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義仲の女たちの史跡~その6~<義仲寺の巴塚>

2005年11月10日 | 平家物語-木曽義仲関連

↑義仲寺境内の巴塚

前回に続き,義仲寺内の史跡ですが,今回は同境内にある巴塚についてお話しします。

これまで,巴に関する塚もしくはお墓は,日義村の徳音寺(「義仲の里を歩く4」),倶利伽羅の巴塚(「義仲の女たちの史跡1」)でご紹介してきましたが,ほかにも,全国にいくつもの巴の塚やら墓やらがあるらしいです。

今回の義仲寺の巴塚の説明板を読んでみると,
木曽義仲の愛妻巴は,義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが,義仲の強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り,涙ながらに落ち延びた後,鎌倉幕府に捕らえられた。和田義盛の妻となり,義盛戦死の後は尼僧として各地を廻り,当地にも暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処となく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたという。
とありました。

鎌倉幕府に捕らえられ,和田義盛の妻となったまでは,これまでのコーナーでも取り上げてきたような話ですが,義盛や子の朝比奈が亡くなった後,いままでの話を総合すると,とりあえずは福光城主の石黒氏のところに身を寄せ,尼になった後,現在の義仲寺にやってきて義仲の供養をし,最後に福光に帰ったか,そのまま故郷の木曽の地へ帰って大往生を遂げたか…ということになるのでしょうか。
よって,義仲寺にある巴塚はあくまでも供養塚であり,巴のお墓ではないことになりますね。
日義村義仲館にあった義仲の系図を見ると,子義重だか義基だかをどこかへ隠しておいたらしく,その子孫が代々木曽家を継いできたということなので,少なからず木曽の地にはまだ巴のゆかりの人たちが生き残っていたに違いありません。
個人的には,巴は,最後に生まれ育った木曽の地に戻り,木曽の地で終焉を迎えたと考えたいですね


これまで,義仲をとりまく女性たちの史跡について語らせていただきましたが,最後に巴,山吹,葵以外の女性についてもふれて終わりにしたいと思います。

義仲は上洛後,藤原基房卿の娘伊子(尹子)を娶りました。一般には,「娶った」というより「奪った」といわれていますね。
平家物語でも,義仲が最後の戦いに行く前にこの姫のもとに立ち寄り,別れを惜しんでなかなか出陣しようとしないので,部下がその場で自害して出陣を促した話があるくらい,義仲はこの姫に執着していたのかもしれません。
吉川英治氏の「新・平家」では冬姫という名前で,義仲戦死と同時くらいに自害したことになっていますが,上記義仲館の系図によれば,義仲を伊子の間に生まれた姫鞠子は鎌倉摂家将軍(何代目だったか忘れましたが…)の正室だか側室になったらしいことの記載がありました。
そうなると,義仲と伊子は出会って数ヶ月しか経っていないうちにそれぞれ亡くなったことになり,子が産まれることも不可能です。
少なくとも伊子は,義仲の死後も生き延びたのでしょう。

また,義仲には妹宮菊がいたとされており,義仲館で購入した小冊子の年表によると,「1185年5月1日源頼朝,木曽義仲の妹宮菊を鎌倉に召し,美濃国遠山庄内の一村をあてがい,信濃の御家人小諸太郎らに扶持させる。」
と記載されております。
この出典は,鎌倉がらみの内容から,吾妻鏡かなんか記載なのかもしれませんが,ワタシにはわかりません。
その年の4月21日に義仲の嫡子義高が討たれているので,それに伴う義仲関係者への処理の一環だったのかもしれません。

以上をもちまして「義仲の女たちの史跡」シリーズは,終了したいと思います。
とりとめのない話ばかりでしたが,ご覧いただきありがとうございました。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
>あかねさま (ぴえる)
2005-11-10 23:36:45
まいどご購読ありがとうございます!

おお,鞠子さんを題材にした小説があるんですね。

なにげに頼朝の死後から承久の乱あたりまでの話となるとかなり疎くなるので,そういう小説で勉強してみたいですね。

読んだらご感想を聞かせて下さい

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お疲れさまでした^^ (あかね)
2005-11-10 21:35:00
こんばんは。「義仲の女たちの史跡」シリーズ面白かったです

実際に史跡巡りされててすごいと思います。



義仲の娘の鞠子って確か2代将軍頼家と結婚したような・・・。この女性、小説の題材に取り上げれているんですよね。そのうち読んでみるつもりですが、それくらい波乱万丈な人生だったのかなあと思ってしまいました。
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