platea/プラテア

『ゲキxシネ五右衛門ロック』『The Musical AIDA』など、ミュージカルの話題作に出演の青山航士さんについて。

脳内おたのしみかい

2005-02-26 | うたっておどろんぱ!
「めぐりあいっていいね」

 毎年新しいバージョンが発表されるこの曲、私も思いいれは深いです。'02年版の2コーラスめ、しなやかにたわむ後姿に目を奪われ、'03年はソロバージョン、コスプレバージョン、ユニフォームバージョンと立て続けにオタク心をくすぐられ、あけて'04年、昨年度最後の回には、とてもスニーカーをはいているとは思えない、トゥール・アン・レールの前にピルエット3回が入るアップグレード版まで披露され、ファンは「ついにお別れか」と涙ながらに覚悟を決めたことでした。

 クペ・ジュッテまたはトゥール・ド・レンと呼ばれる、背中を大きく反らした跳躍での登場、右足~腰~左足の軌跡が綺麗な円弧をダイナミックに描いて、一瞬なんの番組だかわからなくなりますよね。コスプレ編('03)警察官姿でのフィニッシュ・ポーズもあまりのカッコよさに自宅でスタンディングオベーションしてしまいました。

 ・・・でも私のベストはなんといってもソロバージョン。時間を圧縮し、空間を拡張するような、歌詞にも出てくる「大きな世界」が感じられました。特に、ダンスの型にはまらない部分の深い情感にあふれた表現には新しい「舞」の予感まで覚えます。技術を駆使した部分も勿論素晴らしく、最後の跳躍は開花を一瞬のうちに見るような、青山さんならではの清新さにあふれていました。

 ううむ、書き始めはこれまでのベストを選ぶつもりだったのだけど「めぐりあい」だけでこんなことになってしまった。あゆあゆさんにいただいたコメントに「からだはドラム '02」はベスト5にはいる、とあって、とっても賛成なんだけどあと4曲ってどの曲なのかな? 「落ち葉」「彗星」「ことばでアクション」「マネトリックス」でもう4曲。「わたしはブラックオドレーヌ」や「チャレンジダンス」も入れたい私には到底ムリな「ベスト5」。決断力のある方からのコメントをお待ちしています。

Gee, Officer Krupke/ダンサーという夢魔

2005-02-23 | ウエストサイドストーリー
  時々、なぜダンスを見るのが好きなのかな、と改めて考えます。理由は色々あるのですが、ひとつには、自分の中の、言葉にならない、なにかの形にすることのできない、保留したままの感情を、優れた表現者が目の当たりに見せてくれると、まるで「覚醒夢」のようでやめられない(危険?)、ということだと思います。

 以前、あゆあゆさんと話題になったニジンスキーのファンという人たちも、動く姿を見ることはなくとも、残された写真によって、言葉ではたどることの出来ないさまざまの感情を掻き立てられたり、自分の心と向き合ったりしているのだという気がします。伝説には事欠かない彼は、跳躍ばかりを話題にする観客に向けてか、自身の振付作品「牧神の午後」では全く跳ばず、さらには「バレエの」というだけでなく常識そのものを覆すように、愛を受け入れてもらえない孤独な終末を自慰行為によって表現しました。

 20世紀初頭の事ですから、一部の芸術家の熱狂的な支持の一方で、「フィガロ」誌の編集長をはじめとして激しい拒絶反応を示す人が多く、批判の的ともなったようです。その写真は、普段人間が押し隠している心の奥底をのぞき見るような、夢魔のささやきが聞こえてきそうな雰囲気に包まれています。

 WSSにもSomewhereという美しい夢、そしてそれと対をなすように、悪夢のような現実をうたった"Gee, Officer Krupke"があります。ぱっと聞くと軽快でいかにもミュージカルらしいナンバーなのですが、「牧神」から50年後のアメリカでもこの曲の歌詞について製作側は難色を示したといわれています(それでも今日のような形で上演されているのは、歌詞に出てくる"tea"がスラングで麻薬を指していることを担当検閲官が知らなかったから、とか)。確かに現代人が聞いても、児童虐待、ドラッグ、性的倒錯と衝撃的な内容で、自嘲し、自分の傷口を広げる以外にどうしていいのかわからない若者の悲痛が生々しくのしかかります。

 映画版のこの曲の撮影にはロビンズ(彼も「牧神の午後」を振付けています)は全くかかわっていないということですが、今回のマクニーリー版では社会・大人への不満だけでなく、性的なフラストレーションを示唆する演出で、親の愛も受けられない、「牧神」と同様、誰の愛も手にしていない彼らの暗部を映し出していました。そのことによって、「トニーを救う」善意によって訪れたアニータに暴行を働くという悲劇が、突発的なものとしてでなく、残酷な必然性をもって浮かび上がりました。リーダーの死後、お祭り騒ぎのように歌い上げられるそれは、まるで悪魔の高笑いを浴びながら、不幸への坂道を転げ落ちていくリズムのように聞こえます。

 悪夢が見たいわけではありません。でもそれが、今こうして過ごしている日常のすぐそばにあるということは、毎日の新聞の見出しを読むだけで充分わかります。優れた表現者が見せてくれる夢が「見たい」というより、ただそこから目を離すことができないのです。

TheDance at the Gym

2005-02-18 | ウエストサイドストーリー
WSS初演の際、リハーサル中も役作りのため、JetsとSharksはお互い親しくしないよう、ランチなども一緒にとらなかったと言います。なかでも、この体育館のシーンは全く別室で、曲全体を聞くことすらなく、ましてお互いのダンスを見ることもなく稽古を進めたので、初めての合同リハーサルの時には、物語そのままに熱いダンスバトルが繰り広げられたとか。その場の興奮、すごかったでしょうね。

 このシーンの青山さんは、あまり視線も高くあげず、会場を見据えることもなく、自分のなかのエネルギーを放出するために踊りに来た青年らしい演技/ダンスを見せてくれました。冒頭のソロパートなど、バレエなんかやったこともない、見よう見まねで回ってるだけ、という感じがよく出ていて、口笛でも吹きたい気がしました(残念だけど吹けません。だれか教えて・・・)。クラシックを学んだ人がこの手の「カッコイイ」ダンスを踊ると、どうしても回転系の技術で、そこだけフリルがついたように浮いてしまうのを目にする事がよくありますが、青山さんの表現の幅の広さは通常のダンサーという枠には収まりきらず、「役者」の領域をカバーしているように思います。また、トニーとマリアの出逢いのシーンに入る前、ラインを組んで全員が同じステップを踏む場面(映画版では横から撮影されています)、時間的にはとても短く、照明もかなり暗いのですけど、一瞬の動作のうちにも微妙な緩急があって、とにかくカッコいいの一言につきました。

 ここのシーンに欠点があるとすれば、青山さんのもっとラテン調なダンスもみたくなってしまう、というところでしょうか。バーンスタインが、自分の作品はラテン的なものが多く、WSSは特にそうだとコメントしていました。「マンボ」や「チャ・チャ」は言うまでもなく、ジャズの「クール」でもボンゴを用い、「ランブル」にもキューバやメキシコのリズムを取り入れたということです。そして青山さんのダンスにもそんな文化のハイブリッド感はものすごくありますよね。とくに「からだはドラム '02」の人間パーカッションのような動きは私のアジア人のダンサーに対する偏見を一気に打ち砕いてくれました。(その直後「森羅」を見たのです)

 街にインテリジェント・ビルが立ち並び、そのなかにお蕎麦屋さんがあって、隣はチャイを出す喫茶店、家に帰れば靴を脱いで畳の部屋でパスタを食べ、ウーロン茶を飲んで・・・ある意味でアメリカ以上に文化という文化がいりまじる日本だからこそ生まれるものもあるはず、そんな期待に答えてくれる表現者はまだとても少ないように思います。でも、青山さんは間違いなくその一人で、どんなリズムのどんなダンスも踊りこなすように、何にも侵されない部分を保ちながら、聖にも俗にも容を変えて空間を彩り刻んでいく、いかにも東京という街にふさわしい表現者だといえるでしょう。

 振付の変更はまず無理なうえ、これだけ有名な作品になってしまうと、最初に書いたような演出はもうありえないけれど、一度でいいから青山さんの「本当のダンスバトル」が見てみたいものです。・・・かっこいいだろうなあ。


春が来るたびに

2005-02-13 | うたっておどろんぱ!
やまぶきさんの照井さんファンサイトさんで知りましたが、平成17年度も現出演者でおどろんぱ続行なのだそうです。NHKの担当者さんのメールによる情報ということで、告知なさってました。ここで言ってもなんですが、有難うございます! 実は私、今年度は特別、この春限りなのよね、と思い込んで問い合わせもしてませんでした・・・・。たくさんのファンにとって、舞台を見に行く事が「旅行すること」になってしまう現実を思うと、本当に最高のニュースですね~♪

 今年第一回の「ステップステップ」、ギャグを連発しながらも、青山さんならではの軽やかさが圧巻でした。以前クラシックおたくの友人が、名ピアニストはどんなに早く弾いても、レコード(なんて懐かしい響き・・・)の速度を落として聞くと、メトロノームに合わせたように正確なリズムを刻んでいると話してくれた事があるのですが、青山さんのダンスにも同じ事が言えます。

 音を聞いてから体が動くのではなく、青山さんのなかに音楽がある、としか思えない精巧さと躍動感の一体化、その辺のダンス公演ではなかなか見ることはできません。教えられたり努力したりして身につくものではなく、天性のものなのかもしれませんが、日本にこういうダンサーがいるとは、青山さんを見るまでは思ってもみませんでした。また、観客を喜ばせながら、こんなに高い技術を見せることが出来る人がいるというのは今だって驚きです。

 芸術が多くのひとのものであるように、WSSから感じたそうした気概を、テレビ画面にも感じさせてくれる青山さんが、また春からこの番組で何万という子供達やお母さん達、たまたまTVをつけた視聴者に出会われるんだな、と思うと、嬉しい気持ちで一杯になります。

WSS-Koji Aoyama plays it cool

2005-02-11 | ウエストサイドストーリー
「月刊ミュージカル」の昨夏のWSS特集に、青山さんの完璧なフォルムを捉えた小さな写真が掲載されています。"Cool"の一場面で、両腕は上に、脚はクラシックでいうアンドゥオール、真横に高くあげられ、力強く伸びてまるでグラン・バットマンのお手本のようです。でも、そこにはクラシックの「それらしき」匂いはまったくありません。

 イギリスの批評家Kenneth Tynanが「コブラのように滑らかで野性的」と称したバーンスタインの曲さながらに、全方向に自由にしなる鞭のような肢体には、若者の方向を見失ったエネルギーがみなぎっていました。上記のように厳格なクラシックの型を守っているにもかかわらず、まるで一瞬の激情を暴発させた即興的なもののように見えました。

 それは作品冒頭のJet Balletで見せるSharksの一人とのからみのシーンも同様です。「都会の若者の喧嘩」が、上演のたびに息をもつかせぬ高い技術の連鎖によって鮮明に生々しくその場で生み出されていました。そのダンスは、ただ「鑑賞される」ためのものではなく、「人の心を掴み、ドラマに引きずり込む」べく、ダンサーの自己顕示欲などさしはさむ隙間もないぐらいに精緻に計算されたものだったと思います。

 "Cool"に話を戻すと、青山さんにスポットの当たる部分(映画版でA-Rabが踊っています)では、妖気が漂うほどの緊張感が、狂ったような笑い声とともに舞台を貫きました。その後二人の若者が殺される悲劇に落ちていく、怖気の走るような予感が彼らを襲っていることが感じられ、会場は鬼気迫る雰囲気に呑まれました。もうそれはダンスだ演技だという境界などなく、「魔」のさす空気を舞台と会場とが共有した瞬間だったと思います。そしてそれもまた、偶発的なものでなく、上演のたびに正確に再現されたのです。

 いわゆる古典バレエなどは、型どおりに上演されているような印象があるにもかかわらず、実際にはかなり自由に上演のたびに振付が変更され、ダンサーが自分の長所をふんだんにアピールする場が必ずあるものです。しかし、振付の変更がまず認められないWSSでは、作品に対する、表現者としての謙虚さと誠実さが、高い技術と同等に求められているような気がします。すべての動きが作品を完成させるジグソーパズルのピースのように定められ、何一つ欠くことも、間隔をずらすことも許されないような、表現する側に禁欲的ともいえる姿勢を促す作品だと思います。

  今回WSSを青山航士という人の強靭な集中力、自己に対する客観性、制御力を通して見ることによって、今までの自分はミュージカルというものを知らなかった、と思いました。少なくとも20世紀のアメリカを代表する芸術家であるロビンズによるそれは、表現者にとって矮小な自己満足を満たす余地などない、芸術を多くの人のものとするための殉教のような厳しさに支えられているのだという気がしています。

青山航士/ウエストサイドストーリー

2005-02-11 | ウエストサイドストーリー
ウエストサイドストーリーのベースになった「ロミオとジュリエット」のヒロインは「十四歳の誕生日もまだ」な少女だと知って驚く人は少なくないのではないでしょうか。でも、子供から大人へ変身する、その一瞬の想いの激しさは、最近の少年事件を思い起こすだけでも充分に想像できます。まだ幼さも残っていたであろう身体を灼き尽くすのには充分すぎたともいえるでしょう。

 青山航士さんがダンスを学ぶためにアメリカへひとり居を移したのも十四歳の頃だったと聞きます。少年から青年へ変身するその時期に、彼のダンスへの想いは、それまでまとっていた身体を灼きはらい、新しい体躯を築くことを選択したのかもしれません。

 人生でもっとも多感な時期をアメリカでダンスを学ぶことで過ごした青山さんが、アメリカ生まれの最初のバレエマスター、ジェローム・ロビンズが若者を描いた作品を踊る・・・それだけでも「めぐりあわせ」の妙を感じないではいられないのに、十代の最後を過ごしたジュリアードは、WSSの舞台となった地域を整備し、建設されたリンカーンセンターのなかにあると知ると、まるで長い長い見えない糸に手繰り寄せられるようにして、この作品と青山さんは出会ったのだと思わずにはいられません。

 映画版になく、映画化にあたってのリハーサルすら行われなかったというバレエシークエンス~Somewhereのソロを踊る青山さんを目にしたとき、私はその糸が見えたような気がします。白昼のように明るい照明を浴びて大きくゆるやかな弧をえがく跳躍は、それがバレエの厳格な鍛錬によって磨かれた「グラン・ジュッテ」という技術であることすら忘れさせるほどに、自然に、何にもとらわれることなく空と光とに戯れる少年の心そのものでした。Somewhereはバーンスタインのスコアをロビンズの希望でシンプルに変更したということですが、青山さんの体躯は、そのシンプルなオーケストレーションの中で、まさに豊かな「音楽」を奏で、シンフォニーの一部と化していたように想います。

 青山さんのダンスを見るとき、私はよくスロー再生したり音を消したりします。そうすることで、青山さんの奏でる「音」が見えるような気がいつもしています。ロビンズと長年パートナーシップを組んでいたミハイル・バリシニコフ(映画「ホワイト・ナイツ」のバレエダンサーです)が、まったくの無音のUnspoken Territory(デイナ・ライツ振付)という素晴らしい作品を踊っていますが、それを目にしたときと同じような感覚です。音楽を視覚化した、といわれる師バランシンのあと、ロビンズはドラマ性もふくめた音楽の視覚化を進めたのではないかと思えます。そしてSomewhereを奏でるダンサーをいつも待っていたのではないかと。


Shinla ~森羅~ 2002

2005-02-11 | Shinla ~森羅~
クラシック・バレエには、いわゆる「王子」役にふさわしい品格のある優れた舞踊手をさす、ダンスース・ノーブルという言葉があります。そして「日本には真のダンスール・ノーブルはいない」ということが繰り返し言われ、体格の違い、表現力の多寡、さまざまな事が語られています。その西洋の「王子」は、気品と美貌にあふれているだけでなく、日本で言う「少女漫画に出てくる王子様」とも、日本の王子様である宮様方のイメージともかなり違う、狩猟民族としての優性遺伝ぶりを誇示するような頑強な体躯の青年です。

 歴史も違えば文化も民族も違う・・・踊る側だけでなく、見る側にとっても「ダンスール・ノーブル」を感じること、それ自体に異なるものと接するときの抵抗があるような気がします。だから私は日本のダンスを見るとき、ダンスール・ノーブルを求めてはいません。それよりも今の日本でしか見られない、その文化から自然に生まれたダンスに出会いたい、そう思っていたときに2001年エディンバラ・フェスティバル参加作品『森羅』で青山航士さんの演じる「落武者」を目にしました。

 腕を卍のように使うピルエットや、かかとを突き出し膝を曲げた開脚姿勢での跳躍など、西洋のダンスの技術と東洋の型が渾然一体となって強靭な身体から放たれる閃光のような輝きは今も忘れられません。遠い昔にこの地に息づいていた武士の高潔な精神をまざまざと呼び活け、見る者の心の穢れもそぎ落とさんばかりの気迫に圧倒されました。

 とくに終盤「曼荼羅」の、出演者が縦一列に並ぶシーンで、青山さんが印を結びながら見せた第2ポジションのプリエは、一切の曇りのない肢体にエネルギーが充満し、共鳴して響き渡るのを耳にするような錯覚に襲われるほど、素晴らしいものでした。永遠に見つめていたくなるような力強さ、美しさで、限りなく高貴なものとして心に刻み付けられたままです。それは、日本に住み、その文化の中で暮らしているありのままの自分が感じる「強さ」「美しさ」であり「気高さ」だったのです。そして西洋の人々がダンスール・ノーブルへ抱く想い・深い憧れを、初めて自分の内側から湧くものとして味わった気がしました。

 以前新聞に、劇場、とくに伝統芸能の公演に足を運ぶ人が減っているという記事が出ていました。日本はほんの百年前まで着物に下駄で生活していた国です。伝統文化が普通に暮らしている人間の心とかかわりを持つには、生活の変わりようがあまりにも急激で、その変化を吸収し、新しい命を作り出す時間が足りないのかもしれません。また、雪崩のように入ってきた他国の文化についても、心の奥底から共感するほど、自分の血肉として消化されるほどの時間はまだたっていないのかもしれません。

 今ここにいる自分にどこかフィットしないものしか上演されていないのなら、劇場に行く人が減るのも仕方のないことでしょう。でも、誠実な表現者は、どんなに混沌とした状況であっても、この時間・空間を生きている感覚のままで素直に感動できるものを見せてくれる、青山さんのダンスを知って私はその思いを強くしました。

 青山さんのファンには、それまではとくにダンスに興味もなかったのに、テレビで青山さんのダンスを目にして虜になった、という人が多いようです。クラシックのダンスール・ノーブルを「鑑賞」するときとは違う、なんの予備知識の必要もなく、「素晴らしい」とありのままの私たちが実感し、美しさ、強さへの衒いのない素直な憧れを呼び覚ましてくれる舞踊手、それが青山航士という表現者なのだと私は思っています。この作品を再び目にすることはないのかもしれませんが、あのとき彼のダンスにみなぎっていた「気」は、消えようもなく克明に一観客の記憶にのこっているだけでなく、光のように今も進み続けているような気がします。