードさんの手腕によるものならやっぱり凄い方だと思います。

 それにしたってあの薔薇は少し強烈すぎました。大澄さんなら黄~クリーム系の優しい色の薔薇の方がお似合いのような気もしますし・・・。岡幸二郎さんはどんな色の男爵なのでしょう。『グランドホテル』、もう一度見たい、の一言です。

カラス舞う空の下

2006-01-18 | グランドホテル ザ ミュージカル
 前田美波里さん、とても綺麗でした。バレエファンですから当然気になっていて、BW版の写真や公開舞台稽古の写真を見て、率直なところ「亡命したであろうロシアのバレリーナが革命のシンボルカラーの真っ赤なコート・・・すか・・・。」と思っていたのですが、パンフレットのモーリー・イェストンのインタビューを一読して納得、すっきりと観劇できました。それによると初演時に、グルーシンスカヤ役のフランス人女優、Liliane Montevecchiのために、このバレリーナを「名前がロシア風のフランス人」の設定にしたということです。

 ロシアのバレリーナは内面はさておいても、外見は楚々とした方が圧倒的多数、体重増のために解雇されたバレリーナが話題になったことがありましたが、本当にロシアのプリマには顔の小さい、折れそうに細い、お人形のような美女が多いのです。

 でもパリオペラ座はちょっと違って、現役ではマリ=アニエス・ジロ、引退した方ではマリー=クロード・ピエトラガラなど、長身でダイナミックな個性のバレリーナが活躍していて、美波里さん、このお二人に感じがとてもよく似ておられました。チュチュも映画版よりずっとセンスのいいもので、よかったと思います。

 そしてその友人役の諏訪マリーさん、踊る方だということをネットで知り、その面が伺えず残念でしたが、ただイタリア人というだけでなく、南部アクセントな"Pronto!"の発音が、BW版"Villa on a Hill"で歌われているイタリア南部のリゾート地、Positano(日本版では歌詞に出てきません)の近くの出身かな、と思わせてくれました。複雑な感情の殆どを歌で表現する、というのは、やはり「イタリア人」の設定からでしょうか。綺麗で表情豊かな歌声でしたね~♪ (イタリア人イコール歌が上手い」は罪のない偏見ですが、イタリア人で音痴だと、外国で肩身が狭いらしいです。)

そして、そんななめらかな歌声と対照的に響く、田中健さん@プライジングの" The Crooked Path"は、上空から不吉な鳥が、これから起きる悲劇を察知して集まって来るようで、強く印象に残ります。青山さんの「カラス」、二年ほど前に松戸で見たミュージカルの「グレイウォーターズ」みたいなダークサイドの魅力が少し味わえて希少価値でした。この青山さんはお酒にたとえるなら、南イタリアのワイン「コルボ」の赤、そのまんま「カラス」という意味です。たとえてないか・・・。でも虫の好くワインなんです。 

記憶のソファ

2006-01-16 | グランドホテル ザ ミュージカル
「ダンスシーンが少ない」そうした噂を耳にして、一ダンスファンとしては正直なところ気落ちしていたのが嘘のような、深く静かな満足感を『グランドホテル』は与えてくれました。昨夜も書いたチャールストンをCDでエンドレス再生しながら、香気立つようなステップを頭の中で反芻して楽しんでいます。蒸留酒をスピリット、と呼ぶのをなんとなく不思議に思っていましたが、青山さんのチャールストンは、まさにチャールストンの精霊/spiritが姿を現したように、人の心を酔わせて芳香を放つスピリットそのものでした。

 そして心も体も踊る様なチャールストンと対照的に、インフレの進む敗戦国であったドイツで、「ベルリンで最低のこの仕事」をしながら生きる労働者の気持ちを吐き出す"Some have, some have not"があることで、抑圧される黒人の深い悲しみと激情を分け合うように「ジミーズ」(BW版はアフリカ系アメリカ人)がジャズに魅了されているような気がして、改めてこの日本版のプロットの有機的な連続に引き込まれてしまいました。

 確かに舞台上のスペースはとても狭くて、街のバレエ教室でもこの倍くらいは・・・とは思います。自身ブロードウェイのダンサーであったトミー・チューン版で来日公演があり、まして宝塚もチューン本人を迎えて上演しているとなれば、今回の公演でダンスをフューチャーする、というのは最初から方向としてなかったのかもしれません。でも、ダンスに適しているとはいえない条件下で、アンサンブルの方たちがここまで精度の高いダンスで魅せてくれるとは誰も思っていなかったでしょう。『ウエストサイドストーリー』『ボーイ フロム オズ』『テネシーワルツ』などで拝見している佐々木誠さん、中村元紀さん、上野聖太さんたちが、満員の会場の空気を何度も吸って、どんどん魅力的になっておられるのが観ていて楽しいです。

 作品の冒頭、あゆあゆさんが書いてくださったとおり、青山さんたちがスローなマイムでホテルの中を動きます。それを見ていると、まるで当時のロビーのソファで、その光景を眺めていた方の記憶の中に滑り込んでいくような気持ちになります。この『グランドホテル』の重層的な空間は一度や二度では味わいきれないかもしれません。お近くの方、わたしはとっても羨ましいです、どうぞまた足をお運びください。

上質のブランデーのような"The Grand Charleston"を

2006-01-15 | グランドホテル ザ ミュージカル
やっと見ました『グランドホテル』。音楽は前評判どおりですが、私は台詞も人物像が浮き上がるようで、素晴らしいと思いました。作品そのものについてもいくらでも書くことはありますが、やはり今夜は青山さんのチャールストンです。

 舞台下手から出ていきなりのピルエット/ジュッテ・アン・トールナン+ドゥブル・トゥール・アン・レールと、ファンなら「待ってました!」のこの曲、パンフレットにもあるように、1920年代に入ってから流行した「観るだけでなく踊るためのダンス」には違いないんですが、洒脱な、という表現がぴったりの青山さんのチャールストンは、そのだれもが楽しむダンスを蒸留して、内側から光るブランデーに仕上げたような感じ(酔ってる)。音楽とはじきあうようにして刻まれる軽妙なステップは言うまでもなく、ポーズからポーズへ移る時のスリリングでいて流麗な動き、肩にも指先にもあふれる表情、どれをとっても本当に素敵でした。これだけの踊りが見られる場所は他にはそうありません。

 しかもそれはただ素晴らしいダンス、というだけでなく、全編が『グランドホテル』の時代を語る「演技」であるということを強く感じさせてくれるものでした。「バレエは流行おくれ、これからはジャズ」という台詞の示している時代、若い国アメリカから入り込んできたリズムに、ヨーロッパの伝統と敗戦の疲労のなかで生活している青年の目の前がパッと開かれるような感触が伝わってきます。たまたま私がバレエファンで、19世紀から20世紀初頭に作られた作品に親しんでいることもあるかもしれませんが、人種のるつぼの新しい国がアフリカのリズムを吸い上げて生んだ新しい音楽が、このとき見慣れぬ美しい獣のようにヨーロッパの人々を魅了した、そのことが実感できるダンスでした。

 そしてまた一方で、青山さんがターンするたび燕尾服のテールがすーっと綺麗に宙を切るのを観ていると、脳の中で日本舞を見て美しいと感じるのと同じ部位が刺激されている気がしました。「三忍者」を見ても明らかなように、「欧米のダンサーのように」素晴らしいのではなく、青山さんの身体の描線というのは、あれだけのリズム感に矛盾することなく、どこかにいつも「所作事」の美しさに通じるところがあるのです。今に始まった事ではないけれど、青山さんのダンスの複雑で魅力的な多面性が、いつもより強く感じられる舞台でした。皆さんがおっしゃるようにダンスはそう多くない、多くないんだけど、長いリハーサルで費やされた時間が、きちんと結実しているということなのだと思います。

 今夜はまだ言葉が追いついてきません。この作品、とにかく語りたいことが一杯です。理想はブランデー片手に夜の明けるまで、なんですが・・・。

Guest Room of "GRAND HOTEL"

2006-01-15 | グランドホテル ザ ミュージカル
公演が終了いたしましたので、お寄せいただいたコメントを記事としてアップしました。もう一度この時間に戻りたいような気も・・・。(1月28日)



[ じゅんじゅんママさん 2006/1/7 21:58]

へーまさん、ご覧のみなさま、こんにちは。

本日グランドホテル2日目、行ってまいりました!!!!!
まだ興奮冷めやらず、PCの前に座っています。まだご覧になっていない方のほうが多いので、内容のほうは差し控えますが(がまん)、今までとはまた違った青山さんでした。もちろん、大感動です。さて、今夜は眠れるでしょうか。。。

そして!次回の公演のお知らせがありました。
パンフに載っているので、もうオープンだと思われます。(よね?青山さん)

作品:「ザ・ビューティフル・ゲーム」(主催:フジテレビ、関西テレビ)
アンドリュー・ロイド・ウェバーの傑作ミュージカル日本初上演!とのこと。
公演日:
東京(青山劇場)2006年3月27日~4月15日
大阪!(NHKホール)2006年4月23日~26日
チケット発売は、2/18(土)からだそうです。カレンダーに赤○です!

今年も青山さんからは目が離せませんね。
なお、ご参考ですが、グランドホテル中は休憩がありません。
ので、女性のみなさま、お気をつけください。
だいたい1時間50分くらいですが、あっというまです。

と、ひとりで盛り上がり、長文になりましたが、
また楽日を迎えて、みなさまのコメントが楽しみです。
もちろん!楽日はまいります!!!(会社はお休み・・します。)
では!


[あゆあゆさん: 2006/1/08 02:13]

本日7日、『グランドホテル』観て参りました!じゅんじゅんママさんが書かれていたとおり、「今までとはまた違った青山さん」ですよ!今回は、基本的には、ベルボーイを演じておられますが、Who Couldn’t Dance with You?では、カップルでダンスを楽しむホテルのゲストを演じておられます。そして、BW版では、ジミーズはアフリカ系アメリカ人の二人組という設定だったようですが、今回は青山さんを含めた数人の男性アンサンブルがジミーズという設定になります。

とにかく今回の見どころは、「青山さんが踊るチャールストン」ということだと思います!!「青山さんがチャールストンを踊るのを、この眼で観られてよかった!」というか、「チャールストンを青山さんで観られてよかった!」というか・・・、なんと言ったらよいのでしょう。とにかく私は客席に座っていて、何ともいえない幸福感に包まれたのです。気持ちが華やぐ、ざわめく・・・、the Roaring 20’sと呼ばれていた当時の人々が刻んだ身体と心の感覚って、こういう感じだった・・・?と独りよがりかもしれませんが、感じていました。ちなみに、青山さんのチャールストンが観られるのは、Maybe My Baby Loves MeとThe Grand Charleston(BW版では、H‐A‐P‐P‐Y)です。非常に短いですが、紫吹さん@フレムシェンと青山さんが向かい合って踊るシーンもあって、最高です!フレムシェンと言えば、Girl in the Mirror(BW版では、I Want to Go to Hollywood)のシーンも素敵です。この曲、初めてBW版で聴いたときから、紫吹さんのフレムシェンで観たら最高だろうな~、と密かに期待していたのですが、コケティッシュな魅力で、予想どおりでした!この曲の後半部分でも、青山さんをはじめとして数人のダンサーが登場し、紫色の燕尾服で盛り上げます。とにかく青山さんがチャールストンを踊りだせば、舞台の高揚感、そして舞台に漲るエネルギーが俄然違ってきます。現代の曲で「人間リズムマシーン」になる青山さんは、これまでたびたび目撃してきましたが、1920年代を彷彿とさせる曲で「人間リズムマシーン」になる青山さんは、ものすごく新鮮だったし、身体中からエネルギーが溢れ出ていました!最高です!

それから、Who Couldn’t Dance with You?では、タキシード姿でホテルのゲストとしてペアダンスをする青山さんを堪能できます。OZでも香港のヒルトンホテルのラウンジでダンスをするシーンがありましたが、今回はもっとクラシカルで端整な雰囲気です。背中から腕のライン、青山さんはやっぱり美しい!!!初日の日の「めざましテレビ」でも、ラストで、キャスト全員が一列に並んだところが映ったのですが、青山さんの背中のラインの美しさは、シルエットだけでもすぐわかりました。そして今回はなんだかとても透き通っている雰囲気で、デヴィッド・ボウイにも通ずる貴公子ぶり!!堂々としたリードの仕方には、余裕と自信が感じられて、素敵でした~。もし青山さんのこのタキシード姿を、神崎順☆様もご覧になったら、きっと大きくうなずかれるに違いありません。

確かに、今回のウォルフォード版『グランドホテル』は、ダンスを多用している作品とは言えないと思います。また、WSSやOZ、そしてテネシーワルツで眼が慣れている青山ファンにとっては特に、たくさんのダンサーが大勢で踊るスタイルのダンスを想像して観劇すると、イメージとのギャップを感じるかもしれません。しかし、現代からは遠い世界である、1920年代のベルリンという場の気分を、このミュージカルで再現しているのは間違いなくダンスで、同時にとてもエンターテインメント性の高い場面になっていると思います。そしてとりわけ青山さんがチャールストンを踊りだすと、ダンスシーンがぐっと凝縮される感じがして、観客は直球を打ち込まれた気分になるのは確かです。

「ストップ・モーション」、「からす」、「人形振り(マリオネット振り)」についてもお話したいのですが、今日は特番が始まってしまうので、このへんで、失礼します。明日また観劇の予定なのですが、この続きはまた明日の夜にでも・・・。

[あゆあゆさん 2006/1/9 02:46]

本日『グランドホテル』2回目観劇(8日のソワレ)に行って参りました。さてさて昨日の続きです。・・・と言うよりは、2回目の観劇を終えて、この作品の風合いというか、肌触りというか、感触というか、そういうものが私自身にとても馴染んだという気がしています。昨日は、深夜の特番見たさに時間切れということもあって、「青山さんのチャールストン」を中心にお話しました。生を謳歌する当時の人々の息づかいを感じることができるような、また登場人物の感情の高まりを表現しているようなチャールストン、今日も最高でしたが、こちらは一度観てしまったら、中毒です。私は、7日の初見から今日の2回目まで24時間あるかないかでしたが、禁断症状が出ました。これから次の観劇までちょっと間があくので、どうやって毎日を過ごそうかと思っています。しかし、今回の青山さん、いわゆる「ダンス」だけではありません。「ダンス」ではない、「身体の表現」に最初から最後まで注目です。青山さんの非常に肌理の細かい「身体の表現」を見ていると、今回の作品で「ダンス」を多用していないことにも納得のいくような気持ちになります。これからご覧になるファンの方々、チャールストンを踊る青山さんは最高ですが、最初から最後まであの肌理の細かい身体の表現の仕方にどうぞ注目してください!私としては、この作品では、いろいろな意味における「マイム」的な青山さんの魅力全開という気がしています。

例えば、冒頭の「グランドワルツ」でのマイム表現。そしてプライジングの歌う「歪んだ道」での「カラス」、全てが幸福に向かうかのように見えたのに、男爵が命を落とすシーンに進んでゆく寸前の「マリオネット振り」(ここでは皆がハッピーに歌い踊ったはずの「グランドチャールストン」が全く違った趣で奏でられます)・・・などです。他にも細かいところ挙げだすとキリがないので、このぐらいにしておきます。とにかく一瞬一瞬眼が離せませんよ!

今回の青山さん、とりあえず区分してみると、ベルボーイ、ジミーズ、ホテルのゲストという3役を演じておられると思います。衣裳の方も、赤系でまとめられたベルボーイの制服、ジミーズ(あるいはベルボーイ?)の紫系の燕尾服(服飾史的には、名称ちがうかも・・・)、そしてゲストの黒タキシードと変化します。勿論、衣裳を着替えて次のシーンに登場すれば、例えばベルボーイからジミーズ、そしてゲストと変わっているのですが、ベルボーイとしてその場にいる、あるひとつのシーンのなかでも、キャラクターとしての「質感」が変わるというか、「モード」が変わるというか・・・。そういう変化みたいなものを青山さんは、非常に繊細に演じておられるのです。

例えば、冒頭の「グランドパレード」、オーケストラの始まりとともに、藤木さん@ドクターがモルヒネの注射を腕に突き刺し、「物語」が始まるのですが、ロビーにあちらこちらから登場してくるアンサンブルたちのダンスではない、「身体による表現」に注目です。この曲のなかでは、どこか眼の前にいる生身の人間でないような空気感が漂っていて、「マイム」的な動きをする場面があるのです。つまり、実際のゲストもいないし、実物のカバンもないのだけれど、彼らはマイムの動きでホテルの従業員としての業務をこなしてゆく・・・。そして、やがてそのシーンが、ゲストたちが訪れる現実のホテルの一日へとパッと変質するのです。青山さん演ずるベルボーイも、人格、あるいは感情を持つひとりの人間として眼の前に急に現れる・・・。それまでは、どこか夢の中にいるような、現実味のない出来事のような印象を与えていたにもかかわらずです。観客が「物語」に入っていく仕組みなのでしょうが、この作品の至る所で、そのシーンの質感、肌触りを決定するような部分に、アンサンブルの「身体による表現」が関わっているような気がします。

藤木さん演ずるドクターは、最初から最後までずっと、ホテルで繰り広げられる出来事を、自分の人生も抱えながら、見続けるという「ストーリーテラー」であり、「目撃者」であり、とても存在感のある不思議な役どころなのですが、ある意味アンサンブルが演ずるホテルの従業員たちも、「目撃者」のような、あるいは「人生を思わぬ方向に動かしてゆく、眼には見えないなにか」、そんなものとしての役割を負っているような印象を受けました。

7日の「初見」の後、心のなかにふんわりと漂う、この作品の「残り香」みたいなものがずっと気になっていました。パンフレットのウォルフォードさんの言葉によると、「イリュージョンのような光景と、人生の波が溢れ出てくるような巨大なエネルギー。そういった感覚を劇場で表現したい」ということです。ウォルフォードさんがおっしゃる「イリュージョン」とそのような「エネルギー」、今はまだうまく言葉にできませんが、私が感じた「残り香」のようなものにつながっている気がしてなりません。

とりとめがないうえに、抽象的かつ個人的な感想で申し訳ないのですけれど、今日はここまででとりあえず送信・・・。


2006/1/9 12:00

昨晩投稿した文章(これのすぐ前のコメント)に訂正箇所があります。2段落目の最初、「例えば、冒頭の「グランドワルツ」でのマイム表現」のフレーズで、「グランドワルツ」としたところは「グランドパレード」の誤りです。訂正してお詫びします。うち間違いでした。ちなみに「グランドパレード」は、冒頭と、物語の終わりの部分で奏でられる、テーマソングのような曲です。「グランドワルツ」は、フィナーレで最後に奏でられる曲です。皆さんご存知かと思いますが、誤解を招くといけないので、念のため。


回転ドアと四門出遊

2006-01-13 | グランドホテル ザ ミュージカル
また歌舞伎の話からでごめんなさいよ。(口調まで歌舞伎調。かぶれやすい)

 松竹座・昼の部の仁左衛門・玉三郎の『十六夜清心(いざよいせいしん)』、僧侶・清心が遊女・十六夜に夢中になり追放され、心中しても死に切れず、泥棒になり・・・という話なんですが、立場は違っても、高貴な存在である男性が泥棒に転落する、という設定、『グランドホテル』とも共通してます。また、もう一つの演目、『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』というのは芝居の半分くらいが切りあいのすさまじい演目で、仏倒しと呼ばれる大技(襖を使ってお立ち台(?)をつくるのです)をはじめとして、背景の襖を一気に外して奥行きの広がりをパッと見せたり、迫真の階段落ちがあったり、あの手この手で「死にゆく様」を表現する、歌舞伎演出のさまざまな手法が堪能できる演目でした。

 ピストルが登場してから、芝居のなかでの殺人も随分変わったのだろうと思います。「切り合い」のような劇的・時間的なひろがりのなかで描くものではなくなり、運命を一転させる一瞬の惨事というかたちが増えたのではないでしょうか。でも、『グランドホテル』の"Roses at the station"は、銃声の鳴り響く一瞬をスローモーションで見せてくれるような曲で、人が死ぬ、その瞬間に頭の中を走馬灯のようにめぐる想いを語りかけてくる気がします。私はミュージカルに疎いので他にもそんな作品はたくさんあるのかもしれませんが・・・。

 いろいろな方のこの作品への想いを読んでいるうちに、この作品には「生老病死」が描かれていることに気がつきました。エリックに子どもが生まれ、グルーシンスカヤは老いにおびえ、オットーは不治の病にかかり、男爵は死に・・・。ヴィッキー・バウムが仏教者だったとはとても思えませんが、この作品の力は文化の違いを超えて人間の普遍的な姿を見つめ、的確に切り取ったところにあるのかもしれません。出家するとまではいかないけれど、こういう作品が愛される日本って捨てたものじゃないですよね。僧侶が盗みをする芝居を見続けるところも。