platea/プラテア

『ゲキxシネ五右衛門ロック』『The Musical AIDA』など、ミュージカルの話題作に出演の青山航士さんについて。

J.ロビンズとボブ・フォッシー

2007-07-10 | ウエストサイドストーリー
 当時まだ駆け出しだったソンドハイムを迎えて『ウエストサイドストーリー』は始動することになります。バーンスタインは彼のことを「一つの発見」と語っていますが、この時期のブロードウェイには、もう一人、のちに巨匠と呼ばれる若い才能が頭角を現しています。27年生まれのボブ・フォッシー、最初は映画界で活躍していた彼をブロードウェイに呼んだのはロビンズだそうです。
 映画『キス・ミー・ケイト』の振付を見て、フォッシーの独創性と個性を高く評価した彼は、自分に依頼された"The Pajama Game"(54)の振付をフォッシーに任せてはどうかと提案します。そしてロビンズは初の監督・振付作品となる'Peter Pan'カリフォルニア公演に取り掛かるところでしたが、共同ディレクターとして"The Pajama Game"にも同時に関わることになりました。
 フォッシーに振付の仕事を譲ったのは、ロビンズに「振付師」としてだけでなく、「ディレクター」として活動していく意図もあってのことだそうですが、この二人が一つのステージに関わった事があるなんて、ダンスに興味のある人ならクラクラするような組み合わせですね
 もちろん立場はロビンズが上で、フォッシーが振付けたものを彼が変更することもあったそうですが、フォッシーは「彼を二、三時間見つめている間に、それまでの自分の人生すべてで学んだことよりも多くのことを学んだ」と語っています。また、フォッシーの目の覚めるような振付が、ショーストッパーという言葉はあっても、本当にショーの流れを止めてしまうほど際立っていたのを嫌った監督がそのナンバーをカットしようとしたのを、ロビンズが阻止することもあったそうです。
 二人とも頑固者だとか譲ることを知らない完全主義者だとか、なにかと気難しい面を語られる事が多いのですが、創作という真剣勝負に同じテンションで挑む者同士、わかりあい、尊重しあっていたようで、いいエピソードですよね~。そして"Bells are Ringing"(56)振付のオファーも、ロビンズはフォッシーに手渡して、いよいよ『ウエストサイドストーリー』に取り組むことになります。

『ウエストサイドストーリー』4人目の作者

2007-07-08 | ウエストサイドストーリー
 少し前になりますが、青山航士さんがブログで『スウィーニー・トッド』を観劇したと書いておられました。79年トニー賞作品賞受賞のこの作品で音楽賞を受賞したスティーブン・ソンドハイムは、『ウエストサイドストーリー』の作詞を担当しています。1930年生まれ・・・WSS作品製作は55年に始まっていますから当時わずか25才! 大抜擢ですね。
 55年の若いギャング達の事件をきっかけに、ロビンズのアイディアを作品化することになったものの、ロビンズもバーンスタインもすでに大変な売れっ子で、なかなかスケジュールの都合が付かなかったそうです。ロビンズは映画『王様と私』の撮影でNYを離れ、相変わらずの完全主義者ぶりを発揮して細部にもこだわるため、撮影は予定より遅れ気味。能や歌舞伎で、蜘蛛の糸を表すのに使用する「なまり玉」と呼ばれる小さな紙テープのような小道具があるのですが、アメリカのスタッフが用意したものは気に入らず、わざわざ日本の能楽堂から取り寄せたということです。またバーンスタインは『キャンディド』製作にかかりきりで、当初予定していたWSSの作詞は断念するしかない状況でした(曲は記事を見た瞬間、頭にリズムもメロディも浮かんだそうです、頭の中、覗いてみたいですね)。
 そんなときにローレンツは偶然スティーブン・ソンドハイムと知り合い、WSSへの参加を打診します。人の曲に作詞だけ、というのは彼の本意ではなかったようですが、バーンスタインの曲なら、とOKし、バーンスタインも彼を気に入って、4人目のWSSの作者が決まりました。他の3人も55年当時は37才、随分若い作者達だったんですね。
 こんな風に若い才能が抜擢されるのは、ミュージカルが巨大ビジネスになった現在のブロードウェイでは難しいことになったそうですが、WSSという作品の持つあの熱情や勢いは、創作のエネルギーの塊のような若い力でなければ、創りあげることはできないのかもしれません。その後のソンドハイムは71、72、73年のトニー賞を連続受賞したのをはじめとして、ピュリッツァー賞も受賞、ミュージカル界の重鎮と呼ぶに相応しい存在です。日本の年功序列社会では難しい、とはわかっていても、日本のパフォーミングアートの世界でも、こんなふうに舞台裏にもドラマが起きているといいな、と思ってしまいます。

”an American Opera”

2007-07-05 | ウエストサイドストーリー
 『おどろんぱ』回想に続いて『ウエストサイドストーリー』回想がとまりません。青山航士さんのダンスを思い出しながら映画を全編見直しましたが、やっぱりこの作品は何度見てもひきつけられます~。
 親友ジェローム・ロビンズから原案を聞いたバーンスタインは、脚本のアーサー・ローレンツとともに、この三人なら"an American Opera"を創りあげることができる、と思ったそうです。当時ローレンツはまだヒット作はなかったのですが、「ことを進める前にはっきりさせておきたい事がある、僕はくだらないバーンスタイン・オペラのためにつまらん台本を書くつもりはない」と言い放ったとか。バーンスタインは才能を見つける名人で、人間関係もとてもいい人だったと聞きますが、いや~懐が深いですよね~
 バーンスタインはWSSの構想を練っていた時期の日記の中で、「オペラ的な手管に陥らずに、ミュージカルの言語だけで、ミュージカルの技術だけを使って悲劇を創りあげる」とも書いています。「僕達に出来るだろうか? まだこの国にそんなものはない。心が騒ぐ。もしも出来たら-それが最初になるんだ」
 その十数年後に、イギリスではロック・オペラ"Tommy"が創られるわけですが、あの作品を無理やりあてはめていうと「オペラ的な手管を尽くして、ロックの言語だけで、ロックの技術を使っ」たということなのでしょうか(ちょっと違うかな~)。で日本は?と思うと、真っ先に思い浮かんだのは、日本版『トミー』演出のいのうえひでのりさんの「いのうえ歌舞伎」です。まだ拝見した事がないので、帰国したら是非観にいこうと思っていますが、新しいものが出来るときもそれぞれのお国柄が反映されているようで面白いですね。
 今では"West Side Story"が最初の"an American Opera"であることに異論を唱える方は少ないと思いますが、最初の"an American Opera"にも、最初のポップ・マスターピース(NYタイムズ)であるイギリスの"a Rock Opera"にも出演された青山さんが、"a Japanese Opera"を表現するところも観てみたいですよね。

ウエストサイドストーリー50周年

2007-07-03 | ウエストサイドストーリー
 今年はミュージカル"West Side Story"初演から50年、しばらく『おどろんぱ』回想に走っていましたが、青山航士ファンにとって04年の『ウエストサイドストーリー』は忘れられない舞台ですよね。クラシックバレエの技術を基本に据えたジェローム・ロビンズの振付を、あのスピードでエネルギッシュに踊る事が出来る人というのは、本当に限られているだろうと思います。
 さて、50周年を記念してヨーロッパではツアーが、そして日本では劇団四季の公演が秋から予定されているそうです。でアメリカは、というと「アメリカのパフォーミングアート史の主要人物」「アメリカ初のバレエマスター」とロビンズの評価はとても高いのですが、WSSをはじめとして彼の作品は常にダンス界で上演され話題になっているせいなのか、とくにこの作品を今年扱うという感じではないようです。公演自体はアメリカのあちこちであるようですが、記念プロジェクトを期待していたので残念・・・。
 頑固な完全主義者だったロビンズは、映画制作に際し、予算を度外視して理想を追求したため撮影途中で解雇されてしまいますが、彼が携わったシーンは、ダンスファンにとってはやはり素晴らしいの一言に尽きます。ジョージ・チャキリス演じるベルナルドとシャークスの青年が左脚を真横に上げる有名なシーンは、かなり下から撮影されていますよね。これはロビンズの指示でなんと舗装した地面を50cmほど掘り、足の高さから撮影したものなのです。ただでさえ長いチャキリスの脚が、ますます伸びやかに捉えられ、誰もが思い浮かべるあの有名なショットになりました。工事費が余分にかかったでしょうが、もしも普通の高さから撮られていたら、あれほどカッコいいものにはならなかったでしょうね。
 さて、そのジョージ・チャキリス、なんと日本語でブログを公開しておられます 6月8日の記事はご本人のコメントがお休みで、映画"West Side Story"の未公開写真がアップされていますので、皆さん是非ご覧ください。6月1日の瓦礫の上のストレッチもカッコイイな~。

George Chakiris Blog

 余談ですが、チャキリスってカレーライスが好物なんですね、以前、ラスタ・トーマスも好物は「日本の野菜カレー」と話していました。ダンスの持ち味と似てる?
  

最悪のパトロン

2005-03-20 | ウエストサイドストーリー
映画収録の際、発案者でもあるジェローム・ロビンズが、途中降板したことはよく知られ、いろいろな事がその理由として語られていますが、その一つに制作費の問題があったのは間違いがないようです。非常にコストの高い70mmフィルムで、通常ひとつのシーンにつき2テイク取るところを、ロビンズは3テイク、もしくはそれ以上を望んだと当時のアシスタントの一人、Margaret Banksが証言しています。また、レンズに髪の毛が付着していたため、使い物にならないテイクでも、ロビンズは念のためプリントを希望したそうです。見る側から言えば、何回でも取り直してベストショットを見せて欲しいので、愛すべき完全主義者なのですけど、予算、という現実は動かせなかった、ということなのでしょう。

 「・・・あのテンションでウエストサイドストーリーの舞台を務め上げた青山航士さんも、完全主義者だなあ」とWSS熱もさめやらぬうちにインフルエンザ、と熱ばかり出しながら、東京の日程を終えて京都にやっと来たフィレンツェ展を見に行きました。この展覧会の話題の的、ミケランジェロ21才の作品とされる「磔刑のキリスト」は、全長40cmほどの小さな木像ですが、展示に際する細やかな気配りにも包まれて、あたりを浄化し、見る者の心に染み入るような姿でした。

 私のような凡人の感覚からは恐ろしいほど早熟なこの天才を、最初に見出し、パトロンとなったのは当時のフィレンツェ一の富豪、ロレンツォ・デ・メディチです(かのかさんのファンサイトで像がオドロングリーンに似ている、なんて書き込みをした事があります)。ところが、この天才はのちに、そのパトロンの富裕な生活を批判する修道士に傾倒してしまい、日本的に言うと「恩を仇で返す」ことになります。にもかかわらず、ロレンツォがそのことを咎めた、ということはなかったようです。「豪華王」とも呼ばれているぐらいで、修道士から批判をうけるほど贅を尽くした生活を送っていたはずなのですが、ミケランジェロだけでなく、のちに世界の財産となる芸術を厚く庇護し、財政面で援助したことで、今もフィレンツェの誇りのように語られている印象があります。

 一時ほどではないにせよ、日本にもお金持ちが結構いるようですが、残念ながらそのような「芸術にお金は出しても口は出さない豪華王」は、見当たらないように思います。また、アメリカでの「ウエストサイドストーリー」の映画化の例を挙げるまでもなく、採算がとれない、と現場で判断されたものは私たち観客のところにはなかなか届かないのでしょう。来日したベテランデュオのホール&オーツが「ビジネスマンがアーティストになりたがる」と制作の場での問題を語っていたのに、妙に納得してしまいました。

 ああだこうだと想いをめぐらせて、ふと「ウエストサイドストーリー」を脳内プレイバックすると、改めて深い魅力を覚えます。もちろん一大ビジネスであったのだろうけれど、青山さんをはじめとする出演者達の、愛すべき完全主義に貫かれた全力疾走のようなステージは、そんな下世話な考えを忘れてしまうぐらい、アーティストの健全な創造の営みを見せてくれたと思います。大金持ちではない観客に出来ることは、いいものは舞台でもDVDでもなんでもいい、マメに見て、それに接した感動を書き留めておく、作る側にも伝える、と早い話が「ほんの少ししかお金は出さなくても、口は出す」という最悪のパトロンのようなことでしかないかもしれません。「いいもの」に、ひとつでも多くめぐり合いたいなら、何が見たいのかビジネスマンにわかってもらう必要がありそうです。

 ・・・そんな無粋なことばかり考える私のような人間でも、目の前に輝くような才能を見て、そのあまりの豊かさに心が満たされ、思わず微笑がもれてしまう展覧会でした。技と心をつくした労作、そしてその数々の名品を守り続ける人々の情熱・・・幾人もの完全主義者の熱気を浴びて、すっかり春の気分で展示会場を後にしました。

Gee, Officer Krupke/ダンサーという夢魔

2005-02-23 | ウエストサイドストーリー
  時々、なぜダンスを見るのが好きなのかな、と改めて考えます。理由は色々あるのですが、ひとつには、自分の中の、言葉にならない、なにかの形にすることのできない、保留したままの感情を、優れた表現者が目の当たりに見せてくれると、まるで「覚醒夢」のようでやめられない(危険?)、ということだと思います。

 以前、あゆあゆさんと話題になったニジンスキーのファンという人たちも、動く姿を見ることはなくとも、残された写真によって、言葉ではたどることの出来ないさまざまの感情を掻き立てられたり、自分の心と向き合ったりしているのだという気がします。伝説には事欠かない彼は、跳躍ばかりを話題にする観客に向けてか、自身の振付作品「牧神の午後」では全く跳ばず、さらには「バレエの」というだけでなく常識そのものを覆すように、愛を受け入れてもらえない孤独な終末を自慰行為によって表現しました。

 20世紀初頭の事ですから、一部の芸術家の熱狂的な支持の一方で、「フィガロ」誌の編集長をはじめとして激しい拒絶反応を示す人が多く、批判の的ともなったようです。その写真は、普段人間が押し隠している心の奥底をのぞき見るような、夢魔のささやきが聞こえてきそうな雰囲気に包まれています。

 WSSにもSomewhereという美しい夢、そしてそれと対をなすように、悪夢のような現実をうたった"Gee, Officer Krupke"があります。ぱっと聞くと軽快でいかにもミュージカルらしいナンバーなのですが、「牧神」から50年後のアメリカでもこの曲の歌詞について製作側は難色を示したといわれています(それでも今日のような形で上演されているのは、歌詞に出てくる"tea"がスラングで麻薬を指していることを担当検閲官が知らなかったから、とか)。確かに現代人が聞いても、児童虐待、ドラッグ、性的倒錯と衝撃的な内容で、自嘲し、自分の傷口を広げる以外にどうしていいのかわからない若者の悲痛が生々しくのしかかります。

 映画版のこの曲の撮影にはロビンズ(彼も「牧神の午後」を振付けています)は全くかかわっていないということですが、今回のマクニーリー版では社会・大人への不満だけでなく、性的なフラストレーションを示唆する演出で、親の愛も受けられない、「牧神」と同様、誰の愛も手にしていない彼らの暗部を映し出していました。そのことによって、「トニーを救う」善意によって訪れたアニータに暴行を働くという悲劇が、突発的なものとしてでなく、残酷な必然性をもって浮かび上がりました。リーダーの死後、お祭り騒ぎのように歌い上げられるそれは、まるで悪魔の高笑いを浴びながら、不幸への坂道を転げ落ちていくリズムのように聞こえます。

 悪夢が見たいわけではありません。でもそれが、今こうして過ごしている日常のすぐそばにあるということは、毎日の新聞の見出しを読むだけで充分わかります。優れた表現者が見せてくれる夢が「見たい」というより、ただそこから目を離すことができないのです。

TheDance at the Gym

2005-02-18 | ウエストサイドストーリー
WSS初演の際、リハーサル中も役作りのため、JetsとSharksはお互い親しくしないよう、ランチなども一緒にとらなかったと言います。なかでも、この体育館のシーンは全く別室で、曲全体を聞くことすらなく、ましてお互いのダンスを見ることもなく稽古を進めたので、初めての合同リハーサルの時には、物語そのままに熱いダンスバトルが繰り広げられたとか。その場の興奮、すごかったでしょうね。

 このシーンの青山さんは、あまり視線も高くあげず、会場を見据えることもなく、自分のなかのエネルギーを放出するために踊りに来た青年らしい演技/ダンスを見せてくれました。冒頭のソロパートなど、バレエなんかやったこともない、見よう見まねで回ってるだけ、という感じがよく出ていて、口笛でも吹きたい気がしました(残念だけど吹けません。だれか教えて・・・)。クラシックを学んだ人がこの手の「カッコイイ」ダンスを踊ると、どうしても回転系の技術で、そこだけフリルがついたように浮いてしまうのを目にする事がよくありますが、青山さんの表現の幅の広さは通常のダンサーという枠には収まりきらず、「役者」の領域をカバーしているように思います。また、トニーとマリアの出逢いのシーンに入る前、ラインを組んで全員が同じステップを踏む場面(映画版では横から撮影されています)、時間的にはとても短く、照明もかなり暗いのですけど、一瞬の動作のうちにも微妙な緩急があって、とにかくカッコいいの一言につきました。

 ここのシーンに欠点があるとすれば、青山さんのもっとラテン調なダンスもみたくなってしまう、というところでしょうか。バーンスタインが、自分の作品はラテン的なものが多く、WSSは特にそうだとコメントしていました。「マンボ」や「チャ・チャ」は言うまでもなく、ジャズの「クール」でもボンゴを用い、「ランブル」にもキューバやメキシコのリズムを取り入れたということです。そして青山さんのダンスにもそんな文化のハイブリッド感はものすごくありますよね。とくに「からだはドラム '02」の人間パーカッションのような動きは私のアジア人のダンサーに対する偏見を一気に打ち砕いてくれました。(その直後「森羅」を見たのです)

 街にインテリジェント・ビルが立ち並び、そのなかにお蕎麦屋さんがあって、隣はチャイを出す喫茶店、家に帰れば靴を脱いで畳の部屋でパスタを食べ、ウーロン茶を飲んで・・・ある意味でアメリカ以上に文化という文化がいりまじる日本だからこそ生まれるものもあるはず、そんな期待に答えてくれる表現者はまだとても少ないように思います。でも、青山さんは間違いなくその一人で、どんなリズムのどんなダンスも踊りこなすように、何にも侵されない部分を保ちながら、聖にも俗にも容を変えて空間を彩り刻んでいく、いかにも東京という街にふさわしい表現者だといえるでしょう。

 振付の変更はまず無理なうえ、これだけ有名な作品になってしまうと、最初に書いたような演出はもうありえないけれど、一度でいいから青山さんの「本当のダンスバトル」が見てみたいものです。・・・かっこいいだろうなあ。


WSS-Koji Aoyama plays it cool

2005-02-11 | ウエストサイドストーリー
「月刊ミュージカル」の昨夏のWSS特集に、青山さんの完璧なフォルムを捉えた小さな写真が掲載されています。"Cool"の一場面で、両腕は上に、脚はクラシックでいうアンドゥオール、真横に高くあげられ、力強く伸びてまるでグラン・バットマンのお手本のようです。でも、そこにはクラシックの「それらしき」匂いはまったくありません。

 イギリスの批評家Kenneth Tynanが「コブラのように滑らかで野性的」と称したバーンスタインの曲さながらに、全方向に自由にしなる鞭のような肢体には、若者の方向を見失ったエネルギーがみなぎっていました。上記のように厳格なクラシックの型を守っているにもかかわらず、まるで一瞬の激情を暴発させた即興的なもののように見えました。

 それは作品冒頭のJet Balletで見せるSharksの一人とのからみのシーンも同様です。「都会の若者の喧嘩」が、上演のたびに息をもつかせぬ高い技術の連鎖によって鮮明に生々しくその場で生み出されていました。そのダンスは、ただ「鑑賞される」ためのものではなく、「人の心を掴み、ドラマに引きずり込む」べく、ダンサーの自己顕示欲などさしはさむ隙間もないぐらいに精緻に計算されたものだったと思います。

 "Cool"に話を戻すと、青山さんにスポットの当たる部分(映画版でA-Rabが踊っています)では、妖気が漂うほどの緊張感が、狂ったような笑い声とともに舞台を貫きました。その後二人の若者が殺される悲劇に落ちていく、怖気の走るような予感が彼らを襲っていることが感じられ、会場は鬼気迫る雰囲気に呑まれました。もうそれはダンスだ演技だという境界などなく、「魔」のさす空気を舞台と会場とが共有した瞬間だったと思います。そしてそれもまた、偶発的なものでなく、上演のたびに正確に再現されたのです。

 いわゆる古典バレエなどは、型どおりに上演されているような印象があるにもかかわらず、実際にはかなり自由に上演のたびに振付が変更され、ダンサーが自分の長所をふんだんにアピールする場が必ずあるものです。しかし、振付の変更がまず認められないWSSでは、作品に対する、表現者としての謙虚さと誠実さが、高い技術と同等に求められているような気がします。すべての動きが作品を完成させるジグソーパズルのピースのように定められ、何一つ欠くことも、間隔をずらすことも許されないような、表現する側に禁欲的ともいえる姿勢を促す作品だと思います。

  今回WSSを青山航士という人の強靭な集中力、自己に対する客観性、制御力を通して見ることによって、今までの自分はミュージカルというものを知らなかった、と思いました。少なくとも20世紀のアメリカを代表する芸術家であるロビンズによるそれは、表現者にとって矮小な自己満足を満たす余地などない、芸術を多くの人のものとするための殉教のような厳しさに支えられているのだという気がしています。

青山航士/ウエストサイドストーリー

2005-02-11 | ウエストサイドストーリー
ウエストサイドストーリーのベースになった「ロミオとジュリエット」のヒロインは「十四歳の誕生日もまだ」な少女だと知って驚く人は少なくないのではないでしょうか。でも、子供から大人へ変身する、その一瞬の想いの激しさは、最近の少年事件を思い起こすだけでも充分に想像できます。まだ幼さも残っていたであろう身体を灼き尽くすのには充分すぎたともいえるでしょう。

 青山航士さんがダンスを学ぶためにアメリカへひとり居を移したのも十四歳の頃だったと聞きます。少年から青年へ変身するその時期に、彼のダンスへの想いは、それまでまとっていた身体を灼きはらい、新しい体躯を築くことを選択したのかもしれません。

 人生でもっとも多感な時期をアメリカでダンスを学ぶことで過ごした青山さんが、アメリカ生まれの最初のバレエマスター、ジェローム・ロビンズが若者を描いた作品を踊る・・・それだけでも「めぐりあわせ」の妙を感じないではいられないのに、十代の最後を過ごしたジュリアードは、WSSの舞台となった地域を整備し、建設されたリンカーンセンターのなかにあると知ると、まるで長い長い見えない糸に手繰り寄せられるようにして、この作品と青山さんは出会ったのだと思わずにはいられません。

 映画版になく、映画化にあたってのリハーサルすら行われなかったというバレエシークエンス~Somewhereのソロを踊る青山さんを目にしたとき、私はその糸が見えたような気がします。白昼のように明るい照明を浴びて大きくゆるやかな弧をえがく跳躍は、それがバレエの厳格な鍛錬によって磨かれた「グラン・ジュッテ」という技術であることすら忘れさせるほどに、自然に、何にもとらわれることなく空と光とに戯れる少年の心そのものでした。Somewhereはバーンスタインのスコアをロビンズの希望でシンプルに変更したということですが、青山さんの体躯は、そのシンプルなオーケストレーションの中で、まさに豊かな「音楽」を奏で、シンフォニーの一部と化していたように想います。

 青山さんのダンスを見るとき、私はよくスロー再生したり音を消したりします。そうすることで、青山さんの奏でる「音」が見えるような気がいつもしています。ロビンズと長年パートナーシップを組んでいたミハイル・バリシニコフ(映画「ホワイト・ナイツ」のバレエダンサーです)が、まったくの無音のUnspoken Territory(デイナ・ライツ振付)という素晴らしい作品を踊っていますが、それを目にしたときと同じような感覚です。音楽を視覚化した、といわれる師バランシンのあと、ロビンズはドラマ性もふくめた音楽の視覚化を進めたのではないかと思えます。そしてSomewhereを奏でるダンサーをいつも待っていたのではないかと。