platea/プラテア

『ゲキxシネ五右衛門ロック』『The Musical AIDA』など、ミュージカルの話題作に出演の青山航士さんについて。

Let us hear the play

2005-12-31 | グランドホテル ザ ミュージカル
 『グランドホテル』公式ブログや菅野こうめいさんのブログを読んでいると、演出のグレン・ウォルフォードさんがじっくりと芝居を作り上げている、ということが色々な形で伝わってきます。グレンさんの経歴を読んでいると、早くからのシェークスピア作品への取り組みと、言語の異なる香港、韓国、日本での演出活動に二分されているような感じがして、どういった方なのかよくわからない、というのが最初にいだいた正直な印象でした。
 テレビで初めてBBC制作のイギリス人俳優によるシェークスピア劇を見たとき、弾丸のように発される台詞に日本語に翻訳されたものとは違う迫力がみなぎり、たじたじとなってしまった覚えがあります。シェークスピアは全37作品で88万語書いた、といわれているそうですが、殆ど無背景であった当時の劇場を言葉で埋め尽くすような感じだったのでしょうか。そのためか、その後も翻訳劇にはどうしても薄めたような、あるいは「訳された」たどたどしいような感じを、偏見とは知りながら持ってしまい、もともと日本語で書かれたものや、言語によらないダンスに魅かれていったように思います。  
 「解釈する」という言葉と「通訳する」という言葉は英語では同じinterpretを用いるのが一般的なようですが、稽古場の様子を読む限りでは、グレンさんは演者と作品の対話をずっとinterpretして距離を縮めていっておられるような気がします。言葉の洪水のようなシェークスピア劇とずっと向き合い、母国語である英語をinterpretしている人だからこそ、何語であっても通訳interpreterのように、「演出」することが可能なのでしょうね。「演じる」という言葉も、フランス語、イタリア語ではinterpretに相当する言葉が用いられていることを、『グランドホテル』の稽古ブログを読むと思い出します。
 Let us hear the play. これは『ハムレット』の劇中劇で観客の一人としてハムレットが言う台詞ですが、いつもは目ばかり見開いているこのダンスファンも全身耳にして、グレンさんと出演者の方が積み上げて、あと一週間で舞台の上に響く台詞をじっと聞きたいと思っています。今年の夏6月24日から7月8日までイギリスのLudlow Festivalで『夏の夜の夢』Midsummer Night's Dreamを演出されるとのこと、季節もぴったり、会場がまた古城をそのまま使うようで素敵です~。

男は・・・

2005-12-28 | グランドホテル ザ ミュージカル
 「で、そのユダヤ人への借金というのは?」「三千ダカット、私のためなんです」「・・・たったそれっぽっち?」

 『ヴェニスの商人』のヒロイン、ポーシャとバッサーニオはこんな会話を交わします。バッサーニオは高貴の出だけれど今は文無し、ポーシャに求婚するための支度金も自分では調達できず、代わりに親友アントーニオがシャイロックから借金をした、それを発端としてこの物語は始まるのですが、映画『グランドホテル』でも、すべてを告白した男爵にグルーシンスカヤが「お金ならあるわ」と話す場面がありますね。西洋の昔話は王子などの男性が戦いの末に女性を救い、日本の昔話は女性が愛する男性のために身をつくすパターンが特徴らしいのですが、やはり西洋の男性も心の底にはこんな願望を抱いているのでしょうか。

 貴族とはいっても、優雅に贅沢ばかりしているわけにはいかず、会社経営にも似た苦労があるようで、長い歴史の中では彼らのように没落していく貴族も数知れずいた模様です。古くは戦いがあればあの重い甲冑に身をつつんで、家族も皆殺しかもしれないリスクを背負って戦わなければならなかったし(だから西洋の貴族出身の方は大柄な方が本当に多いそうです)、勝利して領土を広げてもこんどは農場の経営力やら政治力を問われるのですから、格闘家で経営者で政治家、といった感じなのでしょう。『グランドホテル』の男爵もバッサーニオも水もしたたる美男ですが、無防備に一瞬で恋に落ちてしまうあたり、貴族としてやっていくにはちょっと適性がなかった?のかもしれません。

 裕福な美女が救いの手を差し伸べる、男性にとってのおとぎ話は『グランドホテル』では殺人によって無残な最後を迎えてしまいます。殺人を犯したプライジングも会話を聞いた限りではどうやら事実上「入り婿」のようですよね。うう~ん、思わぬところに『男はつらいよ』な面が。

シアワセの指定席が待っている

2005-12-27 | グランドホテル ザ ミュージカル
フィギュア女子、素晴らしかったですね~。オリンピックを夢見る選手達の表情、それだけでも冬の花のように綺麗で心打たれました。ほんの数分の演技にすべてを賭ける競技者である彼女達に、観客として順位や立場に関係なく拍手を送りたいし、今後もこんなに素敵な彼女達がもっと愛されて、活躍の場が増えるといいなあ、と思います。『グランドホテル』ではないけれど、ひとりひとりの思いや、これまでの日々がリンク上で交差するようで、「競技会」というより美しい群像劇を見るようでした。

 『グランドホテル』のフレムシェンもハリウッドを夢見る、作品のなかの花、救いのような人物ですね。まだニューヨークやシカゴが映画産業の中心だった20世紀初頭、数社による独占状態が続き、今で言うインディーズ系の映画人がはじかれるようにして活動の拠点を定めたのが西海岸なのだそうです。この「独占」企業は、15年に反トラスト法違反とされ、人材がロスアンゼルスに移動し、照明器具の発達していなかった当時、天候の安定したハリウッドは、その輝きで世界中を照らす夢の街になったのです。その時、中核をなしたのは、ヨーロッパの迫害を逃れてきたユダヤ人で、MGM、ワーナー・ブラザース、20世紀フォックス、パラマウントなどすべて彼らによって設立されています。ヴィッキー・バウムが映画制作のためこの街を訪れたころには、すでに一大産業だったのですから、こうした映画会社がどんな勢いで躍進したのか、想像に難くありません。

 さまざまな差別を受け、偏見により就ける職業も限られていたユダヤ人が、まだ芸術性が認められず、通俗的なものでしかなかった新しい娯楽「映画」に取り組み、その質を向上させ、こんなにも大きな産業に作り上げて今も世界中の人を楽しませているわけですが、それに応えた観客の目を思うと、何かほっとします。素晴らしいものを「見る」喜びは、理屈ではなくて偏見や憎しみから離れた世界を人の頭の中に築くようです(世界中で愛されている、ミュージカルの金字塔といわれる『ウエストサイドストーリー』を作り上げたジェローム・ロビンズもユダヤ人です)。ただ、逆のケースとでもいうか、キリストの受難を描いたメル・ギブソンの『パッション』制作には、そうした映画界のユダヤ系実力者から有形無形の圧力があったのだそうです。でも、この作品も多くの観客の感動を呼び、興行的にも成功しています。何に感動するか、そんなことは他の誰かに決められることではないですものね。

 ヒーローとヒロインの物語でなく、いろいろな人生が行き交う、それを主題にした『グランドホテル』、はじめて映画を見たとき、赤ちゃんの誕生が物語の最初と最後に従業員の電話で語られているのがとても印象に残りました。一切の偏見にとらわれずに生きていくことは難しいとは思うけれど、観客になるということ、日常から切り離されて薄暗い場所で椅子に座り、知らないものどうし同じ方向を見つめて、何だか分らないことも一杯あるけれど感動して、それを人と話したりするっていいですねえ。・・・ああ、早く見て幸せな時間をすごしたい。結局はそれだけなんだけど。

メリークリスマスと言わないで

2005-12-23 | グランドホテル ザ ミュージカル
「男爵は多重人格」で引っ張り出したアル・パチーノがシャイロックを演じる映画『ヴェニスの商人』、ご覧になりましたか。「悪の華」という感覚が生まれた19世紀のロマン主義以降、シェイクスピア劇の演出にいわゆる「敵役」をクローズアップしたもの(『オセロー』でいうならイァーゴを、というように)が見られるようになったのですが、この映画はそうしたもののひとつ、といってもいいかもしれません。何万もの言葉があふれ出るようなアル・パチーノの表情が印象的で、吸い込まれるように彼/シャイロックに感情移入してしまいました。

 カトリックが、金銭を貸すことによって利息を取る=利益を得る、ことを禁じているために、当時の金融業はユダヤ人が独占する形になり、裕福ではあっても異教徒として様々な法的・私的差別を受け、その仕事を賤しまれていた・・・そんな背景を克明にこの映画は描いています。あの「期日までに返済できなければ肉一ポンド」という残酷な「契約」は、妻を亡くし、一人娘もキリスト教徒と駆け落ち、と失意のどん底にあったシャイロックが、かつて職業をさげすみ、自分に唾を吐きかけたことのある「商人」アントーニオからの借金の申し出に、憎しみをぶつけるようにして結んだものだったのです。

 機知に富んだポーシャの「血一滴たりとも流してはならぬ」という裁きによってアントーニオが救われ、その直後、「ヴェネツィアの民でないものがヴェネツィアの民を殺戮しようとした」罪で、シャイロックがユダヤ教からキリスト教に改宗しなくてはならなくなるのは原作の通りですが、映画のラストシーンでは、ミサが始まろうとしているユダヤ教会の扉が、立ちすくむシャイロックの前で閉ざされ、彼はなにひとつ心のよりどころのない孤独に突き落とされてしまいます。信仰を捨てる、ということが当時いかに重い意味を持っていたか、現代からは想像もつかないことです。

 『グランドホテル』の原作者、ヴィッキー・バウムもユダヤ人、また、オットー・クリンゲラインもユダヤ人という設定でしたね。『グランドホテル』原作が書かれ、映画化された後、ユダヤ人を襲った目を蓋うような悲劇は、遠い昔のヴェネツィアとも繋がっているのかもしれません。ユダヤ系のハリウッドスターに、日本からたくさんのクリスマスカードが送られてきている、という記事を以前目にした事があります。まだまだ「外国」は遠いところ、「グランドホテル形式」という言葉を生んだこの群像劇は、多様な人間のそれぞれの人生を日本の観客にも見せてくれるような気がします。

 このポーシャ役のリン・コリンズが、見ているうちにどんどん好きになっていくタイプの(という演技?)素敵な女優さんだったのですが、ジュリアード・スクールのドラマ科出身だそうです。日本では音楽科がとくに有名ですが、人数的にはあわせても全体の3分の1に満たないという、ダンス科とドラマ科の少数精鋭ぶり(もちろん青山さんも~)もすごいですね。 

チャールストンが途切れたとき

2005-12-21 | グランドホテル ザ ミュージカル
 「オットーの旅」欄にあゆあゆさんからチャールストンについて面白いコメント頂きました♪ 皆さんも是非ご覧ください。文中で触れられていた"Maybe My Baby Loves Me"と"H-A-P-P-Y"は、「こ、これ舞台でどうなるの~」と私も期待と想像で一杯になっていたナンバーです。青山さんの人間リズムマシーンぶりが今から目に浮かびます♪ ジミーズとフレムシェンのやりとりも楽しく、ショーらしい、エンターティンメント性の高い場面になりそうですよね。

 この曲も当時のベルリンの、というか、文化のボーダーレス化の始まった時間を切り取っていたのですね、なるほど~。パフォーミングアートというものに触れていると、黒人が彼らの大陸以外の文化にもたらしたものは計り知れないほど豊かなことを思い知ります。オットーのパリへの旅の直ぐ後に訪れたであろうアメリカの経済大恐慌によって、仇花のような20年代の熱狂が終わり、娯楽、流行としてのダンスが終わった・・・そこで思い出したのは31年生まれのアルヴィン・エイリーのことです。青山さんの履歴書にも記されているThe Ailey Schoolの創始者です。

 『グランドホテル』を話題としてから何度かご登場願っている淀川長治さんは、知る人ぞ知る熱烈なダンス/バレエファンで、「生まれ変わったらダンサーになる」と晩年の著書の中でも断言しておられます。初めて訪れたニューヨークで「リズムが火を吹いて燃えて」いるような黒人のダンスを見て、エイリーの1962年の初来日公演の際には「タップとリズムの激流に逢うのかと」思っていた、でも「アルビンの黒人舞踊は深い沼の底を覗くようなダンス」だったという話を残しておられます。

 「・・・黒人の野性、そのようなものがあるかどうか。しかしアメリカに連れこまれたころの黒人の野性。それはなんであろうかと考えるまでもなくそれは哀話であり哀歌であり、そこから、やけくその荒れ狂うタップが生まれたように思え、この激情とこの悲歌が、アメリカの影が黒人のアメリカでのオリジナル、とにかく黒人の香りには「影」と「哀歌」がひそんでいる。アルビンはこれを両手でくみ取り、すくいあげて、黒人のオリジナル舞踊を育てた舞踊家だ。」

 ショーにタップを取り入れたものは世界中に数え切れないほどあり、日本でも数多く見られます。また、音楽に関心のない人でもチャールストン、という言葉を耳にしたことはあるはずです。でも、正直言ってその発祥の地、と呼ばれている場所にある奴隷市場跡や、タップを生み出した激情をリアルに捉えることは難しいですよね。そこまで考えて見たのでは楽しくない、それもそうですし、必要もないことかもしれません。ただ、私はそんな時間を刻んだアメリカが生んだ作品を、黒人達の芳しい芸術をいっぱいにはらんだこの作品を、エイリーの世界にも触れた青山さんが演じる、ということにある安心のようなものを感じています。

 淀川さんがもし生きておられたら、きっとこの『グランドホテル』を(もちろん『ウエストサイドストーリー』も)ご覧になっただろうと思います。そして、日本のダンスにも新しい時代が来たことを喜ばれたに違いありません。

オットー・クリンゲラインの旅

2005-12-18 | グランドホテル ザ ミュージカル
完璧でしたね、浅田真央選手。『ウエストサイドストーリー』/『ロミオとジュリエット』話でも書きましたが、14,5才の持つ若々しい輝きには何物にも替えがたい、自然の驚異にふれるような感動を覚えます。トリノ五輪出場の特例はなし、ということですが、彼女ならこのことを自分の人生にとっていい方向に持って行くのではないか、と思えるような生き生きとした演技でした。メダルマニアのような一部マスコミと距離が出来てよろしいんじゃないでしょうか♪

 フィギュアにはよくバレエ音楽が使われていますが、今季の浅田選手は『くるみ割り人形』で、あどけなさの残るマーシャ/クララを滑っておられましたね、可愛いなあ♪ ご本人が意欲を見せる次の五輪では19才。紫吹淳さん演じるフレムシェンと同じ年になられます。次は『グランドホテル』で少し大人の輝きを放つフレムシェンを、なんてこともあるかもしれません。この音楽、スケートにも良さそうですよね。

 映画版ではそのフレムシェンと手を携えてパリに旅たつオットー・クリンゲライン。浅田選手や夢見るフレムシェンの輝きとは裏腹に、この方の人生の踏んだり蹴ったりぶりというのはちょっとすごいです。お年は・・・どこかに明記されているのかもしれませんが50才代半ば、てところでしょうか? 1880年ぐらいの生まれとすると、ドイツの労働者の環境がかなり劣悪だった頃、1891年にようやく日曜の労働が禁止されたぐらいで、それ以前は1日12時間労働が基本だったとも。第一次世界大戦はあるわ、ドイツは負けるわのうえ、1922年以降にはひどいインフレまで起こり、大地主と資本家が利益を得る一方で、賃金は上がらず生活水準は低下するばかりだったそうです。1925年、やっと戦前の賃金水準にもどり、失業者も減少したそうなのですが、彼はそこで不治の病にかかってしまった事になります。そしてドラマとしてだけでなく、そうした厳しい労働環境だったので、50代で体を壊し働けなくなる労働者は実際にとても多かったそうです。

 若さに輝いて未来を夢みる、可愛いフレムシェンの手をとって旅立ったパリで、彼の心を癒す毎日が待っていたことを願わずにいられません。

フィギュアスケート、日本女子が強いのは

2005-12-16 | 表現者 青山航士
強いですね~、少女時代、試しにやってみたら回転ジャンプができたという天才・伊藤みどりさん以来、個性ある選手が次から次へと出て、毎年楽しみです。なんといってもジャンプのレベルは世界最高、その秘密はどうやら「骨盤のコンパクトさ」にあるそうなのです。身長と比較するとアジア人の骨盤は白人のそれと比べてかなり小さく、薄いので、回転軸がずれにくい、つまり質の高い回転ジャンプができる、という話です。そういえば青山航士さんの回転もとても綺麗です。あの分厚い「おどろんぱ」スニーカーで踊っているときですらああですから・・・。『テネシーワルツ』中、素足で踊った「エル・クンバンチェロ」の軸が見えるような精度の高い回転、全国のファンに一目見せたいくらいです。

 今日トップにたった浅田選手が明日チャレンジするトリプルアクセルは、他のジャンプと違ってトップスピードで前向きに踏み切るのですごく恐い感じがするのだそうです。陸上なのでトリプルとはいきませんが青山さんが『ちいさなうたのおおきなちから』のラストで決めるジャンプ、形はシングルアクセルと同じです。明日のスケートを見る前に、青山さんのビデオでチェックするのも面白いかもしれません~。空中姿勢も決まってて、かっこいいですよ♪

私、最近までミュージカルを見ない人でした

2005-12-15 | グランドホテル ザ ミュージカル
1931年当時のMGMの「影の支配者」というアーヴィング・サルバーグ、『グランドホテル』映画版を作るとき、「普段 映画を見ない人も見たがる作品を撮ろう」と言っていたそうです。公式ブログでの紫吹淳さんのインタビューでも「ミュージカルを見たことのない人達に見てもらいたい」というお話。

 3月9日付けの「一般って・・・」でも書いたアダム・クーパーも、『危険な関係』パンフレットで同じことを語っています。「観客の顔ぶれがいつも同じ」バレエ界から外に出て、ミュージカル、オリジナルのダンス作品、ストレートプレイと、新しい観客の前に出て行く彼の活動は、あまり劇場に行かない人でもご存知なのではないでしょうか。また、先日のギエムの公演もいつもより男性の姿が多く見受けられました。観客に迎合するということではなくて「おもしろい」ものを提供する、ジャンルを超える力を持っている表現者って素敵ですし、ギエムの男性ファンってなんだか愛すべき存在だなと思います。

 さて、藤木孝さんの「ごきげんよう」出演、大ファンだというマリア・カラスの話になると、まるで恋人のことを訊ねられたような表情をしておられました。一目見て素人ではないとわかるような洗練された容姿と、青年みたいな透明感が魅力的です。日本にもこんな形での「成熟」があるんですね、この方の『リチャード三世』見てみたかったな~。『グランドホテル』では藤木さんが最初に登場されるとのこと、絶対遅刻は出来ません。

 藤木さんのディーヴァ、マリア・カラスも「ファンでない人でも知っている、聞いた事がある」という存在の最たる例ですね。ジャンル、なんていうのは人間の深いところではそうこだわらなくてもいいことなのかもしれません。ちなみに私も青山航士さんを知るまでは舞台でミュージカルを見たことはなく、洋の東西を問わず古典好きでしたが、『ウエストサイドストーリー』のタイガー、そして群舞を見て、20世紀の産物らしいMusicalの表現領域の大きさ、自由さに感激しました。紫吹さんのおっしゃるように、色々な方が訪れる魅力的なホテルのような作品になるといいですね。

 覗くたびに長居してしまう、マリア・カラスの公式ページは こちら
 Photo albumにある、ヴィスコンティとカラスの夢の顔合わせ『ヴェスタの巫女』の写真や椿姫の衣装がものすごく素敵です。皆さんのお気に入りはどれでしょうか。

男爵は多重人格

2005-12-12 | グランドホテル ザ ミュージカル
 映画版『グランドホテル』の男爵役、ジョン・バリモア、淀川長治さんによると左側からの横顔がとくに綺麗だというので、ご本人も必ず左側から撮るように要求していたとか。そうだったかな、と改めて映画を見ると確かにここ、という時には左側からのショット。ポートレート(当時でいう「ブロマイド」)には真横の顔を写したものもあり、ギリシャ彫刻のような整いようです。

 そんな「いかにもハリウッドスター」的な面があるかと思えば、舞台ではシェークスピア役者で、美男といえば、のハムレットのほかに、リチャード三世、『ロミオとジュリエット』のマキューシォなんかも演じる性格俳優的な面もあったようです。日本版『グランドホテル』でオッテルンシュラーグ役の藤木孝さんも89年に演じたというリチャード三世、アル・パチーノもドキュメンタリー映画『リチャードを探して』を撮っていますが、男優としてのひとつの到達点なのでしょうか。・・・で上の写真はそのリチャード三世なんですが、こういうときは右側からの写真。使い分けてますね~。私は白人の美にとても疎いこともあって、こっちの方が好きです。


『グランドホテル』公式ブログに青山さんご登場です

2005-12-07 | グランドホテル ザ ミュージカル
『ウエストサイドストーリー』『ボーイ フロム オズ』『テネシーワルツ』とずっと青山さんとご一緒に舞台を勤めておられる佐々木誠さん、『オズ』『テネシーワルツ』ご出演の上野聖太さん、そして音楽座ミュージカル『Mademoiselle Mozart』に出演された高山光乗さんとのお写真もあり、脚を上げたポーズがミュージカルな感じで楽しいですよね~。livedoor様、本当に有難うございます。しかも朝6時のアップ・・・感謝しております。

 菅野こうめいさんのブログからも、グレンさんが時間をかけた作品創りをしておられるのは伺えたのですが、出演者一人一人の感性を大切にされる方なのですね、「贅沢な」という意味がよくわかりました。「思いっきり自分の思う通りに動く」なんて青山さんのコメントを聞くと、『ウエストサイドストーリー』という巨大な立体ジグソーパズルのように緻密な作品での青山さんとは違った面が見られそうで、期待が募ります。上野さんのコメントに「転機」という言葉がでてきますが、出演者の方お一人お一人にとっても「人生の転機」となる作品なのかもしれないな、と思うと、客席からそれを目撃する日がますます待ち遠しいです。

 ・・・開幕まで一ヶ月、どんな風に仕上がっていくのでしょう。特別番組もお正月だし(関東だけのような気がするし)動画でリハーサル風景を時々見せていただけないかしら~、と欲は深まる一方です。

『グランドホテル』原作者、ヴィッキー・バウム曰く

2005-12-05 | グランドホテル ザ ミュージカル
There are shortcuts to happiness, and dancing is one of them. -by Vicki Baum

 「幸せへの近道はいくつかあり、踊ることはそのひとつ」・・・というわけで彼女はやっぱりダンス愛好者だったようです。出典がわからないのですが、ネット上のヴィッキー・バウム語録にありました。『グランドホテル』が映画化を経てミュージカル化されたのは、作者の意向に沿っていると思っていいのかもしれません。

 ミュージカル嫌いの理由に、唐突に歌いはじめたり踊りはじめることについていけない、ということがよくあげられますが、ここ何日かの私は突然『ボレロ』を口ずさむことしきり、さらに誰も見ていない時には、おぞましいことにちょこっと踊ってみたりして、ミュージカルって写実主義かも、とさえ思えてきました。

 グレン・ウォルフォードさん演出の『キャバレー』日本公演で振付を担当された中尾ケンジさんは、「ダンスはまかせる」と言われた、とインタビューで語っておられましたが、今回はどうでしょう。ロンドン版『グランドホテル』をご覧になった方の話では、「クーパー振付」のふれこみのわりにはダンスシーンはそれほどなかったということです。日本版はぜひ振付の川崎悦子さんに思い切りおまかせして、トミー・チューン版にひけをとらないほどダンスで魅せてほしいなあ。なんといっても幸せへの近道、ですから。

an animation: ギエム最後のボレロ

2005-12-03 | ダンスファンの独り言
最初に見たときはサイボーグのような正確さと硬質の美に圧倒されたギエムの『ボレロ』。東京以外の都市でも上演されているので、ご覧になった方も多いと思います。私も風邪に苦しみながらもこれだけは外せない、と観にいってきました。

 以前、ダンスは削り落としによって完成する彫刻のようなものかもしれない、と書きました。そして今夜のボレロは、もう削るものは何もない、見事に完結した作品で、一体一体が完成品である彫刻を何千万と連ねてしあげたanimationを見るようでした。そしてまた、anima(魂)をふきこむ、というその作業は、もっぱら絵画の連なりや、人形を少しずつ動かした写真の連なりなどをさして使われていますが、今夜のギエムの舞台は、生命ある体からいったん逆行するように「物質」としての肉体を極め、それを完璧に制御し、動かすことによってのみ新たに生成するanimaが、観客に吹き込まれていくanimationでもあったような気がします。

 なぜ人は身体を自由に操るものに目を、そして心を奪われるのか、それは言葉で考えるのはナンセンスな問いなのかも知れません。今日私が触れたanimaは、目から脳に入り込み、優れたパフォーミングアートに接したときに得るカタルシスはもちろん、身体的な浄化作用も与えてくれたようで、見終わる頃には風邪など吹き飛んでいました。極度の激痛などの身体的極限状況に至ると、ランナーズ・ハイで良く知られるように、脳内麻薬によってすべての苦痛の感覚が消去されるようになっていると聞きますが、苦痛なくして目からの「極限の」情報によって、なにかしらの物質が私の脳内でも出たようです。

 サイボーグのようなギエムもとても魅力的でしたが、今夜の彼女はどこまでも生々しく美しく、animaを生成し、放ち続ける「いきもの」の核のようで、まさに大地の女神の様相でした。『ボレロ』という女神降臨の儀式を終えて、今後の彼女がこの世界に放つanimaに触れる機会を、これからも逃がしたくありません。

  
 シルヴィ・ギエム オフィシャルページ