別れの言葉

2011-08-10 09:58:07 | インポート

お分かりの方もおいでと思いますが、『相棒』劇場版Ⅱのサウンドトラックです。ご存知ない方もおいでかもしれませんから念のため紹介しておきます。

    http://www.youtube.com/watch?v=9QOItYljjhA

映画のラスト近く、右京さんが一人で小野田官房長との長年の愛憎入り混じった関わりを回想しているかのような場面で流れる曲です。なにしろ、相手は右京さんを最も理解し、評価しながら、考え方はまるで違っていて、その昔、右京さんが二階級降格させられ特命係りに追いやられた原因の張本人でもあり、しかもその後の協力関係を思えば、半ば敵対しながらそれでいて、なくてはならぬパートナーだったこの人物に対する思いは複雑だったはず。官房長自身、死に際の最後の言葉が「殺されるとしたらお前にだと思っていた」というのですから、相当に緊張した関係だったのでしょう。

しかし、その後のいくつかの場面を経てこの曲が流れた中、葬送の場面で人々にまじって特命のふたりが官房長を載せた車を見送った後、右京さんは新たな戦いの始まりを宣言し、神戸くんに「それは官房長の意に反するのでは・・・」といわれると、「それはわかっています。しかし、僕は僕の進む道を変えるわけには行きません。それが僕の官房長へのお別れの言葉です」と言って歩き始め。映画は終わります。

この映画はそこで終わりますがこれを見てこちらは考え込みます。亡くなった小野田官房長について、どなたかが、これこそ平均的な日本のおじさんと表現していたのを思い出します。組織をまとめていく全体的なバランス感覚、清濁併せ呑む間口の広さというか適当さ。それにくらべると右京さんはよく言えば一本気、悪く言えば頑固、片意地、思い込みが激しいということになってしまいそうです。

でも、ふとここで思い出すのは前にも書いたことのある戦国時代末期のキリシタン大名、高山右近の生涯。これも見ようによっては頑固、片意地を通した一生といえるような気がします。いやいや、高山右近に限りません。長崎五島の島々に今も残る、明治期のカトリック教会の建築物。それを建てた人々の先祖代々の信仰、死んでも命より大切なものがあることを身をもって示した人々の思い。これも見方によっては頑固、片意地、思い込みが激しいということにならないでしょうか。

   http://www.youtube.com/watch?v=-VgrbF1rmLI

これは現代の作曲家がキリシタン殉教の歴史を持つ黒島のイメージを合唱曲に作ったものですが、もし人間が自分の信じる大きな価値あるもののために、あくまでもこれが自分の道だと主張し続けなかったら、後の時代の人々にこれだけの感動を与えることが出来たでしょうか。時には頑固、片意地、思い込みにも価値があるのではないでしょうか。日本で安楽に暮らすことより大海原を小さな船で渡っていく事を選び、やっとマニラに着くとすぐに亡くなってしまった高山右近の頑固、片意地、思い込みがなかったら、豊かな土地での生活よりも信仰を守るために、小さな貧しい島の生活を選んだ隠れキリシタンの先祖たちの頑固、片意地、思い込みがなかったら、現代の日本はなんと情けない国になっていたことか。

『相棒』はドラマ、一作の映画の中の世界ですけれど、この話が言いたいのは結局そこに通じているのではないでしょうか。官房長のいうように、やりすぎはよくないというのもまあ確かでしょう。でも、時と場合によっては個人も何かを選ばなくてはならないのかもしれません。何を選ぶかはそれぞれの人、一人一人に問われている、ということになります。