今、見直してどこでひっかかっているのかわかった。何のことはない“正義”はどうなるのだというところで文句がでてきているのだなあ。1000年後には誰もこんな話は覚えていないだろうというのに。
先日、久しぶりに告解にいったら、ずいぶん怒られた。で、半分納得して半分納得していない自分がいる。
たしかに神様のなさることは人間の考えでは全体を見通すことなどできないし、人間の考えでああだ、こうだということはできない。そこはわかる。このところかなり教会に批判的になっていて、あまり熱心にいっていないのも認める。だけど、なんかちょっとどうも・・・
だけど、言いたくはないけれど私の今の状況、どちらかというと教会側のある方々に問題があったような気がするのですけど。80過ぎた方たちに文句を言うのは趣味ではないのであまり言いたくないのだけれど、いつ死んでもいい生き方をといわれても、そんなことは子供の頃から考えていたから、教会でいろいろごたごたがあっても、30数年ずっと待っていたんじゃないの。でも、さすがにおばはんからおばあさんに近くなってきては、若い頃と同じにはいかないのも自覚して、可能な範囲でと思い始めたのだけど。
私の知り合いの方たちにしても、この25,6年、どうして私がまともに就職できなくなって生活保護になっているのか真相は知らないじゃないの、困るんだわ。杉並区が何も知らないでいたのも困るけど、教会も何も知らずにいたのだもの、まったく困るわ。ずーっと、マスコミや政財界は、ある一部の方のいうことばかり信じて私自身を全然見ていなかったのだけど。教会もつい最近まである方の言いなりだったし、どうしようもなかったこの年月は、こちらの責任のような気がしないのだけど。
いやいや、こんな文句を言いたいのではなくて、なんというか怒られた内容の半分ぐらいにはズレを感じてしまっているわけだ。半分はたしかにそのとおりで、本来は何も言わずに頭を下げるのが本当なのだが。これは生意気なだけなのだろうか。