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やっぱり風邪だ

2014-05-26 20:53:43 | Weblog
こんばんは~、マリーで~す。

うちのおばはん、今日はもうブログ書かない予定で朝のうちに簡単なのと、過去ブログの再掲と二つ出しといたのよね。一昨日も昨日もあんまり具合よくなくてミサも休んじゃってるし、今日の講座も休んだほうがいいんじゃないかって言ってあげたのにさ、何とか大丈夫みたいだからって出かけたのよ。ほんでもって帰ってきたら、頭が痛い、歯が痛いって、いつもの熱が出てる時の症状じゃないの。ロキソニンで今おさまってるけど、明日また出歩くとぶり返しそうな感じよ。

ちょっとさあ、あの人暑がりの寒がりだから、今の季節って掛け布団も調節が必要なのよ。二日続けて朝起きたら掛け布団が落ちちゃっててさ、あれで風邪ひいたんじゃないかしら。こんなんじゃどうしようもないじゃないの、まったく。

今日の講座のはなし? えっとねえ、なんだっけな、あの人が調子悪そうだったからあたしもよく聴いてなかったんだけど、たしかイエス様の福音と病人の癒しのことだったような気がするわ。うちのおばはんて教会でこのごろ結構多くなった病者の癒しのミサとか癒しの祈りってあんまり興味がないのよね。あの人それほど健康でもないけど宗教に病気の癒しを求めるって、なんかあの人の感性に合わないのね。病気の時は病気を受け入れる、健康な時はなおいい、それ以上のことに興味がないんだわさ。

そっちがいい人はもちろん、癒しのミサでも、癒しの祈りでも何でも参加すればいいけど、うちのおばはんはお付き合い以外、自分からは行かないのよ。好きじゃないんですって。なんていうかどうでもいいのよね。あのね、お友達や家族のためなら祈るけど、自分のためだったら癒しはそれほど求める気がしないみたいよ。子供の時からあの人がほしいと思っていたのは癒しなんて中途半端なものじゃなくて終わりのないもの、永遠のものでなきゃいやなのね。それ以外は結局いつかは必ず終わるんだし、そんなものはいやだって思ってるみたいよ。

だけどそれでも切実に癒しのミサや、癒しの祈りが必要だって感じてる人もいるし、反対なんてしないわよ。ただ、あの人自身はそれじゃないものがいいって思ってるだけ。その辺はまあしょうがないわ。なんたって、あの人のお父さんの本当の親、お祖父さんに当たる人がお坊さんだったせいか、お父さんがへんてこだったのよ。

お正月って言うと毎年元日に、家族が集まったところで、門松や冥土の旅の一里塚、なんて一休禅師の道歌なんか聞かせる人だったんだから。あの人、お父さんがそんなだったから子供の時から、尼さんになりたいって思ったりしてたのが、なぜかキリスト教の信者になっちゃったのね。出だしからしてちょっと体の癒しとは方向が違ってたみたい。

とにかく、本格的に風邪ひきさんになっちゃってるし、明日もこれはもうお休み確定だから、今日はこのへんでおしまい。ほんじゃまたね。


過去ブログから 貧しさの基準

2014-05-26 09:19:24 | Weblog

実を言うと今から30数年前の修道院の生活を思います。私は当時プロテスタントの信者で、田舎の小さな開拓伝道中の教会に所属し、会社の仕事でくたびれていても人手が足りない教会でしたから日曜日はもちろん土曜日の帰りにも日曜日の準備のために教会に行くような状態で、疲れきっていました。

牧師夫妻も若くて、熱意はあってもお金が無いので、牧師の仕事の傍ら、千葉県の某工業高校の夜間部で教えていましたし、奥方も女性伝道者兼奥さん業兼お母さん業兼英語熟の先生で頑張っているような教会でした。その生活を見ていたので清貧というのはこういうものという基準ができていたわけです。

しかし、それはそれとしてくたびれちゃったんですねえ。おまけに牧師の思考とこちらの考えがかなり違っていて、それにも疲れてしまい、これじゃない、子供の時に教わったキリスト教はこれじゃない、と思い始めてカトリックへの改宗を考えたのでした。

そして、カトリック教会に足を向けた頃、知り合いに誘われて当時千駄ヶ谷にあったイエスの小さい姉妹の友愛会に行ってみました。今は労働修道会という位置づけのようですが、当時は観想会でありながら世間の真っ只中で祈りの生活をしている会として、観想会の位置づけでした。

行って見て実際に会のシスターたちの生活を見ると全然違和感がなかったのです。だって、私のいたプロテスタントの教会の牧師夫妻の生活ときたらこのシスターたちと同じくらいボンビー(びんぼー)生活でしたからね。そして同じくらい清潔な生き方をしておられたのですから。お金も物もないけれど、決してだらしの無い生活ではない、神様のためにささげた生活でした。

ただそれだけにこの会には全然入りたいとは思えませんでした。だってこの生活なら特に修道院に入らなくてもプロテスタントの教会で散々お付き合いしていたのですから。どうせわざわざ修道院の生活を考えるならもっと、ちゃんとした普通の修道生活というものに憧れると思いましたよ。

今でも小さい姉妹の会のシスターたちとはたまには交流もありますけど、あの会にとは思えません。けれども同時に本来の修道生活の清貧というのはこの会の生活基準のようなものだったのだろうなあ、とも思います。あの会の行き方こそ私には貧しさの基準です。おかげで、この20数年いろいろなことがあってほんとに大変な思いをしても何とか耐えてきたのは基準を持っていたからです。

あのシスターたちの生活を見ていれば、お金が無いからといってあせったりしません。それなりの生活があるのを知っていますから。今後、しばらくお金の足りない生活になりそうですが、あわてません。万一世界的な天候不順で日本も食糧不足などということになったら、まあ、仕方が無い、神様にお任せしていくだけです。この人生戻れない「旅」だそうですから、どういう経路をたどってもいずれは終点につくので、それまではそれなりに生きていくだけですね。

ただし、正義と公正の要求はしなくてはいけないことだとも思っています。

中国製のアンドロイドパソコン

2014-05-26 08:25:06 | Weblog
魔が差してついamazonで買ってしまった格安のアンドロイドパソコン、OSがアンドロイドのパソコンだ。しかし、この買い物、いまだによかったか悪かったかわからない。なにしろただの飾り物になっていて、お金の余裕のあるときにポータブルwifiルータを買わないとパソコンとしては動かないから、いまはUSBメモリーを使って、動画を見るくらいにしか使っていない。

何しろ、格安もいいところだった理由もだんだんわかってきてあきれたのは、電源。日本製の普通の電源と同じつもりで充電して3時間以上そのままつなぎっぱなしにしていたら、まさかの充電器が加熱して異臭がしてきたからあわてた。これは使い物にならないと思い、そのまましまいこんで置いたが、電源はお話にならなくても、本体ディスプレイのカラーは非常に美しいし、そのうちポータブルwifiを買えば機能はたいしたことはなくてもパソコンとして動くはずだし、電源だけなんとかしようと、もう少し上等だった手持ちのポータブルDVDプレイヤーの充電器を試したところ、ちょうど同じサイズでちゃんと充電もできた。

この買い物、果たして成功か失敗か、今のところまだ不明だ。しかしもうちょっとちゃんとしたchromeパソコン、日本では売り出さないのだろうか。ギガジンなどを見るとすでに海外では出ているらしい。

重さも軽くて、大きさは7インチ、バッグにも楽に入る、実用に使えればタブレットより便利なのにいまいちのアンドロイドパソコン、実に惜しいところだ。